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10 雪の谷の、ほんとう

 霜は三日続いた。屋敷の中も、同じだった。




 俺は残虐公爵の無表情に戻り、妻は完璧な公爵夫人の顔を崩さない。食卓では当たり障りのない言葉だけが交わされ、茶は侍女が運び、夜になればそれぞれの部屋の扉が静かに閉まる。




 言葉で尋ねればいいと、何度も思った。だが一言が、いつものように喉で渋滞して出てこない。戦場では命令一つで千の兵が動いたのに、俺は妻一人を相手に、何ひとつ伝えられない。




 三日目の夜、ふと窓を見ると、いつの間にか外が白くなっていた。季節外れの白い霜が、庭をひと晩で覆おうとしている。俺の妻の、薬草園を。




 考えるより先に体が動いていた。藁を抱えて庭へ降り、畝の前にしゃがみ込む。カモミールを、レモンバームを、妻が祖母の種から育てた小さな株を、一株ずつ藁をかけて霜から隠していく。今は亡き母が教えてくれた、霜避けのやり方だ。凍えた指がうまく動かない。それでも手は止まらなかった。




 これは妻のものだ。




 妻がこの屋敷で初めて、自分のものだと言えた場所だ。妻が俺を許さなくてもいい。冷たいままでもいい。だがこの庭だけは、枯らしたくなかった。




 背後で、霜を踏む足音がした。




 振り向くと、妻が立っていた。盆を持って。湯気の立つカップを一つ、のせて。




 * * *




 差し出されたカップを、俺は長いあいだ見つめた。それから何も言わずに受け取って、ひと口、飲んだ。霜の夜に、白い湯気が立ちのぼった。




「……温かい」




 たった一言だった。それしか出てこなかった。




「どうして」と、妻の声が震えた。「どうして、この、庭を?」




 言いたいことは山ほどあった。君がこの庭で初めて、心からの笑顔を見せてくれた気がした。その顔をもっと見たかった。けれど例によって言葉は渋滞して、口から出たのは短い一つきりだった。




「君が、楽しそうにしていたから」




 妻が息を呑むのが分かった。この機を逃せば、もう一生言えない気がした。だから俺は、誰にも話したことのないことを、つかえながら話しはじめた。




「俺の、百人斬りの噂……それ以外にも酷いものをたくさん聞いたんだろう」


「……はい」


「……誤解を解きたい。俺は斬っていない」




 雪の谷で、俺の隊が敵の三倍に囲まれた。部下がちょうど百人。俺は夜通し谷を駆けて囮になり、その百人を一人残らず連れて帰った。脇腹の古傷は、最後にしんがりを務めたときのものだ。




「気づいたら、百人斬りの噂になっていた。逆だ」




 別に今まで、誰に誤解されようがどうとも思っていなかった。しかし、妻にだけは、自分の悪評を信じて欲しくなかった。妻は菫色の目を丸くして、一つ頷いた。




「私の噂ももちろんご存じですよね……?」


「ああ……三人の婚約者を」


「それも、逆です!」




 妻は震える声で続けた。




「私、誰も傷つけていません。茶も毒じゃない。……でも、差出人のない手紙が来たんです。執務机の二段目を見ろ、と。開けたら、綴りが一冊。私のことが、何もかも書いてありました。過去の婚約のことも、好きな色も、体の寸法まで。私を始末するための筋書きなんだと、思って……」




 妻が急に凍りついた理由が、ようやく腑に落ちた。




 彼女が見たと言う綴りはすぐに分かる。あれは贈りものをするために、ギルベルトへ調べさせたものだ。好きな草を知りたくて、ドレスを仕立てる寸法が要って。それが、よりにもよって。




 そして、差出人のない手紙。俺の手が止まった。同じ夜、俺の書簡の山にも、同じ紙が紛れていた。毒婦の手口を知っているか、と。




「……俺にも、来た」




 妻が、はっと顔を上げる。




 誰かが俺たち二人に、毒を一通ずつ送ったのだ。妻には夫を疑えと、俺には妻を疑えと。同じ事実を、向きだけ逆さにして。




「違う」




 三語以上は噛むはずのその口が、このときだけはつかえなかった。




「君を知りたかった。喜ばせたかった。それだけだ。怖がらせたなら、すまない」




 百人を帰した夜より、この一言のほうがよほど勇気が要った。




「君の茶で、俺は三年ぶりに眠れた。あれが毒なら、世界中の薬が毒だ」




 その夜、すべてが解決したわけではない。誰があの手紙を送ったのか、これからどうなるのかも、まだ分からない。それでも、藁の下の土だけは、かすかに温かさを取り戻した。




 霜が、溶けはじめていた。

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