後編
王都は、もはや“都”とは呼べなかった。
崩れた城壁。焼け落ちた家々。通りには瓦礫と、逃げ遅れた者たちの悲鳴が散らばっている。
鐘の音はとっくに鳴り止み、代わりに響くのは魔物の咆哮だった。
「なぜだ、どうしてこうなった!!」
王城の玉座の間で、アルベルト王太子は頭を抱えていた。数日前まで、すべては“問題ない”はずだった。
聖女はいる。民もいる。自分もいる。何一つ欠けていないはずだった。
それなのに。
「殿下、北門が突破されました!」
「東区でも火の手が!」
「負傷者が収容しきれません!」
次々と飛び込んでくる報告に、思考が追いつかない。
「ーーエレノアは!?」
ようやく絞り出した声。
「こ、ここに、おります」
弱々しい声が、玉座の間の隅から聞こえた。振り向けば、そこには座り込むエレノアの姿がある。
豪奢な衣は泥に汚れ、髪も乱れていた。
「結界はどうした!!なぜ張られていない!」
「わ、わたし、な、何度も祈って、でもーー」
涙で滲んだ瞳が揺れる。
「何も、起きなくて・・・」
その言葉に、空気が凍りつく。
「・・・何も?」
「はい、わたし・・・聖女なのに」
ぽつりとこぼれた言葉。
その瞬間、アルベルトの中で何かが繋がった。
――聖女の力など、象徴に過ぎない。
――重要なのは“心”だ。
自分が、そう言った。
何度も、何度も。
「ーー違う」
小さく呟く。
「違う。そんな、はずは」
だが、目の前の現実は変わらない。結界はない。浄化もない。魔物は入り込み、民は倒れていく。
「・・・リシェル」
その名が、無意識に口からこぼれた。
それから半日後。
王城の一室に、埃まみれの使者が駆け込んできた。
「報告いたします! 元聖女リシェル様の所在が判明しました!」
アルベルトが勢いよく顔を上げる。
「どこだ!」
「帝国領へ向かう街道で確認されております!」
その言葉に、場の空気が一変した。
「すぐに使節を出せ!」
椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「いや、私が行く」
「で、殿下!?」
「この状況だ、悠長に構えていられるか!」
その頃。
帝国の城は、静かな光に満ちていた。
高くそびえる塔。整えられた庭園。王国とは違う、重厚で揺るぎない空気。
「お帰りなさいませ、リシェル様」
深く頭を下げる侍女たち。
その中心を、リシェルはゆっくりと歩く。
「ただいま戻りました」
穏やかな声。
それは王城にいた頃と変わらないはずなのに、どこか空気が違っていた。
「お待ちしておりました」
広間の奥から、一人の男が歩み寄ってくる。
銀の髪に、静かな威圧感を宿した瞳。
帝国の皇太子――カイル。
「少し遅くなりました」
リシェルは自然な所作で礼を取る。
「いいや。戻ってきてくれただけで十分だ」
カイルはわずかに微笑んだ。
「君がいない間、随分と静かでね」
その言葉に、リシェルは小さく目を細める。
「では、これからは賑やかになりますね」
「ああ。そう願っている」
短いやり取り。
けれどそこには、無理も遠慮もなかった。
「――リシェル!!」
その名を呼ぶ声が、場違いに響いたのは、その直後だった。振り返ると、そこには荒れた姿のアルベルトが立っていた。
護衛に止められながらも、必死に前へ出ようとしている。
「リシェル!頼む、話を――」
「止まりなさい」
低い声が、空気を切った。
カイルの一言で、場が凍りつく。
「無礼だな。ここがどこだか理解しているのか?」
「そ、それは、しかしっ!」
言葉を詰まらせながらも、アルベルトは必死に視線をリシェルへ向けた。
「頼む、助けてくれ!」
その言葉に、リシェルはほんの少しだけ首を傾げた。
「何を、でしょうか?」
「王国だ!このままでは滅びる!」
「そうですか」
あまりにもあっさりとした返答。
「そうですか、じゃない! お前がいなくなってから、すべてが――」
「殿下」
静かに言葉を遮る。
「“問題ない”のではありませんでしたか?」
言葉が、いや全てが止まった。
誰も口を開かなかい。静寂が広がった。
「聖女の力は象徴で、“心”が大事だと」
淡々とした声音。
「祈れば十分だと、そう仰っていましたよね」
「そ、それは、あの時は!」
「では、どうぞ祈り続けてください」
微笑む。
それは、かつて王城で見せていたものと同じはずなのに――まったく違って見えた。
「なぜ」
「わたしはもう、王国の聖女ではありませんので」
はっきりと告げる。
口をパクパクさせるだけの王子にしびれを切らしたのか、カイルが静かに問う。
「新たな聖女がいるのだろう?」
「っ!」
アルベルトの顔が歪む。
「彼女は、その」
言葉にならない。
「それが答えです、殿下」
リシェルは静かに言った。
「ーーリシェル、頼む」
それでもなお、縋るような声。
「お前なら、救えるだろう?」
少しだけ、考えるように目を伏せる。
そして。
「――お断りいたします」
きっぱりと、言い切った。
「なぜだ!!このままでは、多くの民が死ぬんだぞ!!」
「ええ。存じております」
「ならば――!!」
「ですが」
その声を、静かに断ち切る。
「それを選んだのは、殿下です」
言葉が、突き刺さる。
「わたしは、機会を与えました」
「ーーっ」
「それでも手放したのは、あなたです」
一歩、後ろへ下がる。
「ですので、その結果はご自身でお受け取りください」
長い沈黙。
やがて、アルベルトは力なく膝をついた。
「お帰りのようです」
リシェルの一言で、兵たちが動く。抵抗する力もなく、彼は連れていかれた。
静けさが戻る。
「いいのか?」
カイルが問う。
リシェルは、少しだけ空を見上げた。
「はい」
そして、微笑む。
「わたしには、もう関係のない国ですから」
その後、王国がどうなったのかを、正確に知る者はいない。ただ一つ確かなのは、かつて栄えたその国が、二度と元に戻ることはなかったということだけだ。
帝国の庭園に、柔らかな風が吹く。
「こちらへ」
差し出された手を、リシェルは自然に取った。
「これから忙しくなる」
「ええ。王妃としての務めがありますから」
並んで歩くその姿は、静かに、けれど確かに釣り合っていた。すべてを手放した少女は、本来あるべき場所で、すべてを手に入れたのだった。




