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8 毒婦の、はじめかた


 嫁いできた妻と暮らして、ひと月あまりが過ぎた。




 朝になれば妻の淹れた茶があり、午後には焼き菓子が出て、庭の薬草は青々と茂っている。執務机の隅には彫りかけのアヒルが何体も並ぶようになった。妻が笑うたびに一体増やしたくなってしまう。心なしか、朝日が差し込むこの部屋も前より明るい。




 怖い女のはずだった。三つの家を滅ぼした毒婦のはずだった。それが今では、俺の一日は妻ではじまり、妻の笑顔で終わる。自分でもどうかしていると思う。





 その朝、茶が来なかった。




 正確には来た。侍女が運んできた。薄い金色も花の香りもいつもどおりで、違うのは運んでくる手だけだった。妻の小さな手ではなかった。




 不思議に思って固まる俺に、侍女は「奥様はお加減が優れません」と言った。




 本当に?昨日はあんなにも元気そうだったではないか。俺が何かしたのだろうか。庭仕事を盗み見ていることが気持ち悪かったか?それとも廊下ですれ違ったときの無表情が怖かったか。いくら考えても分からない。部屋を尋ねればいい話なのに、その勇気が俺にはない。戦場には自らの足で向かえるのに。




 侍女に庭の矢車菊を切らせて妻の部屋へ届けさせると、礼を尽くした冷たい一文だけが返ってきた。<お心遣い、痛み入ります。>




 * * *




 昼過ぎ、届いた書簡の山に差出人のない一通が紛れていたのを見つけた。封蝋もない安い紙だ。嫌な予感がしながらも開ける手を止めることはできない。




『残虐公爵閣下。毒婦の手口を、ご存じか。』




 ゴクリ、不安で喉が鳴る。




『三人の婚約者は、いずれも蜜月ののちに破滅した。




 甘い茶。健気な笑み。手ずからの品。




 今が、その蜜月にございます。』




 誰が書いたかも分からない紙だ。さっさと捨てればいい。それなのに手から離れないのは、今朝のあの冷たい一文が頭から離れないからだった。昨日まで、あの距離が当たり前だと思っていた。あれは俺に都合のいい思い違いだったのかもしれない。




 戦場で学んだことがある。三度繰り返される事象は、敵の戦術だ。妻の婚約者は三人。三人とも甘い時期のあとに滅んだ。とすれば、この蜜月もまた順番が来ただけなのか。




 そもそも、俺は誰かに想われたことがあったか。考えてすぐにやめた。あるわけがない。この図体、この眼光、決して多くない言葉。あの笑顔も、本当はずっとおかしいと思っていた。俺のような男に向けられていい顔ではなかった。




 ほら見ろ。やはり、そういうことだったのだ。傷つくより先に納得が来る。ずっとそういう人生だった。




 その夜、俺は軍服を着た。襟元の銀のタイは締めなかった。




 * * *




 夕食は静かだった。




 長い卓の端と端で、妻は背筋を伸ばし、隙のない微笑みを浮かべて礼儀正しく食事を進める。完璧な公爵夫人だった。出会った日の健気な怯えも、庭で土まみれになった顔も、そこにはない。




 俺も無表情を貼りつけた。残虐公爵のいつもの顔だ。久しぶりに戻した本来の顔は、自分のものなのにひどく冷たかった。




 言いたいことはあった。今朝の体調不良は平気なのか。俺が何かしたなら言ってくれ。その笑顔は出会った日の擬態に戻ってしまったのか。なら、それは俺のせいなのか。




 言葉は一つも出なかった。こういうときに限って、一番伝えたいことほど喉の奥で渋滞する。




 妻が一度こちらを見た気がした。顔を上げたときには、もう伏せられていた。




「ごちそうさまでした」




 完璧な角度で礼をして、妻は出ていった。残されたのは手をつけられなかった皿と、締めなかった銀のタイの感触だけだった。




 毒など盛られていない。それなのにこの凍えるような痛みを、俺はやはりうまく言葉にできなかった。




 * * *




 厨房の隅で、ギルベルトとマルタが声を落としていた。




「ギルベルトさん。お嬢様が、朝のお茶をご自分で運ばれなくなりました」


「閣下も、今朝は一口も召し上がらなかった。軍服に戻られた」


「昨日まで、あんなに穏やかだったのに。一体、何が」




 いつもは減らず口の二人が、めずらしく黙り込んだ。




 その夜、青々と茂っていた庭に、季節外れの霜が降りた。




 誤解という名の花が、葉先から白く凍りはじめた。

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