1 毒婦、輿入れする
輿入れの馬車の中、私は遺書の文面を考えていた。
「お嬢様、唇まで真っ白ですよ」
向かいに座るマルタが言う。当然だ。私はこれから、夫となる人に殺されに行くのだから。
グランハルト公爵ヴァイス様。国境戦争の英雄にして、社交界が震え上がる「残虐公爵」。
逆らった部下を百人斬った。敵将の髑髏で酒を飲んだ。気に入らない料理を出した料理人を氷が張る冬の湖に沈めた。噂の出どころは知らないが、火のないところに煙は立たないというし、半分ぐらいは本当だろう。殺した人数が実際は五十人だったとしても、私の首一つなど……誤差である。
馬車の窓ガラスに、輿入れ姿の私が映っていた。
月の光を紡いだような、と母が褒めてくれる淡い腰まである銀の髪。今日は旅向きにマルタが編んでくれたのを横に流し、小さな真珠のピンで留めただけ。まとっているのは鳩羽色の落ち着いた旅装のドレス。襟は詰まり袖は長く、飾りといえば襟元の細いレースくらいの地味なもの。実家にいる叔母が選んでくれた。
「派手にすれば計算高いと言われてしまうかもしれない。せめて装いだけでも悪評を打ち消して」
無駄だと思う。装いをどれだけ慎ましくしても、社交界の皆様は、この菫色の目が伏せられるたび「殿方を誘っている」と仰り、私が地味なドレスを選ぶたび「計算高い擬態だ」と仰るのだから。だいたい、キッチンの上の棚の鍋すら取り出せないこの小さな体のどこに三つの家を滅ぼす力があるというのか。
挙式は後日、公爵領の聖堂で行われるという。私が花嫁衣装を着る前に、首と胴の別れが来る可能性がある。
「……マルタ。私には策があるの」
「策、ですか」
「ええ」
遺書を書くつもりだった紙をぐしゃりと握りしめた。指先が白くなるほど、固く。
「全力で、好かれてみる」
「……はい?」
「考えてもみて。公爵様が斬るのは『逆らう者』なのよ。つまり、逆らわなければいい。それどころか、献身的で、気が利いて、いるだけで心安らぐ妻になれば、斬る理由がないでしょう?」
我ながら完璧な生存戦略だった。三度の婚約破棄を生き延びた女を、舐めてもらっては困る。私の取り柄は、修羅場での生存本能だけなのだ。
ちなみに世間では、その三度の破談をもって私は「毒婦」と呼ばれている。一人目の男は横領、二人目は賭博、三人目は二股、いや五股で勝手に破滅しただけなのだが、三家とも口を揃えて「レオノーレのせい」にした。おかげで私の薬草茶の趣味まで「毒草栽培」にされている。あれはおばあさま直伝の、ただの安眠茶なのに。
まあ、いい。毒婦の汚名を返上するのはもう諦めた。
今日からの目標はただ一つ。生きて、朝日を見続けること。
* * *
グランハルト公爵邸は、噂に反して明るい屋敷だった。
磨かれた窓。手入れされた庭。心なしか使用人たちの表情も柔らかい。落ち着きなさい、レオノーレ、騙されては駄目。恐怖政治が行き届いている、とも言える。
玄関ホールの中央に、その人は立っていた。
大きい。噂より、ずっと大きい。
見上げてもさらにとおい場所についた顔。私の頭ふたつ分は高い。黒地に銀モールの軍服が、鍛え抜かれた広い肩から腰へと一分の隙もなく沿っている。夜を溶かしたような漆黒の髪は無造作に流され、その下から覗く瞳は、冬の湖の色をしていた。灰色のような、光の加減で銀にも見える青のような。左の眉尻を掠める古傷が、彫りの深い無表情に凄みを足している。
ああ、なるほど。これは百人斬りの噂も立つ。立つに決まっている。眼光だけで人が斬れそうだ。
これが、残虐公爵。……私の、夫。
「お、お初にお目にかかります。レオノーレ・エルメンライヒでございます。本日より、誠心誠意、お仕えいた——」
「もういい」
低い声が、ぴしゃりと私の口上を斬り捨てた。
ひっ、と喉が鳴る。何がいけなかった? 口上が長い? 声が大きかった? それとも「仕える」という言葉選びが、かえって白々しかった……?
公爵様は私をじっと見下ろした。頭ふたつ分の高低差を、冷たい視線が見下している。鳩羽色のドレスの裾を握る私の指が、勝手に震えた。それから公爵様は、言った。
「……疲れただろう」
「えっ」
「部屋へ、茶と、菓子」
それだけ言って、公爵様は踵を返し、大股で去っていった。残された私は、その背中を呆然と見送る。
今のは、何?
疲れただろう、部屋へ、茶と菓子を。言葉だけ拾えば、長旅の妻への労りに聞こえる。だが待て。あの冷たい眼光。あの底冷えする低音。あれは労りの顔ではなかった。
分かった。毒見だ!
嫁いできた早々、茶と菓子を出して、毒婦がどう出るか試すのだ。飲まなければ「毒を警戒している=後ろ暗い」、飲めば飲んだで何か仕込まれているのかもしれない。なんという高度な心理戦……!
「お嬢様、旦那様はお優しい方なのではないでしょうか……?」
「マルタ、甘いわ。あれは罠よ」
私は決意を固め、部屋でゆっくり休むこともなく出された茶を音を立てて完飲した。誠意である。逆らわない、隠さない、全部飲む。菓子も三つ食べた。しっかり美味しかった。死を覚悟した人間の味覚は研ぎ澄まされるらしく、涙が出るほど美味しかった。
給仕の侍女が怯えた顔で下がっていった気がしたが、きっと「毒婦が無警戒に完食した」と報告に行ってくれただろう。
この勝負、受けて立つ。
私は生き延びる。何が何でも、好かれて生き延びてみせる。
この日、私は知らなかった。屋敷の奥で、まったく同じ決意を固めている男がいることを——。




