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12/23

12 知らない、戦

 婚儀を明日に控えた夜、俺は書斎でこの十年一番の難戦に直面していた。


 向かいに模擬司祭のギルベルト。机の上には、明日読み上げる誓いの言葉。全文で、六十二語。


 俺の生涯最長発話記録は、軍の昇進式での二十一語(うち八語噛んだ)だ。倍以上ある。無謀な戦線拡大に他ならない。だが、この戦は退けない。


「では閣下、頭から、さんはい」

「……ち、誓いの、言葉を……述べる、に……あたり」

「閣下。前置きでつっかからないでください」


 頭を抱えた。明日、あの聖堂に、妻が白い花嫁衣装で立つというのに!


 想像するだけで、また固まってしまう。月の光をそのまま紡いだような、淡い銀の髪。伏せれば長い睫毛が白い頬に影を落とす、大きな菫色の瞳。俺の胸にも届かない、抱けば折れてしまいそうなほど小さな体。あれが純白をまとって祭壇に立つのだと思うだけで、誓文の文字が頭から滑り落ちていく。


 対して、隣に立つ俺はどうだ。壁際の衣装掛けに吊るされている明日の衣装は、漆黒の生地に銀糸の刺繍が走っていて、仕立屋が腕によりをかけた一着だ。夕方に袖を通したとき、鏡の中の男は花婿というより処刑人に見えた。ただでかい図体。眉尻の古傷まで含めて、実に噂通りの“残虐公爵”仕上がりだった。


 その対比を、明日は数百の貴族が眺める。あの手紙を書かせた宰相の手の者も、間違いなく混じるだろう。俺が誓いを噛めば、笑われるのは俺ではない。「あんな化け物に嫁いで、可哀想に」と、隣の妻が笑われてしまう……。


 夜半、ギルベルトが言った。


「閣下。全文は……諦めましょう!誓いとは、長さではありません。心から一番伝えたいことだけを仰ってください。閣下の短い言葉が誰より重いことは、このギルベルトが証明します」


 一番、伝えたいこと。


 天井を見上げると、その言葉は驚くほどすぐに浮かんだ。問題は、それを人前で口にする勇気のほうだった。


 政略で始まった結婚だ。あの妖精のような娘が、わざわざ俺を選んだわけではない。今もただ務めとしてこの家にいるだけか、もしくは俺はこの先、騙されるのかもしれない。それでもいい。明日言う言葉だけは、政略でも務めでもなくあの霜の夜からずっと胸にある。


 こんな心持ちは、生まれて初めてだった。


 戦場ならいつでも次の一手が見えたのに、妻のことになると何ひとつ読めない。茶を渡されただけで指揮系統が乱れ、笑われればその日の作戦はすべて瓦解してしまう。あんなに小さな娘ひとりに、俺は完全に布陣を崩されていた。二十八年も誰にも明け渡さなかった胸の奥がいつのまにかあの小柄な娘に占領されていて、攻め方も退き方も分からないまま立ち尽くすしかない。こんな戦を、俺は知らない。


 これを……「恋」と呼ぶのだろうとは思う。噂に聞くのと自分のものになるのとではまるで形が違っていて、こんなに温かくこんなに心許ないものだとは、誰も教えてくれなかった。


 それでも名前をつけるのはまだやめておく。名前にしてしまえば、断られたときに失うものの大きさまで、はっきりしてしまうから。


 俺は誓文を、そっと閉じた。

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