14 毒の、名前は
朝の光より先に、腕の中の温もりで目が覚めた。
妻が、いた。俺の腕を枕にして、こちらに背を預けるようにして眠っている。
しばらく、それが現実だと飲み込めなかった。戦場で鍛えたはずの判断力が、まるで働かない。淡い銀の髪が朝日を受けて枕の上に流れ、寝息のたびにかすかに揺れている。露わになった白いうなじと、薄い夜着からのぞく肩のあたりに、昨夜の名残のような朱がうっすらと散っていて、見ているだけで喉が干上がった。
俺の腕に預けられた頭の、信じられないほどの軽さ。少し汗ばんだ額に、銀の髪が一筋貼りついている。払ってやりたいのに、指一本動かす勇気が出ない。
三つの家を滅ぼしたと噂された毒婦が、社交界を震え上がらせた残虐公爵の腕の中で、こんなにも無防備に眠っている。世界で一番警戒すべき二人が、世界で一番穏やかな朝を迎えているなんておかしな話だ。
寝台の脇には、昨夜の花冠がそっと外して置かれている。青い花は少し萎れて、それでもまだ庭の匂いがした。それが妻の匂いと入り混じって、横になっているのに頭がぐらついた。
部屋にあるのは、二人分の寝息と、衣擦れの音だけ。こんなに静かで満たされた朝は、人生で初めてだった。
しかし、動けない。腕を動かせば妻が起きる。起きてほしくないが、起きてほしくもある。起きたら何と言えばいいのだろう。おはよう、か。昨夜は、その、すまない、なのか。何がだ。戦場でも、これほど指揮系統が乱れたことはなかったぞ。
結局、俺は息を殺して天井を見ていた。百九十を超える図体の男が、小さな妻ひとりを起こさないために、丸太のように硬直しているなんて。
やがて妻が、菫色の目を薄く開けた。俺と目が合うなり、見る間に頬を染める。
「……お、おはよう、ございます」
「……ああ」
言葉は相変わらず続かない。だが今朝はそれでよかった。妻が、ふ、と笑ったから。あの霜の前に毎朝見ていた笑顔だ。取り戻せたのだと、ようやく思えた。
しばらくして、妻が「お茶を、淹れてきます」と起き上がろうとするのを、俺はとっさに抱きしめて止めていた。自分でもなぜそうしたのか分からない。
「……今朝は、いい」
「え」
「……ここに、いてくれ」
言ってから、耳が燃えるように熱くなった。妻はもっと赤くなって、それでも小さく頷くと、また腕に戻ってきた。誰かが……愛しい人が、そばにいるほうがいい朝が、この世にあるとは知らなかった。
胸の凍えるような痛みは、もうない。代わりにあるのは、温かくて少し苦しくて、手放したくない何かだ。毒によく似た、けれど毒ではないもの。その名前が恋であることを、俺はもう否定できない。
ただ、それを妻に伝える勇気はまだない。命なら差し出せるのに。だが心は、断られるのが怖い。妻が同じものを返してくれる保証など、どこにもないのだから。
* * *
厨房では、いつまでも朝の茶を取りに来ないレオノーレに、マルタとギルベルトが顔を見合わせていた。
「ギルベルトさん。今朝は、お茶のお呼びがありませんねぇ」
「ええ。今日ばかりは、誰も呼びに行かんのが礼儀でしょうな」
言葉にはせず、二人は静かに湯を落とした。
霜の溶けた庭では、青い花が今を盛りと咲いている。二人のあいだに降りた誤解の霜も、もうすっかり溶けていた。
その霜を降らせた者が、まだ庭の外にいる。それだけを、二人は心の奥にしまっていた。
第一章、ここまでになります。
結ばれた二人の続きも、ぜひ読みにきてください。




