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春秋の牡丹8話

八章 東方からの来客


   1


 戦線の砦を智宵と天狙の奇襲で陥落せしめ、遊牧民の騎兵で新鄭の援軍を蹴散らした晋軍は意気軒高であった。

「宵、大儀だったな。やはりお前は、宵の口に産まれただけあって夜には強い奴だよ」

 一時の休息を取る兵士らを見やりながら、智瑤が冗談交じりに笑った。

「兄者にそう言って貰えて、兵らも喜んでおります。時に、約束は違えないで頂きます」

「あの傷痍軍人や遊侠らは、お前の食邑(しょくゆう)で働かせる約束だったな。あとは、お人好しのお前が自由にすると良いぞ」

 部下達を従えて無邪気に喜んでいる異母弟の懇願に、思わず智瑤は苦笑した。

無骨で野性的な風貌に似合わず、心優しい智宵は鄭に住む傷痍軍人や遊侠らの来歴と窮状を知り、その武力と不満を利用するのと同時に、彼らを救済しようと考えた。

そして食邑、つまり自分が徴税権と統治権を持つ領地で彼らを雇う事を兄に頼み込んでいたのだった。それが叶った智宵は、この上ない喜びに包まれていた。

「皆さん、鄭との戦いが済んだら、私の食邑へ行きましょう。そこには農場と家が用意してありますからね」

 義手・義足を付けた元兵士の二人を始め、遊侠とその長が歓呼の声で自分を迎えるのを、智宵は情け深い眼差しで見つめていたのだった。

 

 こうした情け深さと、それなりの智勇を持ちながら祖父の智躒と父の智甲が彼を後継者にしなかったのは、完璧主義を旨とする智氏の風潮ゆえだった。分家の生まれ故に、一回目の後継選びで落第した智過だったが、その能力と真面目さは評価されていた。ある時、智過は二人の弟分の内で誰が跡取りに相応しいかを献策するよう命じられた。

 それこそが、智瑤が後継者になった時に高共が憂えていた事態であった。

「畏れながら、宵殿が相応しいと存じます」

 智過がこうした献策をしたのは、後継争いで負けた私怨では無かった。能力と人柄が丁度良く釣り合った智宵こそが良いと考えたからだ。

 だが、智甲の返答は違った。

「宵は顔つきが強情だ。あの通り、大雑把な武骨さでは当主の器ではないと思うがのう」

 智躒の意見も、智瑤の母からの返事もそうだった。特に智瑤の母からすれば、腹を痛めた息子が跡取りになれないのは悲劇以外の何物でもない。

「確かに瑤殿は語学堪能であり、美貌と文武両道の英才で在らせられます。ですが、その心は強情であり御家を破りかねないものです」

 顔の強情さは害にならないが、心の強情さは大きな害毒を招き得る。武芸や政治力だけでなく文才・話術にも優れているが、強情で冷淡な智瑤が上に立つと災難が来る。そう感じた智過は、異母兄よりも少々容貌と能力に劣るが温厚朴訥な智宵を推したのだ。

 だが、父ばかりか祖父と母からも智瑤が支持されていたため、叶わなかった。更には、智宵の母が下賤の出であった事も重なり、能力と血筋、容貌の三つを兼ね備えた智瑤が、完璧を是とする智氏の後継者となったのであった。


 慧眼の智過、智勇の智瑤、仁義の智宵。智氏を代表する三英傑は一見すれば仲が良いものの、過去から続く因縁の上に危うい状態で鼎立する存在なのだ。

「我が殿も、宵様の情けを半分でも持って下されば良いのだがな。甘やかすだけでは駄目だが、鞭を振るって脅すだけでも人は従わぬのに……」

 呟いたのは智過だった。智瑤との後継争いに敗れた点では智宵と共通している智過だが、智宵が無頓着で呑気なのに対して彼は神経質だったため、智瑤と距離を置いていた。

 それが禍根を残そうとは、この時点では誰も知り得なかった。否、智過自身は悟っていたのかも知れない。

 一族の智宵や智伯国らを始め、士茁・郄疵など文武百官の長である智過は苦笑すると、幕舎に向かった。四卿が配下を伴って作戦会議をするからだ。

「趙殿、崇陛下共々に御見事でした。韓・魏御両家のご協力、感謝に堪えません。この砦を奪った事で敵の士気が鈍っている以上、追撃を加えて鄭を屈服せしめ、あわよくば壊滅に追い込みましょうぞ!」

 勝利への布石を胸に秘め、それを目の内に輝きとして宿した智瑤の演説は、幕舎の外を守る兵士らの士気を高め、強兵たらしめるに足るものだった。


「新鄭への交通路の中でも東にある砦は大きく、難攻と言えましょう。じゃが、他は小さな砦ばかり……小さな所を確固撃破し、要塞には全軍で当たるべきかと」

 智瑤が演説を終えるのと同時に意見を述べたのが趙無恤であった。崇王彦と共に腰掛け、背後に陽虎を始め孟談や原・楚両将軍を従えた無恤は自信に満ちて見解を述べた。

 それは、士気の高い内に小さな砦を潰して村や町を抑える事で要塞、そして新鄭を孤立させると言う堅実な策だった。

「この韓虎めも、援護だけでなく実戦は出来ますぞ。魏卿にも手柄を立てる機会を賜りとうござる」

 親子ほどに歳が離れている一方で、父子同然の付き合いをしている韓虎の計らいに魏駒も感激し、

「自分は水軍指揮が得意ですが、陸戦が出来ぬ訳ではありません。何卒、出撃の機会を!」

 魏駒は水上戦を期待して輸送車を兼ねた船を持ちこんだが、それを活かせないだけでなく、その矢先に趙氏と智氏が戦線を落とした。また、相方の韓氏が得意の弩兵戦法で緒戦に貢献したのに、自分は未だに満足な手柄を立てられないのが辛かったのだ。

「両氏の意気や良し。では、西にある小さな砦と周辺の農村を抑え、西方からの援軍を断って頂きましょう。韓卿の熟練と魏卿の勇気なくしては出来ませんぞ」


 智瑤は微笑み、満足そうに頷いた。そして、

「それでは、趙殿は崇陛下と共に東へお行き下さい。魯や斉の援軍があり得ますからな。私共はここを拠点に、南にある新鄭方面の要衝を潰しましょう」

 勇み立っている魏駒と宥める韓虎を尻目に、趙無恤と崇王彦は心得たと返答した。

智氏が南を抑えるのは、新鄭への道を抑える意味もあるが、他にも意図があった。この砦が拠点であれば輜重も防衛も簡単で、兵力や兵糧の無駄も省ける。

 羊や牛を連れた遊牧民が多い趙氏は自腹だが、東の川や山の水と草さえあれば事足りる。西の穀倉地帯へ行く韓・魏は、容易な現地調達が可能なので、智氏が食料を出さずとも不満など出ようはずも無いのだ。

 重要な攻め手を担い、自分は損を出さないで実利も功名も手に入れる。こうした謀略を用いた戦術こそ、智瑤の独壇場だった。

その日の夜、見事な三日月が戦場の空を彩った。その様子はひと振りの芸術的な曲刀を思わせる美しさであった。

奇しくも、その三日月の鋭さにも比肩する“智の刃”が鄭を切り刻まんと欲していた事は、月が照らす大地を血で染めると言う、皮肉な未来を映し出していたのかも知れない。

   

   2


 智瑶の謀略は当代きっての俊才ぶりだ。しかし、趙氏と崇王家、韓魏両氏もまた思惑を胸に秘めていた。

 趙氏と崇王家は商王朝の大臣の血を引くとは言え、君主の家柄を継承するとされる智氏への劣等感は少なからず存在していた。

更に、中行寅らの一件とも関連して鄭を救おうとする斉は、開祖である太公望の時代以来、長年自分達を抑え込んできた宿敵でもある。弱体化した鄭を倒すよりも、精強なる斉を倒した方が戦い甲斐もあると感じ、東を担当したのであった。

 人材に乏しく、領地も狭い韓魏も天下に名を轟かせて英雄たるには、敵の生命線たる兵糧を断ち切る事で晋の勝利に貢献せんと欲していたのだ。

「中行寅に范吉射……私と父が智氏と組んで追放した男らが、斯様な災難をもたらす事になるとはな。皮肉なものよ」

 戦車に乗って進軍する趙無恤の表情は極めて険しい。だが、闘志に満ち満ちた顔でもあった。彼らは、自分が父のように慕う高共の上司であり、親友でもあった董安于が命懸けで倒そうとした相手でもあるからだ。

 安于を死に至らしめたのは智氏だが、中行・范両氏の横暴が董安于を戦いに駆り立てた以上は、無恤にとっても中行寅と范吉射は仇敵である。

「賢弟、私も気持ちは分かります。この戦いで晋と代両国の繁栄が決まるのです。気張りましょうぞ!」

崇王彦一門は、華夏に栄えた商の遺臣でありながら北狄と蔑まれてきた。悔しさをばねにしてきた彼からすれば、同じような立場にある晋の趙氏こそ希望の星なのだ。次期当主が義弟であれば、より一層心を寄せるのが人情である。

「義兄上、深謝致します。まずは東部の砦を奪い、そこを拠点として東からの援軍を迎え撃ちましょう」

「おう、そこならば河もあるし草原もありますからな。羊を放牧して食料を確保したいものです」

 戦線にあった強固な砦を陥落させた義兄弟二人の団結は強固であった。東方面の小さな砦は、ただでさえ士気が下がっていた所を趙氏と崇王家に包囲され、ある砦は兵糧攻めにされて降伏した。


 無恤と崇王彦は抗戦する鄭兵を屠り、降る相手は捕えて人質とし、東からの襲来に備えた。

 数日が経った。智氏の軍から、天狙と共闘した智宵が来訪して戦況を報告した。

「趙閣下に申し上げます。智氏は新鄭の直前にある要害を攻めておりますが、一向に落ちませぬ。東からの援助物資と援兵があるかと存じます」

 この武骨な青年の率直さは、策謀と流血が渦巻く戦場に於いては心安らぐものがある。彼と側近の将兵らに労いの酒を振る舞う無恤も笑い、

「なるほど、新鄭へ行くために協力致せと言う事ですな。宜しいでしょう」

「有り難き幸せでございます。天狙さん、また活躍に期待していますよ」

 跪いて感謝した智宵は、戦友であった天狙にも温かな眼差しを向けて激励すると退出した。

「おらは智氏なんか大っ嫌いだよ。けんど、あの人は別だべよ……だって、悪い人じゃねえからな」

 智瑶を毛嫌いしてきた天狙は智宵と出会って以来、その心は揺れ動いていた。董安于を殺した智氏を憎む高共に育てられた彼女は、智氏にも温かい人の心を持つ者がいるのを知って悩んでいたのだ。

「天狙、人間とはそういうものじゃ。南蛮部族とてお前のように朴訥な者だけではないように、冷酷な智氏にも智宵殿がおられる。それを悟らねばならんのよ」

 側室の子で風采が上がらなかった無恤は、人を偏った見方で判断する俗世間の考えを鼻で笑っていた。そんな彼を、周囲は生意気で非常識だと蔑んだが、その経験が天狙や孟談、新稚狗など多方面の人材を育てる力に変えたのだ。

 人材で勝負せんと自負する趙無恤。彼の視線は東方を流れる川や、そびえる山々に向けられていた。


 奪取した東の砦を延陵生と原過、輸送を孟談に任せ、彼らの支援を崇王家の家臣団に命じた無恤と崇王彦は更に東進した。一行が辿り着いたのは、幾つにも分かれた黄河支流を見下ろす事が可能な山の上であった。

「黄河ってのはでっけえな。支流でさえこんだけ水があるんだから、船はたくさん浮かぶんだろうなあ」

 新稚狗が驚嘆した。草原と砂漠しかを見てきた彼からすれば、湖や小川よりも大きな黄河は前代未聞の絶景だった。

「うむ。船は馬や車より遅いが、水さえあれば重い荷物や多くの人間を運べる優れものじゃ。斉の連中が川を利用して輸送をするのは必然でござる」

 陽虎が考え込みつつ、新稚狗に同意した。自分が、もしも鄭やその同盟国の将兵であれば、輸送に有利な河川を使うだろう。諸国を放浪した経験も伊達ではなく、陽虎は早くも敵の策に対抗する術を考え始めた。

 古より滔々と大陸を流れるこの大河の流域を舞台に、荒れ狂う洪水もかくやの謀略戦が始まろうとしていたのであった。


   3


 山頂で佇む陽虎は、鄭の東部を流れる川の流れを見つめていた。彼はおもむろに筆を執ると、晋陽から持ってきた地図を写した物に、何やら書き込んでいた。その気迫は、まさしく光る(陽)虎と呼ぶにふさわしく、何人をも寄せ付けない。

無恤と崇王彦は仕方がなく、部下達と共にその様子を見ていたが、地図への書き込み作業が終了すると同時に、二人は陽虎に近寄った。

「軍師。何やら地図に書いておったようだが、名案でも思い浮かんだかね?」

「御曹司、崇陛下。不肖陽虎、御主君を等閑(なおざり)にした罰、万死に値します」

 余程集中していたのであろう。無恤と崇王彦の事など眼中になく地図に書き込んでいた陽虎は平伏して詫びた。

「いや、良いのだ。それよりも、貴公の策略が完成したのなら、早速指揮して下されよ」

「はっ。御意にござりまする」

 だが、地図を広げながら陽虎が一同に説き聞かせる策は、極めて不可解なものであった。

山は渓谷を挟んで東西に分かれており、無恤と楚隆が率いる戦車主体の晋軍が傾斜の緩やかな東の林に隠れ、暫し英気を養った。

一方で、崇王彦の代国軍は急な坂がある西側に配置された。幸い、西には草原と小川があったので遊牧は可能だった。

「風の流れは、鄭のある西に向かっておりまする。東国の輩が快速の船を出して物資の輸送をするならば、この一両日でござる」

 

陽虎の読みとしては、斉や衛などが晋を妨害するための支援をするならば、手っ取り早く船を使うだろうと言うものだった。そして、新鄭や各砦まで水上運搬を行われてしまう前に輸送隊を潰し、追い散らす。

 それだけ猛攻すれば、韓魏両軍が西の穀倉地帯を落としたのと相乗させ、新鄭を孤立させる事も可能であろう。

「出来れば、水上戦用に大きな船があれば有り難いのでござるが……如何したものでしょうか」

 水上を封鎖すれば東からの救援は完全に封鎖出来る。しかし、陸戦・野戦を得意とする自軍には船の用意がなく、水上戦なども考えていなかったので備えが無かった。

「魏卿閣下は精強な水軍をお持ちと聞きます。魏水軍があれば互角に戦えるのでしょうが、我々の鍛えた戦車を用い、陸戦で粉砕しましょう」

 楚隆は生真面目かつ理知的に戦況を分析し、陽虎と策を論じたが、やはり日頃から猛特訓している戦車で戦う事を念頭に置いていた。


 一同が策を講じていると、偵察に行っていた天狙が帰還した。

「皆、腹ぺこだろうけど我慢してくれろ。船に一杯の穀物を積んだ、張さんの輸送部隊が到着するだ」

 無邪気な彼女の言葉に、無恤は何かを閃いた。

「天狙や。お前、船と言わなかったか?」

「ああ、言うた。穀物を入れた船は、魏の殿さんから張さんが受け取ったもんだべ」

 天狙が言う事には、魏駒は水上戦を想定して船を持って来たが使い道がない。そのため、西の砦から分捕った穀物を運ぶ車代わりに使っているとの事だった。

 無恤は書簡を広げると一巻の文を認めた。緊急で魏駒に渡す書類であった。

「天狙。魏卿閣下に、水軍の援軍を要請して参れ。新稚狗は力のある馬を百頭連れ、魏の船を曳いて来るのじゃ!」

 天狙はその言葉が終わると当時に姿を消してしまい、新稚狗は丈夫な馬を引き連れて飛び出して行った。


「御曹司、これは奇跡でしょうか。はたまた、天の下し賜うた配剤か……」

 山の陣地に残った陽虎は、策の成功を導くために不可欠な船が存在した事が信じられない様子だった。

「どちらでも良いでしょう。魏と組んで、陸水から東の援兵を討つ事が最優先ですからな。こうした事態に強いのは……そうか、孟談じゃ。奴が来るならば、尚良かろう」

 出陣の前の夜宴を孟談に命じた際、彼の堅実さと柔軟さを褒めた無恤は、岩を恐れぬ水と孟談を評した。宴会は大成功に終わり、智瑤をも唸らせる人物としての片鱗を孟談は持ち合わせていた事が証明された。

 確かに、孟談はいざとなった時には奇抜な策を思いつくが、実直過ぎるので頭脳戦では陽虎や高共、原過におぼつかない所があった。

 それでも、民間から集まった兵士らに期待されている人物に活躍の場を与えてやりたい。豪族の子として生を享けた趙無恤と言う人傑が地方出身の真面目な青年・張孟談に抱いた親心ならぬ、主君心であった。

 そうした無恤の様子を、苦々しくかつ辟易しきった目で見つめている者がいた。趙氏が誇る戦車部隊の若き司令官・楚隆だ。

「相変わらず、御曹司は張殿に御執心だ。秀才の庶民も良いが、譜代の熟練した軍人こそ主力と言う事を忘れては頂きたくないものだよ」

 楚隆は冷静な顔つきではあった。だが、その心の内には張孟談への対抗心が、燃え盛る炎の如く滲み出ていたのであった。


   4


 趙無恤からの連絡を受けた魏駒が最東端の陣地に着いたのは、翌日の夕暮れ時であった。魏氏の軍団をもてなすかのように炊かれ、煮込まれていた糧食は先に立って進軍していた張孟談が運んで来たものだった。

「趙御曹司、自分の水軍を御入り用と伺いましたが……」

 息を荒くして駆けこんで来た魏駒は、無恤と崇王彦に面会して戦略を問うた。

無恤は、亡命している中行寅と范吉射が斉の指導者らを扇動し、鄭に援軍を出す可能性が高い事を話した。兵や物資が船で送り込まれると想定し、船を持ち込んでいると言う魏駒の援助を請うた経緯を述べたのだった。

「斉の船団は、私と義兄の騎兵では対処し切れない相手であれど、貴公自慢の水軍ならば互角と思い申してな。どうぞ、御助力を賜りたいのです」

 魏駒に頭を下げたのは、年上の無恤だけではなかった。都におわす天子と対等ではないものの、王を名乗る代国の崇王彦も跪いて助力を願って来たのだ。

 これには、魏駒が驚愕した。他の諸侯や三卿が自分に頭を下げることなど、全く無かったからだ。

「崇陛下、趙御曹司! 頭をお上げ下さい。若輩者に何と勿体なき事です。自分とて晋国の臣下、どうして嫌と言えましょうか。喜んで戦わせて頂きます」

 魏は韓と並ぶ弱小な勢力であり、今回の戦いでも満足な手柄を立てられずにいた。増してや最年少と言う劣等感も魏駒を追い込むものであった。

そんな自分が唯一得意とする水軍の力を借りたいと実力者二人が申し出て来たのだ。拝礼する無恤と崇王彦を抱き起こす魏駒の目には、感激の余り涙が光っていた。

 二卿と代国王は、戦勝の誓いも新たに酒を酌み交わし、気勢を上げた。魏軍の援兵到来は休息中の趙・代国の兵にも伝わり、兵士らも一献酌み交わして士気を奮い立たせた。

その様子を見ていた陽虎は、船が手に入ったのも然る事ながら、これだけの士気と人材があれば勝ちは間違いないと見込んだのであった。


 魏援軍の到来から一夜が明けた。先日からの西風がかなり強くなり、斉や衛など東国の援軍が船で送り込まれてもおかしくない状況だ。

「わしの見立てに間違いが無ければ、そろそろ来るはずじゃが……」

 不寝番を労いながら、陽虎は明け方の山頂で河の様子を伺った。西風が吹き付ける中、東の方に何やら小さな物が見え始めた。

「天狙殿。早朝から相済まぬが、偵察を頼まれてくれんか」

 唸るような低い声で陽虎が囁くと、天狙が背後の樹上から飛び降りて来た。

「あいよ。朝寝の目覚ましにゃ、丁度良いべ」

 彼女は言い終わるや否や、風の如き俊足で姿を消した。

「敵に竈の煙を悟られてはいかん。早々と食事を済まし、迎撃の支度をさせねば!」

 天狙に偵察を要請した陽虎は、陣地へ戻って起床した面々に指示を下したのであった。

 一刻(約三〇分)も過ぎた頃。一同が急ごしらえの朝食をしたためている所に、天狙が帰って来た。何やら、面白いものでも見つけたような顔だった。

「ただいま。ああ、腹が空いただ」

「おお、良く戻りましたな。その様子では、何か分かったようじゃな。やはり、あの川面に浮かぶ小さいものは……」

 天狙の顔を見た陽虎は笑いながら、彼女に黍飯の載った皿を差し出した。飯を皿ごと引ったくり、貪るように食べる天狙はご飯粒を飛ばしながら報告した。

「恐らく、斉じゃねえかと思うべ。だって、魯とか衛の訛りじゃねえし、塩がどうのこうの言っとっただからな」


 斉は開祖である呂尚、俗に言う太公望の時代から海の恵みを活かした産業の本場であった。特に海水から製塩される塩は岩塩に頼りがちな内陸部では重宝され、斉の名産にして収入源でもあったのだ。

「なるほど。塩は我ら人間だけでなく、牛馬にも欠かせないものじゃからな。斉ならば中行・范の輩もおるはずだ」

 口を挟んで来たのは、上座で崇王彦や魏駒と共に会食していた趙無恤だ。彼もまた、斉への敵愾心を激しく燃やしていたのだった。

 晋軍の面々が食事を終えた頃、川面に浮かんでいた物体は肉眼でも分かる距離まで近づいていた。それは、“斉”の旗印を掲げた軍船だった。

 数時間後。黄河支流の船着き場では、斉の兵士が積み荷を降ろしながら鄭の輸送部隊と話し合いをしていた。

「ようこそ。鄭の街見物と洒落込んで欲しい所ですが、晋の逆臣四卿が北狄を伴って攻めて参り、斯様な御足労をお掛けした事を恥ず次第です」

「何を言われます。身共もまた、晋の暴威を憎む者として助太刀している次第です。物資の次は兵員を送り込みますので、安心されよ」

 斉の将校が自軍船から物資を出させようとした、その矢先の事だ。何やら兵士らが騒がしい。

「大変だ、谷川に船が湧いて出たあ!」

 よく見ると、東西に分かれた山の間にある渓谷を流れる川から、晋軍の軍船が現れたではないか!


「我こそは、晋公家四卿の一人・魏駒なり。お前らの援軍などお見通しよ!」

 活躍の場を見出し、喜びに満ちた魏駒に勇気付けられた水軍将兵は訓練の成果を活かし、巧みに船を操作すると斉の輸送船に体当たりを始めたのだ。

不意を突かれた斉の船は、魏の船が大きく丈夫だった事もあって、次々に黄河へと沈んで行った。

 続いては、山肌を揺るがす馬蹄の響きが、地震の如くに響き渡った。

「我らは陸から攻めるぞ。魏殿に負けるでない!」

 東西の山地に伏せておいた騎兵と戦車による、奇襲の波状攻撃が鄭・斉両軍に炸裂したのだ。それには、如何に太公望の後継者を自負する斉軍も仰天した。鄭・斉の兵は為す術も無く、趙・魏・崇の伏兵に蹴散らされ、死体の山が築かれていった。

 黄河。この悠久の歴史を見続けて来た黄色い大河は、この日は深紅の鮮血に染まったのであった。


   5


 魏駒の船団に船を沈められ、山からの戦車・騎馬隊による逆落としが功を奏して鄭・斉の連合軍は潰走した。晋の軍は精強な兵を繰り出し、しかも戦闘用の船を持っていたので攻撃的に出る事が出来た。

 だが、鄭と斉は輜重部隊と輸送船しかなく、戦闘の支度は

最低限であった。しかも一枚岩でないと来れば、戦いにならぬも道理である。

「孟談よ。先は陽軍師の意見を取り入れ、楚隆に殲滅を任せておるが、お前はどのような策を良いと思うか?」

 敵部隊を確固撃破しているのを見た無恤は、輸送から戻って戦闘に加わった張孟談に意見を求めた。

「はい。私は、智卿閣下がお褒めになられた、新稚狗親分の策を採りとう存じます」

 孟談は、天狙が持ち帰った情報からある事を思い出していた。兵士ならば兵員の事を話しこそすれ、塩など物資の事をやけに口にしていたと言うのが、気にかかったのだ。

自分が農民や商人として活動し、かつ軍需物資の輸送に携わった経験からすれば、そうした会話をするのは軍属の民間人であろう。孟談が献策を終えると、無恤が頷いた。

「ふむ。智卿が褒めた新稚狗の策と言えば、逃げ道をわざと用意せいと言う事じゃな」

「御意にございます。逼迫した敵の反撃でお味方を失うのは損害です。ただ、逃がすのは民間人で宜しいかと存じます」

 

 孟談は役人であり、栄えある趙氏が誇る軍人の中に名を連ねる身分だ。だが、砦を落とす際に民間出身の兵士の声援を受けたように、心の内には庶民の精神が脈々と根を張っていた。

 これでは武人失格であろうが、自軍の兵士らが追い込まれた他国兵に反撃されて死傷するのは辛い。極力犠牲を少なくするのが、孟談の信ずる道だ。

「民を逃がせとは、お前らしいな。良かろう、兵士は全員倒さねば進軍に支障があるからな。採用致す!」

 孟談の策を決定した無恤は、楚隆の下に命令を出した。敵兵を殲滅するが、民間の軍属を逃がす道を作れと言う指示であった。

「おお、御曹司からのご命令か。意見を出したのは恐らく張殿か……良いだろう。私も兵の命は失いたくないからな」

 楚隆にとっては、兵法の家に生まれたわけでもない孟談が、罪なき民を殺す勿れなどと惰弱な私情を作戦に挟むのは、当然腹に据えかねるものがあった。

 だが、自分の下で忠実に戦う将兵らの苦しみを思う気持ちは同じだ。

「お前達、荷駄を守る兵には構うな! 向かって来る歩兵共を討ち取るのだ。続けッ!」

 楚隆は自ら戟を振り、斉の将校を斬り伏せた。赤黒い花の如く鮮血が飛び散り、金属と皮革の触れ合う乾いた音が響いた。それを機に士気を鼓舞された趙氏の兵は殺到し、斉の援兵は潰えていった。

 

「やい、雑兵共! 死にたくなければ、退きやがれ!」

 新稚狗の殳が炸裂し、歩兵に紛れていた軍属が殴り殺された。だが、崇王彦は早くも義弟の作戦を見抜いており、

「新稚狗君。御曹司は敵兵を倒すが、軍属は倒さぬようですぞ。無差別の殺戮はおやめなされ!」

 ハッと気付いた新稚狗は殳を収め、その隙に軍属達は逃げて行った。各地では鄭・斉の兵士が全滅し、輸送のために駆り出された者達が降伏し、或いは逃げ道から退却を始めた。

「さあ、これで最後だ。趙御曹司、崇陛下。斉の指揮官を捕まえました!」

 魏駒が船上から陸の面々に声をかけた。彼の脇には、将校が一人縛られていた。

「貴様が斉の指揮官か。何故、鄭に与したのか?」

 無恤が詰問すると、相手は悪びれずに答えた。

「斉の祖・太公望は周宗室の恩顧を享けた身。宗室の御親族を救うのは当たり前です。そして、中行寅様と范吉射様の事もあります」

「中行と范だと?一体、お前らと何の関係があるのだ」

 魏駒が問うと指揮官は笑って、

「あの方達は鄭や晋では嫌われておりましょうが、武人不足の斉では英傑でした。下賤の者でも努力と功績で出世させて下さったのです」

 この指揮官も一人の衛兵だったが、中行寅と范吉射の推挙で出世しており、報恩のため志願していたのだった。

 反対する者の手足を斬るなど蛮勇を極めた中行・范両氏だったが、勇気を重んじる心はあったのだ。

「将兵を失って、自分ひとり生き残るわけにもいかぬ。ただ、輸送隊は水辺に住む異民族。釈放してやって下さい」

 そう言うと、指揮官は首を差し出した。潔く処刑される覚悟であった。

「天晴れな奴、約束は守るぞ。その覚悟や良し!」

無恤は、自ら呉鉤の刀を持つと一太刀で斉の指揮官を処刑した。


「水辺の民か……孟談の読みが当たるとは見事じゃ。これ、捕虜共を連れて参れ」

 無恤の命令で、輸送に携わっていた異民族達が連行されて来た。

「貴様ら蛮族は、本来ならば奴隷にするか死罪が妥当。だが、指揮官殿の遺言で許す事にした。さあ、行ってしまえ……斉や鄭の奴らに捕まらんようにな」

 許された捕虜達は、名の通りに非情と恐れられた無恤の意外な言葉に驚きつつ、何度も頭を下げて立ち去った。彼らは壊れた軍船から小舟を持ち出すと、それを巧みに漕ぎながら東に帰ったのであった。

 帰って行く捕虜達の姿を見送った無恤は、崇王彦と魏駒に呼びかけた。

「義兄上、魏卿。斉の援軍は絶ちました。我らも水軍で新鄭に向かいましょうぞ」

「ははは、お任せ下さい。斉軍ではなく、晋の水軍が現れたら奴らも大慌てでしょう」

 魏駒も大喜びであり、崇王彦も賛成した。ただ、東からの援兵が無いとも限らない。そこで、魏水軍の一部で水路を塞いで、戦車と歩兵が水路、騎兵は陸から新鄭へと足を進めたのだった。

「私の策が受け入れられて成功した……御曹司は私を信じて下さっているのだ。この戦い、絶対に勝つ。私は夜宴の名将にして、家宰候補の張孟談なのだから!」

 西風を浴びつつ、運河を往く船上に佇む孟談は、趙無恤の期待に応えられた嬉しさに胸を躍らせていた。

明日の朝には、決戦の地である新鄭に到着する。そんな思いを胸に、孟談は水上で一夜を過ごしたのであった。

 

   6


 新鄭への船路を往く張孟談だったが、その心は翳りを帯びていた。数年前に中行・范氏に仕官した豫譲の事が気がかりだったのだ。

「阿譲はどうしているのだろう。先程の兵士や将校の中にもいなかったようだけれど、心配だなあ」

 呟く孟談の頭上には星が瞬いていた。その煌めきを見つめる彼の傍に天狙が近寄って来た。

「明日は新鄭攻めだよ。張さん、互いに気張ろうや」

 彼女はいつものようにお調子者だったが、その屈託の無い性格は、孟談の悩みを打ち消してくれるものであった。

「そうですね。私には、天狙さんのような勇気も俊足もありませんから、頼りにしてますよ」

「何を言いなさるだ。おらのおつむは、旦那のような名案が咄嗟に浮かぶ上物でねえからな。これからは知恵で戦う時代って事は、楚の旦那も分かっとるはずだけれど……」

 天狙は、何かを言いかけていたが口をつぐんだ。楚隆が以前から孟談に対抗心を燃やしていた事を感じていたのだが、実直な孟談が傷付くのを恐れ、今まで黙っていた。

「私は一文官。あの方の将器には及びません。戦の時は楚隊長に従う事にしているから、大丈夫ですよ」

 孟談も、以前から楚隆の目を気にしてはいた。だが、出自も学歴・職歴も違うのだから争うのは無駄であり、戦では自分が下に出れば良いと言う諦観した考えがあった。

「そうか? おら、いけねえ事言っちまったかと反省してるだ……ただ、身内の喧嘩は良くねえと思うべよ」


 天狙の寂しげなお喋りは続いた。彼女が産まれた南方の諸部族は身内でも殺し合い、強い者だけが生き延びるのを許される酷暑の大地だった。

故郷の戦乱ぶりに比べれば、戦こそ皆無ではないが君臣や一族が仲良くしている趙氏一門は斬新であり、斯様に穏やかな生き方もあるのだと感嘆したものだった。

 越の辺境で暮らしていた幼い天狙は、呉への貢ぎ物とすべく奴隷狩りを決行した句践軍に捕まり、夫差を経由して趙に差し出された。

その自分を奴隷だ、蛮族だと蔑むどころか重用し、しかも娘らしい人生を送らせたいと考えてくれた趙鞅の恩義は、常に天狙の胸中に刻み込まれていた。そうした和合と情のある新天地には、南方のような身内争いを起こしたくないと思い、つい口に出たのだ。

「異国の方からも気遣って頂けるとは、有り難い限りです。お互いに最善を尽くしたいものですね」

「おう、その意気だよ。じゃあ、寝るとするべよ」

 華夏の文官と南国の女戦士は、夜風と同じく爽やかな笑みを浮かべると、船室へ戻って行ったのだった。


翌朝。魏氏の水軍に同乗した趙氏の一門は、西へ通じている運河に乗り入れることに成功した。ただし、運河と言っても隋の煬帝で有名な大運河の類ではなく、当時は自然の川を利用しただけであったため、軍船が通るには少し窮屈であった。

智瑤が攻めあぐねる要害と言うのは、岩山を利用した関所であり、文字通りの難関と言えた。

「趙・魏の皆様、お疲れ様でございました。崇陛下と韓卿閣下も到着されたので、総攻撃を加える支度をしていたのですが……」

 言いかけて、智瑤は口籠った。その顔色を見た無恤が、はたと思いついたように申し出た。

「もしや、斉の軍がまだおるとでも仰せか? 水路の援兵は我らが絶ち申したが、陸路はまだですからな」

「その通りです。智過と智宵が近隣を歩いていた行商人に尋問をした所、中行寅と范吉射らしき者が援軍を率いて新鄭に駐屯しているとの由なのです」

 流石の智瑤も表情が暗い。中行・范氏が牛耳っている斉軍を率いて鄭に来援したという事は、晋の覇道である南下政策を本気で潰しにかかって来たという事だ。

「更に、斉軍の士気を高めているのが中行と范だけでなく、一人の剣士でござる。絳を守る精鋭兵五人を、彼奴は簡単に斬り殺しおったんじゃ。確か、楊とか豫とか申す、晋訛りのある男でござった」

 韓虎は、一番早く智氏の救援に駆けつけていたため、精鋭兵が瞬時に切り倒される様子を見ており、その様子を綿密に話して聞かせた。


「豫だって……まさか、阿譲が来ていると言うのか?」

 孟談は、韓虎の話を聞きつつも一人で悶々としていた。確かに彼は、近所に住む武芸者の家で稽古をしていたし、その腕で中行寅と范吉射に仕えるべく、斉に旅立ったのだ。

友と刃を交えねばならないかも知れない事に苦悩する一方で、似たような経歴と名前を持つ別人である事を祈らざるを得なかった。

「だが、これは絶好の機会と言えます。斉の要人となった中行寅と范吉射を倒せば、晋の威光は天下に輝くものとなるでしょう」

「趙御曹司のお言葉は的を射ておられます。新鄭を落とすには、斉の援軍共が籠るこの関所を破らねばなりません。それにしても、その剣豪とやらは逸材のようでございます」

 無恤と作戦会議をする智瑤の眼は、関を落とす作戦だけでなく、彼の癖である人材蒐集にぎらぎらと輝いていたのだった。


 一方、晋を迎え撃つ新鄭直前の関所には智瑤の報告通り、斉の陸路からの援軍を率いる武人が駐屯していたのだった。関所に用意された斉の公館の庭では、作戦会議が開かれており、その背後には十数名の若者が随行していた。

 老いてもなお矍鑠(かくしゃく)とした闘志を抱く老将は趙鞅・高共主従の宿敵である中行寅、残忍な中に智勇を宿した壮年の軍師は、遠縁同士である智氏と相争った范吉射だ。

「智氏の倅め。趙の放蕩息子ばかりか、韓の親爺と魏の若造を連れて攻めて来おったか」

「中行殿、焦ってはなりませぬ。趙無恤は人材を扱う名人。油断ならぬ相手は情報を集めてからでないと勝てませんぞ」

 中行寅を諌めた范吉射は、扇を振った。すると、若者を率いていた一人の青年が進み出た。

「しかし、まさか商人が天子様への上奏文を携えておったとは、よもや智瑤も気づくまい。さすがは豫太公の嫡男と言うだけはありますな……豫譲殿」

 豫譲、と呼ばれて進み出た青年は一礼した。

「稚拙な文をお褒め下さり、光栄です。両閣下のお引立てに感謝致します」

 豫譲の言葉を聞く范吉射は、満足そうに笑った。

「うむ。君の文才は見事だ。これからも私の秘書として文筆で身を立ててくれ給え。期待していますぞ」

范吉射に言葉をかけられても、何故か豫譲は愛想笑いをするだけで、喜びに満ちた顔を浮かべる事は無かった。彼の抱く虚しさを知るのは、戦場を吹く風のみであった。


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