4 補給は完璧だ
妻の様子が、おかしい。
ここ二日、厨房の方角から、妻の気配と甘い匂いがするのだ。
「ギルベルト。報告を」
「はっ。奥方様は昨日より厨房に立たれております。……本日午後、閣下に焼き菓子を振る舞いたいと」
来た。
俺は執務机に両肘をつき、組んだ手の上に額を乗せた。茶の次は、菓子。固形物。液体より「混ぜやすい」一品である。
いや、待て。落ち着け。この三日間を思い出せ。妻の茶で俺の寝つきは人生最良になり、贈り物への返礼は金品ではなく一晩がかりの刺繍だった。あの矢車菊のハンカチ、刺繍糸になぜ俺の瞳と同じ色の花を選んだのかは、考えると執務が手につかなくなるので考えないことにしている。……盛る人間の仕事と呼べるか?
呼べない。だが彼女には三つの家を滅ぼした実績がある。
信じたい気持ちと警戒すべき実績。俺の中の天秤が軋んだ音を立てた、その時だった。
「閣下。僭越ながらこのギルベルト、毒見役を志願いたします」
ギルベルトが、恭しく一礼した。片眼鏡の奥の垂れ目が、明らかに面白がっている。こいつは分かっているのだ。俺がどう答えるかを。
「ならん」
「おや。なぜです?」
「妻の菓子だ。最初の一口は、俺のものだ」
言ってから気づいた。これでは毒見を拒否したのではなく、ただの独り占めである。ギルベルトが「ごちそうさまです」と頭を下げた。何をだ。
* * *
午後。陽の差すサンルームに、それは運ばれてきた。
蜂蜜色に焼き上がった、木苺を一つ載せた小さな焼き菓子。皿を運ぶ妻は、粉のついたエプロン姿のまま、銀の髪を労働用に高くまとめていて、細い首が、華奢な体つきをいっそう際立たせている。皿がカタカタと揺れているのは、何に対しての緊張なのか。
「お、お口に合うか分かりませんが……っ」
俺は迷うそぶりを見せず一つ摘み、口に入れた。
——なんだ、これは。
外は香ばしく、中はバターの香りでほどけ、蜂蜜の甘さの底に木苺の酸味が走る。甘い。美味い。俺は甘味のためなら隣国まで遠征できる男だが、これほどのものは王宮の晩餐でも出なかった。
言いたいことは山ほどあった。美味い。天才か。店が開ける。むしろ開かないでくれ、独占したい。毎日とは言わない、週に三度、いや五度——
感情が渋滞した俺の口から出たのは、
「…………補給は、完璧だ」
軍隊用語だった。
妻が「ホキュウ……?」と小さく繰り返し、菫色の目を白黒させている。違う。そうじゃない。俺が言いたかったのは、だめだ、言い直す言葉も渋滞している。俺は無言で二つ目を口に入れた。三つ目も。皿が空になった。これが俺の精一杯の雄弁である。
妻はしばらく呆然としていたが、空の皿を見ると、ぱっと頬を染めて笑った。
「!……お代わり、お持ちします!」
ぱたぱたと駆けていく小さな背中を見送りながら、俺は胸の内ポケットの上を押さえた。ハンカチが入っている場所だ。心臓が、また妙な音を立てていた。
毒など、どこにも入っていなかった。
いや——本当にそうか? この胸の妙な具合は、何かを盛られていないと説明がつかない気もするのだが。やはり、遅延性の毒なのかもしれない。
* * *
「マルタ殿。本日の閣下、奥様の菓子を九つも召し上がりました」
「ギルベルトさん。うちのお嬢様、お代わりを運びながら鼻歌を歌っておいででした」
「ふむ」
「ふむ〜」
目を合わせた二人は言葉にこそしなかったが、同じことを頭に浮かべていた。
(うちの夫婦は、相思相愛なのでは?)
誤解は、つぼみをつけていた。




