11 もう一度、頼む
話は、少し戻る。
霜が降りて三日。私は完璧な公爵夫人の顔のまま、凍えていた。
あの綴りを見てからずっと、優しさのすべてが観測に見えていた。茶も、菓子も、庭も、瞳の色のドレスも。だから自分の手で茶を運ぶのをやめ、ドレスを簞笥の奥にしまい、礼だけを尽くして、もう一歩も踏み込ませないようにしていた。
知ることと、信じることは違う。私は三度、優しい顔をした人に捨てられてきた。だからもう、優しさの後ろにあるものを探さずにはいられない。
三日目の夜、眠れないまま水を取りに廊下へ出て、私は窓の外で足を止めた。
霜に白く沈んだ庭に、大きな黒い影があった。旦那様だった。
外套も羽織らず、薄い夜着のまま、私の薬草園の畝の前にしゃがみ込んでいる。手には藁。凍えた手に息を吹きかけながら、霜よけの藁をかけて回っている。私が届けなくなった茶の、その葉を。たった一人で。
気づけば私は、湯を沸かしていた。いつもより多めに蒸らした茶を盆に乗せ、凍える庭へ降りていった。
そのあと交わした言葉を、私はたぶん一生忘れない。百人を帰した夜のことも、私のために謝ってくれた声も。あの同じ夜に、旦那様のもとにも差出人のない手紙が届いていたと知ったことも。
誰かが私たちを引き裂こうとしたのだ。事実を並べて、向きだけを逆さにして。
* * *
翌朝からまた、私は自分の手で茶を運んだ。旦那様は受け取るとき、ほんの少し手を震わせたように見えた。
「……明日も、頼む」
出会って二日目の朝と同じ言葉だった。違うのは、もう毒を覚悟していない顔だったこと。
「はい。毎朝、必ず!」
庭の薬草は、一株も枯れていなかった。藁の下で、土がまだ温かかったらしい。私はしゃがみ込んで、少し泣いた。
ふとした拍子に、いつもの声がする。
あの人は、妻を守るのが務めだと思っている人だ。だから守ってくれた。守ってくれることと、想われていることはたぶん違う。せっかく溶けた霜を自分でまた降らせようとする、こんな私の癖はそう簡単には消えてくれない。
でも今朝は、その声に少しだけ背を向けて前を向ける気がした。
* * *
その日の昼、ギルベルトが例の二通を調べてわかったことを教えてくれた。紙も墨も、市井のものではないこと。同じ筆跡で、私たちの過去を正確に押さえた者は、そう多くないこと。
「『残虐公爵』の悪評を、長く流してきた御方がおられます。……お二人の仲が良すぎるのを、面白く思わない御方がいるのかと」
宰相、という名が、静かに食卓へ落ちた。
旦那様の横顔が翳る。怒りではなく、もっと冷たい何かだった。
私はそのとき、逃げて守るだけの女はもう終わりにしてもいい、終わりにするべきなのかもしれない、と思った。誰かに筋書きを書かれる前に、今度は私がその手を読む。三度の破談で処世術の一つ、身についているはずだ。
* * *
厨房の隅、マルタとギルベルトが湯気の向こうで顔を見合わせていた。
今朝、奥様の手からまた茶が運ばれ、棚の彫りかけのアヒルが、一体増えていた。それだけで、二人にはもう十分だった。
「……まあ、うちの夫婦のことですから」
「ええ。心配するだけ、野暮でしたな」
言葉にはしない。けれど今度は、二人ともちゃんと頷き合えた。
* * *
その夜、旦那様がめずらしく、自分から切り出した。
「……延ばしていた、挙式を」
続きはギルベルトが引き取った。霜も解けたことですし、庭の矢車菊が満開を迎える頃に、公爵領の聖堂で式を挙げましょう、と。
挙式。輿入れの日、私は馬車の中で遺書の文面を考えていた。花嫁衣装より先に、首と胴の別れが来るものだと本気で思っていた。
それが今は、どうだろう。聖堂へ向かう自分を想像するだけで、胸がこわいくらいに高鳴る。隣には、夜の色の髪に冬の湖の瞳をした、見上げるほどの人。社交界が「猛禽」と恐れたその横顔が、今は見惚れるほど綺麗に見えるのだから、我ながらどうかしている。
窓の外、霜の溶けた庭で、矢車菊がひとつ、青い蕾をほどきはじめていた。あれが満開になったら、私はあの花で花冠を編もう。自分で育てた青を頭にのせて、今度こそ、ちゃんと花嫁になるのだ。




