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春秋の牡丹9話

九章 豫譲


   1

 

 豫譲の憂いの元は、范吉射から与えられた仕事の内容であった。一旦敗戦したとは言え、斉の英雄にまで返り咲いた大軍師の秘書官ならば、出世と喜ぶのが常識である。だが、彼は自分の剣術を活かして欲しかったのだ。

 それは豫譲の少年期に遡る。彼は読書だけでなく、古の物語に登場する英雄に憧れて剣を好み始めた。父の豫太公としては、年老いてから漸く授かった息子を危険な戦線で戦わせるより、後方で戦う文官か軍師になって欲しいと願い、何度も諌めたが、豫譲の剣術狂いは治らなかった。

 ある時、知り合いの家に酒を届けた孟談が猪に襲われた時、一緒に手伝っていた豫譲が短剣を引き抜くと一撃で斬り殺したのだった。

 それを聞いた豫太公は喜んで、

「阿譲、お前が尊敬する英雄は正義のために剣を振るう。それと同じ心で張君を助けた、その勇気と情けを見込んで剣術を認めよう。ただし、きちんと練習を積むのだよ」

 息子の勇敢さが蛮勇ではなく、親友を助ける義を伴うものだと認めた彼は、剣術の習得を許可した。その事を知った近所の老いた武芸者が自ら指導に当たったのだが、豫譲は数年で師匠の技を会得してしまった。

 程無くして豫太公が戦死し、師匠も老衰で死んでしまった豫譲は中行寅と范吉射からの招聘を受けて斉へと旅立ったのは先述した通りである。

 相方の中行寅に仕えさせる戦士を既に集めてしまっていた范吉射は、軍師である自分を補佐させる秘書を欲したため、役人の家に生まれた豫譲が選ばれた。だが、剣を極めた豫譲からすれば秘書官などやり甲斐が無さ過ぎる仕事であり、剣一本で国士の座を掴まんとしていた彼は夢物語で日々を送っていたのだった。


「豫譲殿。天子様への上奏文も、それを届けさせる作戦も乙なものであったが、今後の作戦についてはどうお考えか?」

 中行寅からの下問を受けた豫譲は、剣で戦う機会も無く悶々としていた気分を晴らすかのように弁を振るった。

「はい。天子様の勅令で鄭と晋の調停をお願い致したいと、先の文書で言上致しました。晋公家は姫氏でありますので、逆らえませんでしょう」

 豫譲が書き上げた上奏文は商人の手で都に運ばれて行き、周宗室に捧げられた。如何に権威が堕ちても本家である周宗室に分家である晋は反抗出来ない。それを見込んだ作戦であった。

「ふむ。では、晋を追い払った後の作戦はどのようなものかね。鄭から領地を割譲して貰う約束はしているが、出来れば晋の領地も欲しいものだからな」

 中行寅は、貪欲さと憎悪に満ちた雰囲気で笑った。自分達を追い出した晋公家と趙氏、智氏には是が非でも勝たねばならないと言う執念があった。

「更に策があります。如何に晋とて、此度の戦役で弱った所を、少し時間を置いてから斉軍で攻めればひとたまりもありません。鄭のみならず、楚や衛も晋の増長を恐れていますので、支持してくれるはずです」

 豫譲の献策を聞いた中行寅は喜色満面で、晋への侵攻戦の幸先も良いと祝ったのだった。 


 そこに伝令が二人、立て続けに駆けこんで来た。

「申し上げます。斉の輸送航路が、魏の水軍で封鎖されました!」

「趙氏と智氏の武将達が、我らに勝負しろと挑発をしております」

 中行寅と范吉射が豫譲を伴って櫓に上ると、確かに奪われたと思しい斉水軍の軍旗が立てられており、異様な風体の巨漢が華夏人と共に叫んでいた。

「やいやい、中行寅に范吉射! てめえらも武人なら、出て来て俺様と勝負しやがれ。この弱虫共!」

 罵声を発しているのは新稚狗だ。天狙も面白おかしく飛び跳ね、智宵や郄疵なども兵士らを引き連れて笑い、誘い出すべく挑発させていた。

「彼奴ら、蛮族と無頼漢を繰り出して挑発とはな。やり過ごしても良いが、兵の士気も心配だ……如何にすべきか」

 中行寅が戦うか否かで迷っていると、豫譲が申し出た。いつの間にか戦車用の長剣を帯びていた。

「自分が参ります。先日も晋軍から攻めて来た元近衛兵を斬り伏せた所です。斉は秘書でも近衛兵に勝る国と見せ付ければ、敵軍の士気も挫けましょう」

「おう、貴殿なら良かろう。では、出陣せよ!」

 中行寅の許しを得た豫譲は一礼し、若者達を率いて出撃したのであった。

 一方の晋軍は関所の門が開いたのを見て、戦闘態勢を整えた。

「我こそは斉の豫譲。同族の鄭を侵略し、我が主君を罵り辱めた逆臣を討ち果たさん!」

 豫譲の挑戦に応じたのは、智瑤配下の郄疵だった。


「我らを単なる侵略者とは、片腹痛いわ! 貴殿のお相手はこの郄疵が致す。智氏とて、正義と忠義を貫かんでもないのだぞ!」

 得物である長柄斧を構えた郄疵は、豫譲目掛けて戦車を走らせた。対する豫譲は長剣を引き抜くと、荷馬車を改造した急ごしらえの戦車で応戦した。

 この郄疵は貪欲と言われる智氏一門の中では智過、智宵と共に清廉にして忠烈な人物だ。強欲な侵略者と謗られようとも、力無き周宗室に代わって秩序を取り戻すのが晋公家であり、それを支えるのが智氏と信じて疑わなかった。

 彼が鍛え抜いた腕前から繰り出す斧は、蝶か燕のように舞う豫譲の剣とぶつかり合い、火花を散らした。だが、数十合打ち合っても決着が付かなかったため、部下を失うのを憂慮した智瑤が後退命令を出してしまった。

「ほう。剣一本であの腕とは天晴れな。誰か、次の武将はいないか」

 郄疵を労いつつ、智瑤がもどかしそうに言うと、無恤が意見した。

「郄疵隊長は絶倫の武人。彼と引き分けるならば、誰を出せば宜しいでしょうか?」

「出来れば、新稚狗君に頼みたいものです。彼の強さは一騎討ちを挑む相手が無いほどであると聞いております」

 それを聞いていた新稚狗は、飛び上がらんばかりに喜んだ。

「智の殿様は話が分かるねえ。あの気障野郎は、俺様が叩き殺してやるぜ!」

 張り切った新稚狗は早くも馬に飛び乗り、殳を振り回しながら豫譲に向かって行った。

片や趙氏の銀狼、片や斉の燕。その両方を友とする張孟談は、ほろ苦いものを心中に抱きつつ、戦いを見守っていた。

「阿譲……やはり君だったか。幼馴染の君と新稚狗親分が戦うのも、戦場の掟なのだろう」

 孟談は呉鉤の刀を手にして戦いに備えつつも、一騎討ちを眺めるしかなかった。その手は、仲間すら救えぬ己の非力さへの憤りで震えていたのだった。


   2


 粗末な戦車に乗りながらも長剣を手にして高貴な戦士の風格を持った豫譲と、先端に刺を植えた棍棒を引っ提げて乗馬した新稚狗の獣性は好対照である。だが、晋と斉と言う互いの国運を賭けた一騎討ちに掛ける意気込みの強靭さに変わりは無かった。

「てめえが豫譲か? 冥土の土産に聞かせてやらあ。俺こそが、趙氏の銀狼こと新稚狗様だ。さあ、我が棒喰らって死に失せろ!」

「如何にも。貴殿は、その姿からすると北狄の産と見た。清浄な華夏の地を喰らう狼を狩り、主君への土産に致す。尋常に勝負っ!」

 豫譲は郄疵と戦った疲れも忘れたかのように、両手で長剣を振りかざして新稚狗に斬りかかった。新稚狗も負けじと、殳で迎え討った。

「この野郎、剣も良けりゃ腕も良いと来たもんだ。こうでなきゃ面白くねぇ」

 馬上で殳を振るう新稚狗は、豫譲の鋭い切っ先を防御しながら軽くいなした。そして殳を逆さに持ち変え、石突きの鋭い部分で突きを繰り出した。

 連続で繰り出される刺突の嵐に、流石の豫譲も防戦一方になって来た。その様子を見ていた范吉射も流石に軍師と言うだけあって、後退命令を出した。

「むう、退却せねばな。北狄の狼め、あの時の苦痛は忘れぬ! 次こそは、その素っ首を討ってくれる。さらばだっ!」

 豫譲は、わざと剣を空振りさせて隙を作ると、新稚狗の棍棒をも空振りさせた。ほんの一瞬の出来事だった。

これこそ、敵の攻撃を利用して己の防御へと引き込み、不利な戦況を有利ないしは互角に持ち込んでしまう、熟練した武芸の妙味である。

豪傑・新稚狗の猛攻を軽くかわして無傷で撤退した豫譲は、まさしく攻守も進退も極めた名将と言えた。


「すげえ剣豪だ。郄疵殿を相手にして疲れていなけりゃ、もっと強かったろうな。中原って所は、駟弘の旦那や豫譲みたいに強い奴がごまんといるんだなあ」

 晋軍の本陣では、新稚狗が地べたに腰を下ろして戦いの一部始終を語っていた。疲れると食欲が落ちると言うが、彼には当てはまらないようで、新稚狗は孟談が用意した粟飯と炙った肉を貪り食っていた。

「何と、両家の猛将が一騎討ちを仕掛けても討ち破れない猛者がいるとは!これは少し厄介です……」

 智瑤は苦笑こそしているが、その目は人材を見つけた興奮と喜びに輝いていた。

智瑤は、勝ちのみを追求する求道心に満ちあふれ、気位の高い事で知られる。そんな彼が勝ちを得られずとも笑っていられるのは、豫譲の凄烈なる剣術が張孟談の頓智に満ちた先日の宴とはまた違った魅力に満ちていたからだ。

不敗を誇る智軍を追い込んだ英雄は敵であろうとも人傑であり、是非とも配下に加えたい。そうした智瑤の貪欲な欲求と好奇心は、少年時代のままの純真さを保っていた。

 行き詰った戦況でも笑う総大将の姿に、晋軍の将達は解せない顔をしていた。だが、智氏と張り合うと言うだけあって趙無恤だけは得心したように笑っていたのだった。彼もまた人材で勝負する一門の御曹司らしく、逸材を見る目と讃える心は理解できたのだ。


「智卿。確かに豫譲は強いが、彼とて人間。何度も戦いを挑まれたならば疲労しよう。さすれば捕縛も出来ましょうぞ」

 遠くから新稚狗と豫譲の一騎討ちを見ていた無恤は、相手の弱点に気が付いていた。豫譲は真剣勝負に専念し、力を抜かない。つまり、体力を消耗するのも早いと感付いたのであった。

「おお。流石は趙御曹司です。軍勢同士の勝負を避け、豫譲めを釣り出す作戦で参りましょう」

 智瑤と無恤は顔を見合わせ、翌日の作戦を相談し合ったのであった。

明くる日の朝、范吉射が豫譲を伴って中行寅のいる本陣へと足を進めていた。やがて行き着いたその本陣は豪奢な屋敷であり、朝日を浴びて光を放つ屋根瓦や柱の様子は美術品のようであった。

新鄭の直前に位置するこの関所には、同盟国の要人や軍を宿泊させる公館が設置されており、ここ数年は斉の公館として用いられるのが専らであった。

「おはようございます。中行将軍、豫譲殿は剣術も見事なものですね」

 軍師がやって来たのを見た中行寅も機嫌良く、

「ふむ、文官としてだけ使うのは勿体無いですな。豫隊長、一騎討ちの時は宜しく頼み申すぞ」

 主君が漸く自分を評価し始めたと喜んだ豫譲であったが、次の瞬間にそれは打ち砕かれた。

「だが、如何に腕があれども晋の四卿と崇王家は手強い。軽々しゅう出るのは控えられよ」

 険しい目つきで豫譲を見据える中行寅は、先陣を切って戦う事を厳しく戒めたのだった。彼が如何に武力を重んじるとは言え、文官としても機能する配下を捨て駒にするわけにはいかなかったのだ。


「心得ました。それでは、配下の若者らを率いて関内の巡回を致します」

 今日も腕を振るおうと意気込んでいたが窘められ、残念そうに引き下がった豫譲を見送り、中行・范の両名は作戦会議を始めた。

「しかし、郄疵や楚隆と言った武官ならまだしも、異民族や無頼漢共を従軍させるとは……智氏も趙氏も愚物揃いでございますよ」

「全くじゃ。智躒の孫め、我らこそ荀一門の正統にして商王朝の末裔じゃと言う事を知らしめてくれん」

 智氏三代との争いに敗れ、特に智瑤のせいで長年に渡って煮え湯を飲まされて来た中行寅と范吉射は、汚名を返上すべく反晋の任務を進んで引き受けた。

 彼らも荀一門としての誇りを胸にして此度の戦いに臨んだ点から見れば、商王朝の血を引く智氏と中行・范氏同士の代理戦争という側面もあった。

「中行様はあのように仰せだが、我が剣術で晋の者共を斬り伏せて忠義を示そう。この腕を認めて頂けるその日まで、戦うのみだ」

 櫓で敵軍の様子を眺める豫譲の背中で、長剣の房が風に揺れた。その風が吹き付ける方角から見えたものは、晋軍が殺到して来る事で巻き起こされる砂埃だ。長い戦いを始める合図であった。


   3


 砂埃を立てて進軍してきた晋の軍勢であったが、挑発を繰り返すだけであった。罵声は連日に渡って続き、斉の将兵ばかりか豫譲と若者達の間にも苛立ちは募って来たのだった。

「ここまで辱められては、我が軍の士気は下がる一方だ。誰かが一騎討ちで敵将を倒さねば!」

 そうは言っても、郄疵や新稚狗と言った猛者がいる晋に、斉や鄭の将兵らは尻ごみする一方であった。

「やはり、自分が行かねばなりますまい。出撃の許可を下さいませ」

 豫譲は櫓から駆け降りると、本陣にいる中行寅と范吉射に哀訴した。屈辱に耐え忍ぶ仲間の顔は、正視に堪えなかったのだ。

「良かろう。軍師も、賊めらの罵声を何とかしようとお考えであったからな。気を付けて行かれい」

 中行寅の快諾を得た豫譲は長剣を手にし、仲間の若者に馬車を操作させ、数台の戦車を従えて戦場へ向かった。

「逆臣に蛮人、悪口雑言も大概にしろ! 武人ならば剣で勝負するものだぞ」

 晋軍の前で抜刀した豫譲の声には、義憤が込められていた。それを見て智瑶は冷笑し、郄疵を繰り出した。 

「先日は後れを取り申したが、今日は勝つ。勝負されよ!」

 郄疵は戦車に乗って斧を構えてはいるが、豫譲を生け捕りにする策略を聞かされているため、本気を出さずに数合打ち合ってから背を向けた。

「おのれ、逃がすかッ!」


 だが、豫譲の馬車を遮った者がいた。それは新稚狗だった。

「調子に乗るなよ。俺様がてめえをぶち殺してやる!」

 新稚狗の巨体から繰り出される一撃は、彼の長身を活かした広範囲に及ぶ攻撃だ。しかも体重がかかって威力が倍増しているため、当たればほぼ即死である。豫譲は長剣で新稚狗の猛攻を防ぎ、反撃に移ろうとした。しかし、相手は馬首を返すと一目散に逃げ出した。

「てめえの相手は飽きたぜ。あばよ!」

 豫譲は、新稚狗の侮った口調に激高した。馬車を操作する若者を叱咤すると、新稚狗と郄疵を追わせた。

「豫旦那、敵さんの陣に入っちまったらやばいですぜ」

「分かっているとも。だが、ここであの二人を逃がせば後悔することになる。責は私が負うから、進めてくれ!」

 荒っぽい口調ではあるが、この若者達は豫譲の口添えで兵士の仲間入りが出来た連中で、彼への忠義は絶対であった。暴れ者達を引き連れた豫譲の部隊は、晋の陣営に入り込んで行った。


「斉の皆さん。我が陣に、何の御用ですか?」

 今度は鬚面の巨漢が矛を持ち、小柄な少女を従えて現れた。智宵と天狙だ。

「新稚狗だけに良い顔はさせねぇ。たったこれっぽっちの兵隊で殴り込んだ事、後悔するだ」

 豫譲は長剣で智宵を狙い、仲間の戦車隊も弓矢で智宵を射殺せんと包囲した。だが、矢は全く智宵に当たらない。驚いた豫譲が地面をちらと見ると、矢は全て石で折られていた。どうやら、石飛礫のようだ。

「豫譲殿、降参なさい。隣にいるお嬢さんの石は、百発百中でしてね。短刀を投げられたらおしまいですよ」

 柔和に微笑む智宵だったが、繰り出す矛先は鋭く、郄疵や新稚狗と激闘してきた豫譲も、流石に疲労の色を見せた。そこに、一人の文官が登場した。

「豫隊長、私は趙氏の文官・張孟談です。あなたが晋陽郊外に住んでいたのであれば、きっと私を憶えておいででしょう。さあ、答えて頂こう……君は阿譲ではないのか!」

 その一喝に、豫譲は剣を収めた。

「晋陽郊外に住んでいた、張孟談だと! まさか、君はあの張君か?」

 豫譲の脳裏には、孟談と過ごした晋陽の田舎町がありありと蘇った。共に遊んだり、父が戦死した後は張家に世話を焼いて貰い、その礼に読み書きを教えた思い出は、今も彼の心には記憶の花園として残っていたのだ。


 旧友を前にして豫譲が佇んでいると、

「双方、戦を止めるのだ。流石は、晋の英雄の血を引く御仁だけはありますな」

 豫譲に声をかけたのは、色白な青年と筋骨隆々たる壮年の二将だ。他でもなく智瑶と趙無恤である。

「我が臣下と一族でも武芸自慢の二人を相手にして一歩も引かず、更には趙氏の二豪傑に立ち向かう勇気と腕前は見事なものです。この荀瑶、感服仕った!」

 智氏の勢力を一代で成長させた英傑・智瑶の噂は豫譲も聞き及んでいた。敵を躊躇なく殲滅すると悪評も聞いていたが、目の前にいる人物は、そこまでの悪人には見えなかった。

「敵である自分に過分の御言葉を頂き、忝い事です。張君は、智のお殿様の御家来なのでしょうか」

 豫譲の返答に、智瑶は寂しげに笑った。

「いや、張殿は趙御曹司の側近なのだ。彼は一国の宰と呼ぶに相応しき御仁で、私も部下に欲しくなってしまったくらいの大器なのですよ」

 それを聞いた豫譲は、無二の親友が智氏に匹敵する大勢力である趙氏に仕えて幸せに過ごしている事を喜ぶと同時に、無恤と智瑶と言う二人の君主に認めて貰える孟談を羨ましいとも思った。

「真の勇士よ。ここで出逢(でお)うたのも何かの縁じゃ。我らから一献、貴殿らに取らせたく思う。旧友との再会を祝って行かれるが良い」

 何と、無恤が豫譲らを自陣に招待したいと申し出たのだ。敵将から盃を頂戴するのは流石に気が引けたが、無恤が孟談の主人である以上、幼馴染みの顔を潰すわけにもいかず、剛毅な豫譲も仕方なく受けることにした。

 それから数時間ではあったが、無恤と智瑶を主催者とした宴が開かれた。韓・魏や崇王家の面々も英雄の顔を一目見ようと駆け付け、大盛況に終わった。

「豫隊長、これは中行将軍と范軍師への親書であります。晋公家では御二方を帰参させたいとの事。幸い、晋の人である貴殿と出会えて何より。御主君に宜しくお伝えあれ」

 豫譲は恭しく親書を頂くと、帰路に着いた。中行寅と范吉射が晋へ帰参すれば、自分も里帰りして孟談とやり直せるかも知れない。豫譲は、己を待ち受ける非情の刃が煌いている事を知る由もなく、夢を想い描きつつ関所へ戻っていった。


   4


 関所では、豫譲が配下と共に姿をくらました事で大騒動になっていた。豫譲隊が行方不明と報告を受けた中行寅と范吉射は、切り札である豫譲がいなくなったと気を揉む事しきりであったが、彼の帰還を聞いて胸を撫で下ろした。

「貴殿は、戦車数台で晋軍の陣中に斬り込んだと聞く。大丈夫であったか?」

「御心配をおかけしまして、申し訳ございません。趙氏と智氏から、将軍と軍師への親書を預かって参りました」

 豫譲は主君に謝罪すると、智瑤と趙無恤から預かった書簡を捧げた。

「おう、御苦労であった。しかし、よくそなたを彼奴らが解放したものよな」

「はっ。我が旧友の張孟談なる者が趙氏に仕えており、彼が戦を仲裁しました。その際に趙御曹司に御酒を賜り、智卿は自分に親書を渡されました」

 豫譲と中行寅の会話を聞いていた范吉射は、豫譲が晋の趙氏にもてなされたと言う所に疑問を抱いた。優秀な剣豪で文官でもある彼を欲しがる勢力は多かろうと睨んだのだ。

 補佐の文官として豫譲を遇する自分はともかく、手駒の如き扱いをする中行寅に愛想を尽かし、裏切りを目論んだ可能性もある。

「……断罪は出来ぬが、全面的な信用も難しいな」

 范吉射は豫譲を退出させると、中行寅と共に智瑤からの親書を紐解いた。


 翌日。斉公館は慌ただしい空気に包まれた。公館の外では、豫譲に仕える若者達が心配そうに様子を伺っていた。

「豫隊長、この書簡は何じゃな?」

 中行寅の手に握られているのは、豫譲が智瑤から受け取って来た親書であった。

「智卿閣下の書簡が、如何致しましたか?」

 豫譲が怪訝そうに聞くと、中行寅は彼の顔に罵声と共に書を叩き付けた。

「主が持って来た書には、無能な負け犬の范と中行は降伏せいと罵詈雑言が記されていたのだ。貴様は大方、扱いに不満を持って降伏しようとしたのであろう。白状致せ!」

 中行寅の目は怒りに燃えてギラギラと光り、今にも喰い付かんばかりであった。自分の顔に投げられた書簡に書かれた挑発的な文面に驚きつつ、豫譲は茫然としていた。

「豫譲殿。私としては庇いたいのは山々なのだが、斯様な事態である以上は已むを得ない。済まないが、暫く独房に入っていて貰うよ」

 寂しげに俯く范吉射は、庇いきれないと言った表情で兵士らに合図した。哀れにも豫譲は弁明も出来ずに牢へと引き立てられていったのだった。


 同じ頃、晋の陣営では智瑤が趙無恤と共に豫譲捕縛計画を練っていた。

「ふふ、挑発を繰り返した甲斐がありましたな。後は、豫譲に従っていた若者らが動けばいいのだがのう」

「趙御曹司、それは大丈夫でしょう。貴殿御自慢の間諜が我が軍にはいるのですから」

 智瑤が横目で見つめる先には、異母弟の智宵と談笑する天狙の姿があった。

「智宵さん、大丈夫だべ。あのあんちゃんらが動けば、きっと関所を落っことせるだよ」

「それは楽しみですね。貴女が届けた贈り物を開いた時、我らの勝ちが決まりましょう」

 天狙と智宵は陣の外に立って関所の様子を眺めた。今は静まりかえっているが、今に大騒動を起こしてやると言う魂胆に満ちた笑顔で二人は視察を続けていた。

同じ頃、関所内にある兵舎では豫譲配下の遊侠達が集まって騒いでいた。話題は当然、指導者である豫譲が逮捕された事だった。

「豫旦那が牢屋行きになったぞ! 親書を受け取ったばっかりに裏切り扱いになっちまったそうだ」

「何て事だ。あの二人は、残酷にも反抗する相手の手足を斬ったと言う話だが、本当のようだね」

 彼らは、痣だらけの顔を(しか)めながら中行・范両名の仕打ちを罵っていた。豫譲を出獄させようと嘆願したため、兵士らに殴られ、追い出されたのだ。

「このままじゃあ、旦那はいずれ死刑になっちまう。俺らはけちな流れ者だが、あのお人は花も実もあるお武家様……助けてぇもんだよ」


 指導者の不遇を嘆く豫譲配下の若者達は、兵士姿もいれば商人、農民と恰好もまちまちだ。彼らは智宵や天狙と共闘した遊侠達と同様、職にあぶれた者や一旗揚げんと欲した連中の集まりだった。

 この遊侠達は、今日の糧を求めて明日をも知れない日々を過ごす。自分達は法も安住も無く、死に場を求めて流離うが恩人のためには尚更命を惜しまない。

「よし、やるか。でも、肝心の軍資金はどうしよう? それでは、僕達は恩返しすらできないよ」

 商人風の遊侠が心配そうに呟いた。すると、豫譲の戦車を操縦した荒くれ者が胸を張って宣言した。

「それは心配ねぇ。さっき、趙氏に仕える姉ちゃんが渡し忘れた土産を持って来たんだ。金目のもんだろうから、そいつを売り飛ばして剣や弓矢を買うんだ」

 荒くれ男が自慢げに取り出したのは、反物が入っていると思しき箱だ。中には絹や麻、毛織物が入っていた。

「おや? 箱の底に小さい反物があるぞ。ほう、こいつは木簡だな」

 遊侠の中に、元官吏で読み書きが出来る者がいたので、彼に木簡を読ませた。彼は読み進めながら顔に笑みを浮かべた。

「兄弟達。これで豫殿は助かったぞ。私も君達も、晋の官吏や兵になれるかも知れないな」

 一介の小役人であった遊侠の手に握られていたのは、小さな木簡だった。だが、この小さな木簡こそが戦の炎を燃え上がらせる火付け役であったのだ。


   5


 元官吏の遊侠は、木簡の内容を兵舎に集った仲間達に読み聞かせた。木簡は、智瑤からの密書であった。

「良いかい。我ら晋の民は、降るならば生命を保証しても良いと智卿の仰せだ。ただ、条件があるそうだ。これから、皆にそれを伝える」

 彼は元が役場勤めだっただけあって、てきぱきと指示を出して行った。

「まずは、反物を代価にして武器を買うんだ。次に、馬が通れそうな通用口を開けやすくしなさい。然る後に、この兵舎に集合しておくれ」

元官吏の言葉で、若者達は関所内の市場に散らばっていった。こうした砦を兼ねた関所は要衝にあり、関内に市が形成される事も多かった。その市場で武器を買う軍資金は、智瑤からの贈り物が良質な絹や毛織物が主体だったため、上等の青銅製の兵器を多く購入出来た。

 続いて、農民達は行商人や役人が出入りする通用口に向かった。彼らは馬の手入れに託けてそこの閂を緩め、何食わぬ顔でその場を後にした。

「親父さん、出来たよ。あとはどうするかね?」

「おう、私の支度も万全だ。決行は明日の未明……必ずや、豫殿を助けようではないか!」 

 元官吏の手には、一瓶の油と幟があった。恩人のため、命を燃やす遊侠達の戦いが、幕を開けようとしていた。


 夜明け前、空が白み始めた頃だった。普段通りに中行・范軍の兵士らが見回りをしていると、物見櫓から煙が立っていた。

「何だろうな。小火(ぼや)でも起きたんだろうか?」

 だが、どこか様子がおかしい。櫓の上では黒い煙がもうもうと立ち上り、白い幟が振られていた。同時に、馬蹄の響きが聞こえて来た。

「豫旦那を助け出すんだ。晋軍は我らの味方ぞ!」

 元官吏の遊侠は黒煙の出る油を焚いて、智瑶から託された幟を振り回していた。それを見た農民らが通用口を開門させ、騎乗した巨漢を招じ入れた。

「おっ、ありがとさん。野郎共、俺様に続けッ!」

 暴れ込んで来た新稚狗は殳で正門の閂を打ち壊し、楚隆や郄疵の戦車隊を乱入させ、関内を大混乱に追いやった。

「趙御曹司、ここまでは狙い通りです。後は豫譲を我が軍に引き入れるだけとなりました」

 戦車に乗った智瑶は、無恤に微笑みかけると軍を指揮しつつ、悠々と関に入った。後は、韓魏の兵士と崇王家の騎兵が進撃し、数で劣る斉と鄭の残党を掃討し始めたのだった。


 混乱に乗じた遊侠達は購入した武器や盾で身を固め、手薄になった斉公館を包囲した。今こそ、豫譲を助ける好機とばかりに気勢を上げていたのだ。

「中行寅、范吉射! 豫旦那を解放しろ!」

 死を恐れぬ遊侠達は抜刀すると門衛を斬り殺し、公館の敷地内へと踏み込んだ。ある者は血刀を引っ提げて兵達の詰め所へ向かい、ある者は中行寅と范吉射のいる本陣へと荒々しく突き進んだのであった。

「くそっ、暴徒共が! 逆臣一人を投獄しただけで寝返るとは、言語道断じゃ。この関所の兵は少ないし、如何致そうか」

 勇猛で知られた中行寅も、兵力を遊侠と晋軍に分けてしまったがために、各個撃破される事態を招いた事に焦りを感じていた。 

「中行将軍、豫殿を捕らえたのは拙かったですな。だが、悔いても詮無き事……まずは、斉方面の戦線基地へ退却するのが上策かと。殿(しんがり)は私が勤めます」

 この非常時でも落ち着き払っている范吉射は、流石に軍師である。彼は苦笑しつつも中行寅を馬車に乗せ、一〇〇名ほどの戦車兵を護衛として随行させた。斉の領地内に逃げ込んで、鄭軍と連携すれば再起は可能と踏んだのだ。


中行寅の退却を見送った范吉射は、鳥型の先端部を持つ金属製の武器・(はん)を手にして公館の広間に向かった。この武器は、軍隊の指揮を執るのに使う軍配や、合図を送る旗の役割を果たす物であり、軍師である范吉射が自ら戦う意思の表れでもあった。

「お前達、出番が来たようだ。この吉射めに命をくれ!」

 范吉射の声に応じて現れたのは、彼が中行寅と共に普段から身辺を警護させている親衛隊だった。この部隊は、范吉射が兵士の中から優秀な者を選り抜き、手塩にかけて育てた精鋭だ。彼らは、戦死しても家族の面倒を国が見るように主人が言上しただけでなく、下級とは言え貴族階級の末端として扱われていたため、范吉射への恩義は死で以て報いると決めている猛者達であった。

「范軍師の仰せのままに。郄疵や楚隆はおろか、新稚狗が相手でも奮戦してみましょうぞ!」

 数は五〇名に満たないが、意気盛んな兵士らの死を恐れぬ勇気は、遊侠や晋の軍人に負けていなかった。彼らが本陣に戻ると、激高した遊侠達が押し掛けて来た所だった。

「軍師に用はねえ。見逃してやるから、さっさと中行寅を出せ!」

「あと、豫旦那を牢屋から出さんとお前様を斬らせて貰うぜ」

 遊侠と晋軍は合流して三〇〇人以上に膨れ上がり、范吉射と親衛隊をぐるりと包囲した。どう見ても勝ち目はないのだが、范吉射は落ち着き払っていた。

「かかれ! 数で劣れども屈さぬのが、我が軍の武人ぞ!」

 幡を振り上げた范吉射に指揮された兵士らの雄姿は、まさに統率された猛禽の軍と言えた。例え国を追われても誇りを失わず、却ってその知力を輝かせて敵に挑む彼こそ、猛禽を束ねる鳳凰と言うべきであった。


   6


 范吉射が幡を振りかざすと同時に、親衛隊は一糸乱れぬ動きで戈と盾を構え、遊侠を迎え撃った。遊侠達は如何に強くとも、喧嘩や暴動しか戦いを経験していないため、百戦錬磨の兵相手では劣っていた。

 全くと言っても良い程に隙が無い敵の精鋭に、遊侠もじりじりと押され気味になった。如何に六倍とは言え、一人で十人を殺しかねない猛者達が相手では全滅を覚悟せねばならない。その時、本陣の扉が馬蹄で蹴破られた。

「やい、范吉射。いざこざも大概にして、俺様と戦いやがれッ!」

新稚狗が騎兵を率い、咆哮しつつ突撃してきたのだ。それを見た遊侠と晋軍は勇気を取り戻した。

「貴様が趙氏に尻尾を振る隻眼狼か? この范吉射、軍師と言えど武芸が出来ぬ訳ではないぞ」

 范吉射は徒歩で幡を振り回し、騎乗した新稚狗を迎え撃った。文官上がりの軍人とは言え、范吉射は並の将に勝る腕前であった。

「面白ぇ。俺様も徒歩で相手してやらあ!」

 新稚狗は馬から飛び降り、殳で猛攻を見舞った。駟弘や豫譲と言った名だたる豪傑を追い詰めた必殺の棒術は、手慣れの范吉射をも驚愕せしめた。

「お前らの弱点は見切った。頭の切れた蛇は動けねぇ……息も上がって来たようだし、楽にしてやるぜ!」

 そう言うと、新稚狗は殳の石突きを手で引き抜いた。すると、その下には鋭い矛先があった。新稚狗が強敵を仕留めるために仕込んでおいたのだ。疾風の如く繰り出される刺突に、さしもの范吉射も防ぎきれず、腹部を貫通された。ぎゃッと、唸るが如く低い断末魔を上げて、范吉射は呆気なく絶命した。

「軍師ッ!」

 范吉射の戦死を見た配下は、思わず動揺を見せた。范吉射と言う優れた指導者に寵愛され、彼の指揮下で戦う環境にあった彼らは、指導者を失うと脆かった。こうなれば、晋軍の圧勝だった。遊侠と晋の兵らは生き残った親衛隊に殺到し、統率が乱れた彼らを次々と斬り伏せた。


 斯くして遊侠達は、新稚狗の応援で范吉射を打ち破り、ついに無人となった斉公館の牢へ押し入った。しばらくして、彼らは傷だらけになった一人の青年を伴って公館の庭に現れた。

「あんたら、この人は……」

「そうです。お陰様で豫旦那を助け出せました」

 新稚狗と遊侠達が話していると、そこに馬車で駈け込んで来た者がいた。

「阿譲、無事か!」

 声の主は、他でもない張孟談であった。孟談は無恤や智瑶と共に制圧戦を行い、ようよう平定出来たので駆けつけたのであった。

「若さん、智卿様。申し訳ありやせん。范吉射はこの通りぶっ殺してやりましたが、中行寅を逃がしちまいました」

 新稚狗が詫びると、智瑤が笑って慰めた。

「心配なさるな。弟に命じて追撃させています。貴殿の剛勇も素晴らしいが、陽虎殿の策も役に立ちますなあ……」

 智瑤は敵が逃げたのを見た訳ではない。だが、その眼光は東の方を見据えていた。


 一方の孟談は、豫譲の前で号泣していた。牢番が逃亡したため、拷問された挙げ句に水も飲めなかった豫譲は、渇きに苛まれてぐったりとしていた。

「阿譲、死ぬな。死なないでくれ、頼むっ!」

 剛の者とは言え、丸一日に渡って取り調べられていた豫譲は衰弱していた。そこに、原過の率いる医療班が追いついて来た。

「張殿、後は我が部隊にお任せ下さい。御友人は必ずお助け申します」

微笑む原過の前に、孟談はひれ伏して親友の手当てを頼んだ。こうして、豫譲は晋軍の手当てを受ける事になり、怪我をした遊侠達も一時的に身柄を保護されたのであった。

 新鄭を目前にし、決戦の支度に余念がない晋軍は奪還した関所で暫く休息していた。豫譲は、制圧された斉公館の客間で孟談と原過の介抱を受けていた。

「張君、相変わらず君は料理が上手いな。共に囲んだ夕餉の席が懐かしいよ」

 孟談が自ら腕を揮った故郷の滋味に、舌も心も癒された豫譲は程好い満腹感も相まって、懐かしげに眼を細めた。ただ、直属の上官でもあった范吉射が殺された事が暗い影を落としていた。

傍で薬の調合をする原過もまた、楚隆と言う古い友人がいる身であり、彼ら二人の談話に聞き入る一方で主君を亡くした豫譲を哀れんでいた。すると、公館の外にある広場が急に慌ただしくなった。豫譲は気晴らしのため、窓の外を覗き込んだ。広場には将のものと思しき首級が晒されていた。

「おお、敵将を討ち取ったようですね。あ、あれは……」

 そう言うなり、豫譲は崩れるように倒れ込んだ。

「しっかりしろ、阿譲ッ!」

 仰天した孟談は友を抱き起こすと、目を凝らして広場を眺めたが、彼も目を背けた。何故ならば、そこに晒された二つの首級の前には、“中行寅”と“范吉射”の名前が記された血染めの旗が立てられていたからであった。



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