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2 残虐公爵、怯える

 妻が、来た。




 毒婦と名高い、レオノーレ嬢である。




 俺は執務室の机に肘をつき、深く息を吐いた。向かいでは副官のギルベルトが、楽しげに茶を淹れている。砂色の髪をきっちり撫でつけ、片眼鏡の奥の垂れ目を細めた、一見人畜無害な優男である。何が楽しいのか分からない。主人の命運が、今日から“毒物”と隣り合わせだというのに。




「で、閣下。奥方様の第一印象はいかがでしたか?」


「……怖かった」


「ほう?」




 怖い、これは本心である。




 玄関で初めて見た妻の姿を思い出す。月光をそのまま紡いだような銀の髪を、旅向きに編んで横に流し、小さな真珠のピンで留めていた。鳩羽色の慎ましいドレスに、飾り気といえば襟元の細いレースだけ。それなのに ——いや、それゆえに、大きな菫色の瞳と白い肌が際立っていた。長い睫毛、俺を見上げて健気に潤む目。背丈は俺の胸にも届かない。風が吹けば折れそうな、妖精のような人だった。




 あれで、三つの家を滅ぼしただと?




 恐ろしいにも程がある。あの可憐さは間違いなく擬態だ。あの慎ましい装いも「私は無害です」という演出に違いない。獲物を油断させる、毒花の蜜の甘さだ。現に俺は初対面の一瞬、見惚れて言葉を失った。危ないところだった。もっとも俺の場合、言葉は常に失っているのだが。




 ……後日の挙式では、あれが花嫁衣装を着るのか。




 大丈夫だろうか、俺は。いや、何がだ。




「彼女は玄関で、完璧な口上を述べられた。一切噛まずに」


「素敵でしたね」


「俺は『お初にお目にかかる、よく来てくれた、長旅で疲れただろうから今日はゆっくり休んでほしい』と言おうとして、最初の三語で噛む未来が見えたから、全部諦めて『もういい』と言ったんだ」


「あの場の全員に『口上などいらん』という威圧に聞こえておりましたよ」




 頭を抱えた。違う。違うのだ。




 俺は昔から、言葉が出ない。頭の中には言いたいことが全部あるのに、口に出すと三割になり、相手はその三割を最悪の方向に解釈する。戦場では困らなかった。命令は短いほどいい。だが社交界では、俺の寡黙は「残虐」の証拠として消費され続けている。




 逆らった部下を百人斬った?




 俺は部下を一人も死なせなかったことだけが自慢の男だぞ。




 敵将の髑髏で酒を飲む?




  酒は飲めない。甘いものが好きだ。誰が流したか知らんが……いや、知っている。宰相に間違いない。とにかく俺の悪評は、もはや俺の手に負えないところまで育っていた。




 そして、そんな男のもとに嫁いできたのが、毒婦である。




「ギルベルト。彼女の経歴をもう一度教えてくれないか」


「婚約者が三人、次々と破滅。社交界では『レオノーレに関わると家が滅ぶ』と。趣味は毒草……失礼、薬草の栽培だそうです」


「三人だ。三人だぞ。一人なら偶然、二人でも事故と言える。三人は戦術に違いない」




 俺は戦場で学んだ。三度繰り返される事象は、敵の戦術であると。




 つまり彼女は、嫁ぎ先を内側から崩す技術の持ち主なのだ。おそらく王命の裏には政治的な何かがあり、俺は次の標的にされた。ならば取るべき道は一つ。




「……懐柔する」


「ほう?」


「彼女が家を滅ぼすのは、おそらく当主に害意や隙があった場合だ。ならば、害意がないことを全力で示す。丁重に扱う。望みは全て叶える。毒を盛る理由を、一切与えない」


「なるほど。つまり閣下は、奥方様を全力で大切になさる、と」


「そうだ。命がけで大切にする」




 ギルベルトはなぜか、込み上げる何かを堪える顔で「それはもう、お幸せに」と言った。こいつは時々、主人への敬意を忘れている。




*  *  *




 翌朝。俺は誠意の第一手として、朝食の席に出向いた。軍服ではなく、襟元を緩めた白いシャツ姿。武装を解いた格好なら、多少は威圧感が薄れるはずでしょう、というギルベルトの入れ知恵である。




 毒婦——もとい、妻は、俺の顔を見るなり椅子から跳び上がり、完璧な角度のお辞儀をした。




 今朝の妻は、若草色の柔らかなモーニングドレスをまとっていた。昨日は結い上げられていた銀の髪が、今は背中に緩く流され、朝の光を受けて淡く輝いている。立ち上がっても、その頭のてっぺんは俺の胸の高さで止まった。小さい。本当に小さい。……いや、騙されるな。三つの家を滅ぼした女だ。言葉少なく席につくと、こちらに何かを差し出した。これは。




「お、おはようございます、旦那様。あの、よろしければ、こちらを」




 こちらの手元に置かれたのは、湯気の立つカップだった。薄い金色の液体。かすかに花のような香りがする。




 来た。




 初日の朝から、来てしまった。毒草栽培を趣味とする妻の、淹れた茶。これを飲むか飲まないか。飲まなければ「お前を疑っている」という意思表示になり、彼女に俺を排除する理由を与える。飲めば……死ぬかもしれない。




 差し出されたカップを受け取る手に迷いが見えているだろう。しかし、このまま疑いを見せて関係を壊すくらいなら、毒のほうがましだ。どうせ俺の評判は地に落ちている。せめて妻の前でだけは、誠実な男として死のう。




「あぁ、いただこう」




 ……暖かい。




 美味い。体の芯が温まり、強張っていた肩の力が抜けていく。なんだこれは。美味い。続けて、信じられないほどの眠気が……いや、これは毒ではなく、ただの心地よさだ。戦場以来、まともに眠れていなかった体が、温まって緩んだだけだ。




「お、お口に、合いましたか……? 」




 妻が、祈るような目でこちらを見ている。




 言いたいことは山ほどあった。美味い。香りがいい。こんなに穏やかな気分は何年ぶりか分からない。毎朝飲みたい。君は茶の天才なのか。




 俺の口から出たのは、




「……明日も、頼む」




 たったそれだけだった。だが、噛まなかった。俺にしては快挙である。




 妻は菫色の目を大きく見開き、それから、花がほころぶように笑った。長い睫毛が震え、白い頬にほんのり朱が差したように見える。




「はいっ! 明日も、必ず!」




 その笑顔に、俺の心臓が妙な音を立てた。落ち着け。相手は毒婦だ。この笑顔で三人の男が破滅したのだ。




 だが。




 毒でもいい、と思いながら飲んだ茶が、人生で一番美味かった。これは一体、どういうことなのだろう。




*  *  *




 ——同時刻、食堂の隅。




「ねえギルベルトさん、見ました? 旦那様、奥様のお茶を一気に」


「見ましたとも、マルタ殿。そして奥様の、あの笑顔」


「新婚初日から見つめ合っちゃって。なんですか、あれ」


「さて。なんでしょうなあ」




 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく頷き合った。言葉にはしない。口に出せば、野暮というものだ。




 主と新妻、存外、うまくいくのかもしれない。




 誤解は今日、最初の芽を出したばかりだった。

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