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春秋の牡丹11話

十一章 高蓮英

 

   1


 晋陽郊外に広がる秋の黄河流域は、実りで黄色く色付いていた。今も華北では小麦だけでなく、粟、高粱と言った多種多様な穀物が大陸北部の人々の糧として根付いて来た。この広大なる大地は、支配する政権が移り変わり、技術が進歩しようとも本質的には変わらず、悠久の時を刻んでいる。

 晋陽城も例外ではなく、冬支度のために収入源である麦束を担いで晋陽城にやって来る農民の姿は、秋の風物詩だった。その風景を、庭先の安楽椅子に腰かけた孟談はじっと見つめていた。自身も経験した人々の営みは、何年過ぎようとも変わる事はないだろう。

「御隠居様、お夕飯の支度が出来ました。食堂にお越し下さいな」

見ると、旬愛が後ろに立っていた。彼女の存在に気付かなくなるくらい、孟談は物思いにふけっていたのだった。

「おう、済まぬ。また、昔のことをな……」

 彼は八十近い老体を杖に寄り掛からせて立ち上がり、遅いながらも確実な足取りで歩いた。食膳には鶏肉の出汁で煮込まれた粥、柔らかく煮込まれた干し魚、そして数種類の野菜や肉を炊き合わせた羹の小鍋が良い香りを漂わせていた。旬愛が腕を振るったものだ。

 だが、何より孟談を喜ばせたのは、膳のそばに設えられた木盆に燗をした酒があった事だ。数種類の干物や漬物と言ったつまみ物と共に並べられた酒を手にした孟談は、目を細めてひと口飲んだ。

「おう、こいつは美味い。これこそが、儂の生き甲斐なのだ」

 喜ぶ老主人の姿を見た旬愛も、嬉しそうに微笑んだ。

「御隠居様。つかぬ事を伺いますが、宜しいでしょうか」

 給仕をしながら話しかけて来た彼女の様子は、どこかただならぬものがあった。それを見て取った孟談は粥の椀と匙を卓上に置いて、

「おお、知らぬ仲でもない。気兼ねなく聞いてくれたまえ。時にお前さんも飲めるかね?」

 孟談は少量の酒を旬愛に勧め、談笑の場を作った。旬愛は酒を賜った事もあり、意を決したように質問した。

「実は、先日の秋祭りに行った時の話なのです……」


 旬愛は、孟談の屋敷に近い所に母や兄弟と共に住んでいる。晋陽の兵士だった父は幼い頃に戦争で亡くなっているが、不思議と生活に不自由したことは無かった。それは、張孟談を始めとした趙氏家臣団が金品を出し合って援助してくれていたからだ。

 彼女が張家の屋敷に仕えられたのも、孟談が雇いたいと申し出たことが理由だった。戦没者の家族に対して、充分過ぎるくらいの礼遇を受けられる幸せを亡父と祖先に感謝すべく、旬愛一家は秋の祭りが開かれる神殿に赴いた。

 その神殿は、原過の一家が祭司を務める晋陽一の規模を誇る祀りの場で、その日も参拝客でごった返していた。神殿での礼拝を済ませた旬愛が母達と帰宅しようとした時、

「旬愛、買い物をして帰りましょう……あら、どうしたの?」

「ねえ、お母さん。あそこに、変わったものがあるの」

 立ち止まった彼女は、参道の左脇に植樹された松の下に建立された、幼児の背丈くらいの石を指差した。それは小さな石碑で、“商朝の末孫一門ならびに、その忠臣の御霊、ここに眠る”と、おぼろげな字で御影石に刻まれたものだった。商の子孫は周王朝においては、敗亡した政権の末裔として侮辱を受け続けた存在で、周の宗族が治める晋国で顕彰するなど以ての外だった。

 特に有名なのは、身の程知らずの仁愛をかけた『宋襄(そうじょう)の仁』や、切り株にぶつかった兎を得て図に乗った『守株待兔(しゅじゅたいと)』の故事だが、その舞台となったのが商の生き

残りが住まう宋の国だ。

 そのような石碑が周宗室の親族が治める晋にあるのは、旬愛には理解できなかった。仮に商王朝時代の石碑であったにしても、そうしたものが周のお膝元にある神殿に安置されるはずもない。

 彼女の話を聞き終えた孟談は嘆息し、彼女の方を向いて穏やかに語りかけた。

「さようか……お前さんがあの石碑に気付いたと言うことは、話すべき時が来たのかも知れぬ。まず、儂が鄭から帰還した頃から話そうかね」

 語り始めた孟談の脳内は、再び五十年以上もの時を遡り始めていた。

 

――紀元前四七五年の秋。

収穫期を迎えた大地を、砂煙を上げながら北に向かっていく軍があった。それは、新鄭の戦いを終えた晋軍だった。勅使も都に帰り、戦後処理が済んだ晋の軍は鄭の地を離れ、首府である絳へ凱旋をすべく歩を進めているのだ。

 春に絳を出陣し、半年近く南に出陣していた晋軍の面々は和議の条件として得た幾許かの宝と、勅使がもたらすであろう吉報への期待を手土産に、意気揚々と帰途についていた。

 その中でも一番の喜びを胸に秘めていたのは、奇跡的な再会を果たした張孟談と豫譲の二名であった。数年来に出会えたのも然ることながら、共に晋公家に仕える事となったのが、最も二人を歓喜させたのだった。

 さて、出征した時と同じく半月ほどかかって晋軍が絳に着くと、既に伝令を晋太子・姫鑿が守備隊を率いて待ち受けていた。

「臣荀瑶、己が采配の拙き余りに戦を長引かせてしまいました。晋公殿下並びに太子の御心を悩ました大罪は万死に値するものです」

 智瑤が、軽く頭を下げて復命が遅れた罪を謝した。如何に武装していても、主公の前では跪くのが常識であるにも関わらず、智瑶は堂々と“無作法”に及んだのである。そんな彼の振る舞いを見ても、姫鑿は穏やかに慰めた。

「智卿、よく戻られました。趙・韓・魏の三卿も征伐の補佐、実に大儀であられた。我が宮殿にて宴を用意致したゆえ、参りましょうぞ」

 老衰した父の名代で首府の政治を一手に引き受ける姫鑿はまだ若く、智氏を筆頭とした豪族の補佐が不可欠だった。そのため、臣下であるはずの趙・智・韓・魏の四卿に対して、極めて謙遜した態度なのは前述した通りである。

 こうした主従関係は混乱期においては珍しくなく、衰退した主家が強き臣下を頼るのは当然だった。智瑤が姫鑿に取った態度とて単なる慇懃無礼ではなく、乱世の習いを示したものでもあった。

 哀れな境遇に置かれた太子と、彼ら父子に対して絶対的とも言える影響力を誇る筆頭家臣――そんな姫鑿と智瑤に導かれて宮殿へと進む一行は、それも致し方なしと己に言い聞かせつつも、ほろ苦い思いで歩を進めたのだった。


   2


 凱旋した晋軍が宮殿での式典に臨んでいるのと時を同じくして、常山を身なりの良い一人の男性が、数名の随員を伴って登っていた。汗を拭いながら恰幅の良い身体を揺すって彼が歩みを進めているのを見て、四・五人の住民が跪いて出迎えた。

「高共様! 高家宰ではありませぬか。どうなされたのです?」

 そう、山道を歩んでいたのは他でもない趙氏家宰・高共であった。筆頭家臣の来訪に常山に住む人々が驚きを隠せずにいると、

「諸君、出迎え御苦労でした。拙者は董……いや、趙の御家代々の霊廟に参拝致したいのじゃ」

 高共一行は住民から冷たい水を振る舞われて喉を潤し、彼らの導きで霊廟へと向かった。趙氏の霊廟は石造りの小ぶりな神殿で、周辺には瓦や石で造られた陵墓があった。これらの陵墓は、趙氏に仕えた家臣が葬られる墓地だ。

 高共が歩んでくるのを見た霊廟の老神官は慌てて飛び出し、拝礼した。

「これは家宰殿! お出迎えもせず、御無礼奉りました。この御様子を拝するに、ただ事ではなさそうですな?」

「面を上げられい。拙者が参ったのは他でもない。我が晋軍が鄭に勝ち申した。そればかりか、憎き中行寅と范吉射を屠ったご報告を致すためじゃ」

 晋の勝利を聞いた村人は、わあっと歓声を上げた。地元民から構成される神官や巫女、墓守達も同様に喜ぶ。長老格でもあり、無益な殺生を諌める立場にある老神官は騒ぎこそしなかったが、穏やかに微笑んで高共を祝った。

「これはようござった。ささ、どうぞこちらに……家宰の御来訪を、安于様もお待ちでございますよ」

 彼の心を温かく気遣うかのような眼差しを向ける老神官の案内で、高共は霊廟へと入っていった。

 高共が入っていった霊廟には趙氏代々の当主や老若男女の名前を記した位牌が無数に安置され、香油の灯りがともされていた。高共は随員か手渡された革袋を開き、穀物や家畜と言った御供えの品々を取り出して祭壇に供えた。

 

 当時において祭祀を行うのは君主の一族か高位の神官が主であり、文官の高共が代行するのは、本来ならば越権行為と目される行いだ。だが、これは趙無恤と趙鞅から前もって言い付かっていた供物だった。

 無恤は遠征中、趙鞅は高齢、趙周と趙桓子は幼いため、祭祀の代理が出来るのは高共ただ一人だったのだ。それは高共への絶大な信頼と、何よりも彼が恩を感じている董安于への、趙氏からの償いでもあった。

 (代々の皆様による御加護を賜り、御曹司は凱旋されます。安于殿、仇は討ち果たされました……周舎殿と共に安らかにお眠りあれ)

 趙氏の神殿に参拝を済ませた高共は家臣の墓地に足を運び、人目を避けるかのように建立された墓石の前に平伏して祈った。その墓石には『趙氏之大家宰董安于』『趙氏之忠臣周舎』と刻まれていた。

世話になった先代家宰の董安于が、智氏の差し金で処刑されたのは先述した通りだが、もうひとつ高共を苦しめる事象があった。それは、周舎の惨死だった。周舎は高共の同僚として共に晋陽を守備していた文官で、彼も優秀な人物であったため、趙鞅はどちらを家宰にしようか迷っていた。

 そんな矢先、周舎は不慮の死を遂げた。ある日の明け方、城門前で彼が冷たくなっているのを警備兵が見つけたのだった。安于に先立って史黯、尹鐸両名が亡くなっており、それに続いて周舎が死んだと言う話は、晋国を動揺させた。

 人々は家宰になりたがった高共が行ったのではないかと噂したが、趙鞅は取り合わなかった。それどころか、

「儂は主を信じておるぞ。己の心にやましきことが無ければ、清廉に勤め上げるが良い」

 と、温かい言葉をかけて励ました。趙鞅としては勤勉な部下をこれ以上殺したくなかったのと、安于に続いて周舎と高共を立て続けに葬らんとする智氏の策略が闇にうごめいているのを感じていたのだ。

 事実、高共を信用し切っているのを智氏が見て取ったのか、臣下同士の仲を引き裂くような事件が起こる事はぴたりと止んだ。それでも、親しい者を二人も失ったことに変わりはなく、彼らの御霊に詫びるかのように高共の忠勤は続き、今に至るのであった。


 礼拝を済ませた高共が村人と老神官らに暇を請うていると、一人のうら若き女性が手を振りながら山を登って来た。

「おう、蓮英(れんえい)! おばば様からの伝言でもあったのか?」

「ええ、お祖母様からの伝言よ。そろそろ若様達がお戻りになるから、お城に戻ってちょうだい」

 この娘は高蓮英と言い、高共と郭氏の孫娘である。年の頃は二十代前半で美しい盛りだが、まだ未婚なのが祖父を悩ませていた。

「分かった。今すぐ帰るから、一緒に行こう。だが、大声を出すでない。がなり立てるから、お前は行き遅れるのではないか?」

「ひどいわ、お祖父様。それは言わない約束よ!」

 困ったように笑う祖父に、蓮英も苦笑したように返答した。下山した高共と蓮英が馬車で晋陽に帰ると、趙無恤の率いる軍が城門に達する頃だった。

「おう、じいではないか! 蓮英もお祖父様のお伴とは感心じゃな」

 二人が車から降りて礼をすると、指揮官の車に乗った無恤は機嫌良く呼び掛けた。

「御曹司。鄭との勝ち戦、祝着至極に存じます。中行と范を誅され、安于殿と周舎殿も浮かばれましょう」

 懸念であった董・周二名の汚名を晴らす事が出来た喜びから、高共は涙を流しながら無恤の凱旋を祝った。

「じい、もう良い。泣くな、泣くな。彼らも、そちの思いを汲んでくれていることじゃろう」

 無恤も高共の無念は分かっていたし、彼らが戦勝報告のために神殿に出向いた帰りだったのは見て取れた。つき従う武将達も、高共の姿を見て貰い泣きする者が多かった。

「でもよう、告げ口をした智氏をやっつけなきゃ仇討ちは済まねえぞ。あいつら、俺様が残らずたたっ殺してやるから楽しみにしていろよ」

「新稚狗親分、声が大き過ぎます。智卿閣下は、今回の戦では私達の味方だったのですよ!」

 大声がした方を蓮英が見ると、大男と若者が言い合っていた。一人は騒動を起こしてはいつも高共に叱られている新稚狗だが、もう一人は見慣れない男性だった。原過や延陵生のように気品溢れる才子と言った怜悧さもなければ、厳格な楚隆とも違う。おっとりしているが、朴訥で勤勉そうな人物である。

「お祖父様、新稚狗さんと騒いでいるあの人は誰なの?」

「おお。あの方は張孟談殿と言ってな、豫家の方々から学問を手ほどきされた商人だよ。その学問を活かさせようと、御曹司がお召抱えになったのだ」

 祖父が喜々として紹介するのを聞きながら、英蓮の眼差しは新稚狗達と笑いながら騒いでいる孟談に注がれていた。


   3


 晋陽に到達した趙軍は、無恤の馬車を先頭にして入城した。兵士や官吏が旗を振り、庶民は香を焚いて花を手にして出迎えた。その先頭には、無恤の長男趙嘉と甥の趙周が並んでいた。

「叔父上、おめでとうございます」

「父上。此度の勝ち戦、祝着至極にございます」

 趙周と趙嘉が拱手して戦勝を祝うと、無恤もにこやかに答えた。

「周殿、阿嘉。両名とも大儀であったな。さあ、皆で祝おうぞ」

 趙氏の未来を担う若者達が、立派に責務を果たしているのを見た無恤は満足そうに頷き、宮殿へと向かった。一同は、久方ぶりの“我が家”である晋陽城内の景色を感慨深げに眺めていたが、孟談はどこか気が浮かなかった。

(戦どころか、喧嘩も出来ない私が生き延びて帰還したか……もっと、兵法と武芸を学んで、皆の邪魔をしないようにせねば)

 孟談は今回の初陣に於いて、宴会の支度や豫譲の介抱などで働きはしたが、他の面々ほど戦果を挙げてはいなかった。それどころか、自分の身を守るので精一杯だったのだ。

おまけに、同じ平民上がりの軍属や兵士が少なからず犠牲になっているのも、政

治と軍事の色に染まり切らない彼の心に、深い影を落としていた。孟談がふっとた

め息をつくと、

「あの、どうかなさったのですか? 顔色が良くないですよ」

 孟談が振り向くと、隣の馬車に乗っている若い女性が微笑みかけてきた。年の頃は同じくらいで、陽気な中に芯の強さを宿した顔立ちだ。

「あ、いえ。亡くなった方達に祈りを捧げていたのです。自分と同じ、農民や商人もおりますゆえ……戦勝のめでたき日に女々しいことをしてしまい、我ながら情けないことです」

 

 孟談が己の煮え切らなさと気弱さを嘲るように笑うと、女性は険しい表情で反駁した。

「失礼ですが、それは違うと思います。同じ仲間のことを忘れずに祈られるなど、女々しいどころか、男子の誇りではないでしょうか。生まれ持った優しさと誠意は、貴男に天の神様が授けて下さった宝ですよ」

 自信を失くしていた孟談だったが、彼女の温かい励ましで少しずつではあったが、気が楽になっていった。

「ありがとうございます。私は間違っていなかったのですね……優しいお嬢さん、いつか貴女に報いたい。お名前をお教え頂けますか?」

「どういたしまして。私は高共の孫で、名を蓮英と申します。以後、お見知りおきを」

 そう言うと蓮英は一礼して馬車を降り、高共の後ろについて行ってしまった。その後ろ姿を見送る孟談は、打ちひしがれた自分に活力を与えてくれた彼女に、そっと頭を下げた。

「張の旦那、いつからお嬢さんと仲良くなったんですかい? あんなに可愛くて頭も良いのに婿さんがいねえなんて、勿体ねえよな」

 見ると、後ろに新稚狗が立っていた。彼は孟談の肩をポンと叩き、歩くように促した。宮殿に着いたのを思い出した孟談は慌てて飛び降り、新稚狗や天狙、陽虎らと共に歩き出した。微かに胸を締め付けられる思いと共に。


 一同が宮殿の大広間に入ると、趙鞅が杖を手にして玉座に腰かけていた。広間には所狭しと酒肴が並べられ、宴の支度がしてあった。戦勝報告を受けた趙鞅が用意させたのだろう。

戦況を憂慮したためか、ただでさえ痩せ形の趙鞅の体躯は少し痩せていたが、顔は喜びと精気に満ちていた。孫達の案内で帰館した息子とその配下達を慈しむかのように見つめ、

「報告は聞いておる。皆、この爺に替わってよう戦ってくれた。この宴は、わしからの礼じゃ。さ、今宵は無礼講。乾杯致そうぞ!」

 凱旋した者達は趙鞅の玉座や重臣の席に近い上座に座席を賜り、戦功と労をねぎらわれた。兵士達も彼らのために設えられた広間に通され、女官や宦官の酌で酒宴が始まった。

 趙氏一門は鄭攻めのいきさつを肴に酒を酌み交わし、臣下達もさしつさされつで美酒を痛飲した。無礼講と聞かされた新稚狗は、遠慮もせず肉料理を平らげてしまい、お代わりを出せと叫んでいた。負けじと張り切る天狙は口から食べかすをこぼし、陽虎に注意されるなど、大騒ぎが始まった。

 一方、原過と楚隆は延陵生を交えて静かに盃を交わし、それぞれの功績を称え合った。喧騒の中で酒を飲むのは、誇りある士大夫のすべきことでは無いという美徳ゆえだ。新稚狗と天狙、陽虎と共に酒を楽しんでいた孟談は、顔を赤らめながら盃を重ねた。

 彼の顔が赤いのは、酔いのためだけでは無かった。先程出会った高蓮英のことをどうしても忘れられずにいたからだ。彼女の人懐こさと、厭味さを感じさせない聡明さが、仄かな香りと共に孟談の心身を放さないのだ。

「蓮英お嬢様か……また逢いたいな」 

 孟談が呟くと、

「張様、私を呼んで下さるなんて本当に義理堅い方ね。さ、もう一杯どうぞ」

 聞き覚えのある声がする。ハッと気づいた孟談が隣を見ると、蓮英が酒壺を手にして座っているではないか。

「お嬢様、私のような者にお手ずから酒を注がれるなど、畏れ多いことでございます。何卒お許し下されませ」

「御安心下さい。祖父が凱旋された方達にご挨拶するようにと、私をこの宴に参加させたのです。大殿様と若様のお許しも得ていますので……」

 そこまで言われると、孟談とて断り切れなかった。否、断らずに済むと内心では大喜びであった。蓮英から注がれた酒を一口飲んだ孟談は、近くの女官に新しい酒壺と杯を持って来させ、

「お嬢様、私めからの返杯をお受け取り下さいませ。それにしても……私の名を覚えていて下さり、誠に光栄です」

 少し緊張気味に返杯する張孟談と、それを有り難く受け取る高蓮英。そうした二人の姿は、平民上がりのにわか文官と家宰の孫娘ではなく、一組の男女を描いた一幅の名画のようにも見えてしまう光景だった。

「うむ。あの二人、良いかも知れんな」

 その様子を、高みから酔眼をしばたたかせて見ている者がいた。他でもない、上座で勝利の美酒を呷っていた趙無恤その人であった。


   4


 勝利の宴から数日後、鋭気を養った趙軍の面々はそれぞれの任務へと復帰していった。楚隆と陽虎は軍務、原過は祭祀、延陵生は高共の指揮下で外交の政務に励んだ。

 新稚狗は鄭攻めで騎兵が活躍したのに気を良くし、牧場で馬を増やすのに専念しつつも突撃訓練を行い、天狙も薬草園の番人に戻った。

 孟談もまた、他の文官達に交じって事務作業、或いは晋陽と邯鄲にある酒場の運営と、そこを拠点にした情報収集の任務を遂行した。だが、その胸中には疼くようなわだかまりを抱いていた。

 それは、高蓮英のことだった。凱旋中に自信喪失した自分を優しく慰めると同時に激励してくれた蓮英。その後の宴席では、はからずも差しつ差されつで酒を酌み交わす仲になってしまった蓮英。孟談は、彼女のことが忘れられずにいた。

(お嬢様に逢いたいな。でも、私のような下級文官が逢えるわけもない……)

 悶々としながらも木簡に筆を走らせる孟談は、幾度もため息をついた。そんな彼の眼には、梁の上から己の姿を見ている天狙の姿など映ってもいなかった。

 それから三日後、趙無恤が新稚狗と天狙、趙嘉を従えて孟談の仕事場に姿を現した。御曹司の登場に一同がひれ伏すと、

「通りがかりゆえ、固くならんで良い。孟談、仕事が済んだら私の部屋に参れ。夕方、お前に逢いたいと言う御方が来られるのだ」

 無恤は淡々とした態度で孟談に告げると、随員を従えて帰っていった。主君の後ろ姿を見送った孟談は、再び筆を握ると机に向かいながら考え込んだ。

一体、自分に来客とは誰なのだろうか。家族ならば宮殿ではなく自分の酒屋に来るだろうし、豫譲であれば自分を気に入っている智瑶の名代を兼ねて来るだろう。様々な雑念が頭に浮かぶのを振り切りながら、孟談は筆を手にしたのだった。


 仕事を片付けた孟談は宮殿に駆け込み、無恤の部屋へと足を進めた。既に命令が下ったものと見えて、衛兵や廷臣達は快く孟談を通してくれた。部屋の前に辿り着くと、新稚狗がいた。

「旦那、お待ちしてましたぜ。お客人も、今しがた到着なさいましたよ」

 殳を手にして護衛をする新稚狗に先導されて孟談が部屋に入ると、無恤ばかりか趙鞅、空氏、そして高共・郭氏夫妻と言った趙氏の中でも高貴な面々が顔を揃えていた。そして、無恤と高共夫妻の傍には一人の若い女性――他でもない、高英蓮が座っているではないか。

「御曹司、これは如何なことでございましょうか?」

 余りのことにたじろぐ孟談と、頬を染めている蓮英の様子を見て、無恤を始めとした一同の明るい笑い声が部屋中に響き渡った。

「ははは、お前も隅に置けぬ奴じゃな。先日の宴の時から、私はお前達二人がお似合いじゃと思うてのう。な、そうであろう?」

確かに、凱旋の時に話したことは二人の秘密のようなものだ。だが、宴席で酒を酌み交わしたのは、決して嘘ではない。だが、ここまで人々に知れ渡っているとは孟談は思いもしなかったのだ。

「は、はい。左様でございます。御曹司、申し訳ございませぬ」

「莫迦者、このような事で詫びるのはお前くらいじゃ。高じいも、蓮英の見合いを望んでいてな。お前の気持ちはどうなのだ?」

 鋭い中にも慈悲を湛えた眼差しを注ぐ無恤の態度に、硬くなっていた孟談の口と精神も、自然と柔らかくなった。

「はっ。私もお嬢様のことを、密かにお慕い申しておりました。お見合いを許可して下さるならば、御曹司に全てを託し奉ります」

 思いの丈を吐露して平伏した孟談を見て無恤は満足げに笑い、今度は蓮英の方を向いて、

「さて、婿殿の方は宜しいようだ。嫁御の方は如何かな?」

 蓮英に問いかける無恤は気が早いもので、既に二人を夫婦扱いしていた。若君直々の言葉に、彼女もまたひれ伏して厚恩を謝した。

「若様の御高恩を賜りましたこと、誠にかたじけのうございます。孟談殿との婚儀、謹んでお受け致します」

 この一言で“見合い”は成立した。双方が承諾したのを見届けた無恤は、一同に宣言した。

「本日、めでたくも一組の夫婦が生まれた。後日、改めて婚礼を取り行おうではないか!」

 その瞬間から、孟談と蓮英は夫妻として歩むことになった。凱旋の日に運命付けられた愛が、今ここに実ったのだった。

「実に嬉しいことじゃな。若者達の幸せな姿を見ておると、この老いぼれも元気を貰えるようじゃ。のう、高じい」

 趙鞅が杖をつきながら新しい夫婦を祝福すると、高共は跪いて感謝した。

「大殿様、何と勿体無きお言葉! 孫娘の相手が見つかったばかりか、皆様に御厚情を賜り、拙者は何と申せば良いか分かりませぬ。孟談、いえ婿殿。蓮英をお頼み申し上げまする」

 普段こそ恰幅の良い体格と家宰の地位に似つかわしく、厳めしい振る舞いで周囲を威圧する高共が、幾度も頭を下げ始めた。そして、鋭い眼光で睨みを利かせる目からは、止めどもなく涙があふれていた。

「高家宰、勿体ないことです。私こそ、お嬢様の夫になれたばかりでなく、あなた様の孫になれること、この上ない名誉でございます」

孫娘のためならば威厳も自尊心もかなぐり捨てる高共を目の当たりにした孟談は、そうした温かみを抱いた家宰の孫になれる喜びを、密かに噛み締めたのだった。


   5


 この“お見合い騒動”から一ヶ月後、張孟談と高蓮英の婚礼が執り行われた。日取りは、原過が務めている神殿の老神官が占いで決め、その会場は孟談が経営する酒場がある、晋陽の繁華街になった。

 広場にしつらえられた貴賓席には趙鞅を始めとした趙氏、その下手には家臣団や招待された市民の座る席があり、客人達が談笑していた。そこに、新稚狗のどら声が響き渡った。

「野郎共、ちゃんと並んで旦那とお嬢さんを出迎えるんだ! 俺ら騎馬民族もお祝いして、良いとこ見せにゃならねえ」

 新稚狗は、配下に殳を持たせて整列させ、新郎新婦を出迎える準備万端だった。自分とお揃いの武器を与えたのは、儀仗兵でも気取っているのだろう。

「新稚狗親分、そうそう気張る必要はないぞ。もう、お二方は顔を合わせている上、お屋敷で婚礼も済ませたのじゃから」

 そう言って新稚狗を宥めたのは、晴れ着姿の陽虎だった。華夏では貴族が婚礼をする際、新婦は顔を薄絹で覆ってから新郎の前に現れる慣わしがあり、それが士大夫の作法でもあった。

 しかし、孟談と蓮英は既に祝賀会で逢っている上、新郎は庶民出身で新婦も商家の血を引いていることから、細かい作法は気にしなかった。そのため、貴族的な婚礼ではなく、簡素な儀式の後に宴を行うと言う方式にしたのだ。

「新稚狗、陽虎殿。旦那とお嬢さんがそろそろ来るだよ。皆で迎えるべ」

 はしゃぐ天狙が指差す方向を見ると、花で飾られた馬車に揺られながら孟談と英蓮がやって来た。孟談と蓮英が乗った馬車は趙無恤と楚隆が戦車で先導し、後からは高共と郭氏の馬車と、新郎新婦の親達を乗せた牛車が随行した。

「み……皆様方、お待たせ致しました。わたくし……ども、夫婦をお祝い下さり、恐縮の至りです」

 錦の晴れ着に身を包んだ花婿姿の孟談は、馬車から転げるように降りると、貴賓席の前で妻と共に跪いて、趙氏一族に拝礼した。


 この婚礼は、建前こそ一文官による嫁取りであるが、新婦が家宰の孫娘であったために領主の一族や家臣達も動員した、物々しいものとなっていた。孟談もそれが分かっており、同僚達ばかりか御曹司にまで馬車の先導を賜ると言う畏れ多い事態に緊張し、声は上ずる一方だった。

英蓮も、緊張してしまった夫を気遣ってはいるが、自分が口を出せば彼ばかりか祖父の面子までも潰してしまうと思い、何も言えずにいた。そこに、

「ようよう、ご両人! 祝い酒がまだですぜ。照れてねえで、宴としゃれ込みましょうや!」

 ぎこちない新郎新婦を見かねた新稚狗が、手を叩きながら大声で囃し立てたのだ。その声で緊張の糸が切れてしまった周りの者達は思わず笑い出し、笑い声は会場中に響き渡った。

 そうした談笑交じりの中で行う拝礼は、威儀を重んじる士大夫の婚礼に似つかわしくはない、無作法極まりない行為だ。しかし、素朴な孟談と勝気な英蓮と言う夫婦の門出を祝うには、この上もなく似合いの婚礼でもあった。

 新稚狗の機転で緊張をほぐされた孟談と蓮英が滞りなく拝礼を済ませると、孟談が経営を任せられた酒場の厨房から酒肴が会場に運び込まれ、賑やかな酒宴が始まった。

 そこに、取り次ぎを受け持っている女官が駆け込んできた。

「失礼致します。張様にお祝いを申し上げたいと、智卿閣下のご使者がお出ましになられました」

 智瑶の使者と聞いて苦笑したのは、貴賓席で妻や父と共に祝い酒を酌み交わしていた無恤だった。相も変わらず孟談に惚れ込んでいるであろう智瑤と、その余念の無さには、呆れを通り越して憫笑すら感じてしまうほどだ。

 さて、当の孟談が智氏の使者を請じ入れると、宴会場に入って来たのは数名の御供を従えて士大夫の衣装を着こなした豫譲だった。その凛々しさは、亡くなった豫太公が生き返ったかのようだ。


「張君……いえ、張大夫。本日はめでたき御婚礼を迎えられ、祝着至極に存じます。趙氏の皆様方、これは当家よりの引き出物でございます」

 そう言うと、豫譲とは趙氏の貴賓席に向かって平伏し、その後に新郎新婦の前に進み出て、豪奢な細工が施された長持ちを差し出した。豫譲が開けて見せたその箱には、玉石や真珠、銀粒、砂金がぎっしりと詰まっていた。

「阿譲、幼馴染なんだから畏まらずとも良いんだよ。智卿閣下には、いつか参上して御礼を申し上げなくてはね」

 孟談は立ちあがると、新郎新婦の近くに豫譲一行のために席を設えさせて料理と酒を運ばせた。厚恩を謝して豫譲と配下が頭を下げると、彼の傍に付き従っている女性がひときわ目を引いた。

 彼女は、白い肌と引き締まった体躯、黒髪を花のような形に高く結い上げた、英蓮と同年代の婦人だ。一見すると柔和でにこやかだが、そこはかとなく鋭い雰囲気を醸し出していた。

 孟談は、初対面でしかないはずなのに、この美女をどこかで見たような気がした。そう、鄭への遠征に出立する前夜、初めて智瑤と謁見した時に感じた、淡々とした威厳にも似ていた。


   6


 智瑤が放っていた気迫にも似た、他を圧倒する威厳を持った女性を前にした孟談が口を開こうとすると豫譲が照れ臭そうに、

「張君、こちらは(じゅん)(れい)姫と言って智卿閣下の御養女なんだよ。実は、閣下の肝煎りで姫の夫として迎えられ、近々婚礼をする予定でいるんだ」

 豫譲が言うことには、この荀玲は智過の娘だったが、子に恵まれない智瑤に養女として出され、彼の長女として育てられたのだと言う。豫譲は、智氏に仕官した直後に彼女との縁談を勧められ、宴席として迎えられていたのだった。

「そうか、君の奥方様は智卿閣下の姫君だったんだね。しかし、教えてくれないとは水臭いぞ!」

 孟談は、智瑶に似た雰囲気を持った女性の正体が分かった安心感もさる事ながら、豫譲が智氏の縁戚になっていたことへの驚嘆と喜びが大きかった。あの気難しい智瑶に認められ、愛されているのが豫譲と言うのも嬉しかったのだ。

「張大夫、父から御噂は聞いております。以後、お見知り置き下さいませ」

 荀玲は、他を圧倒する風格では智瑶と似ていたが、口調と物腰は穏やかであり、温和な姫君だった。その姿は、智氏のやり口を嫌っているはずの趙氏家臣団に笑顔をもたらした。それは高共も例外ではなく、

「豫太公殿の御子息も、智卿閣下と縁戚とは良き御縁ですな。我が孫夫婦と、永らく親しいお付き合いを願いたいものじゃ」

 董安于と周舎の一件で智瑶を激しく憎んでいる高共だが、同じ晋国の臣下同士なれば共栄するのが理想だと言う考えもあった。豫譲と荀玲への祝福は、決して皮肉でも社交辞令でもなく、この一徹な忠臣の本音でもあったのだ。


「高家宰のお言葉、私共には過ぎた幸せでございます。私は張大夫と兄弟同然ですので、家宰様もどうか孫同様にご鞭撻下されませ」

 孫娘の婿である孟談と親しい豫譲の挨拶を受けた高共は、満足げに頷くと手ずから豫譲と荀玲に酌をした。その顔には、智瑶への敵意に満ちた普段の厳格な表情はなく、柔和な笑みで満たされていた。

 豫譲夫妻が高共に返杯し、孟談と蓮英、郭氏を交えて談笑に耽っていると、貴賓席から趙無恤が降りてきた。

「主らの慶事、この無恤も祝わせて貰おうぞ。婚礼が行われる日取りが決まったら、我らにもお教え頂きたい。本日の新郎新婦に、我が名代も兼ねて返礼の使者を務めさせるでな」

 その言葉を聞いた婚礼の会場は、前にも増して喜びと歓声に満ち溢れた。智氏の婚礼には趙氏から祝いの使者が、それも孟談・蓮英夫妻が来ると教えられた豫譲、荀玲は無恤の前に平伏して恩を謝した。

「豫殿の父上には、私も若い頃に助けて貰うておるから当然のことじゃ。姫も、智卿閣下にはよしなに伝えて下されよ」

「はい。我が父も、きっと喜ぶことでございましょう。趙氏の皆様方から賜りました御高恩、お礼の言葉もございません」

 無恤の言葉に恭しく答礼する荀玲は、智瑶の姫との触れ込みだが、実父は智過であるため、彼女も父譲りの生真面目さと優しさを引き継いでいた。いや、凛としているように見えて内面が穏やかな点で言えば、人柄を武器にして鄭攻略戦で活躍した叔父の智宵と、荀玲はむしろ似ていた。

 そんな彼女と結ばれたのが、他でもない豫太公と畢陽の血を引く豫譲なのだから、その奇しき縁に注がれる趙氏の眼差しは、この時ばかりは温かかった。

 

 斯くして、張孟談と高蓮英の婚礼は智氏から派遣された若夫婦の祝福を受け、大盛況のうちに終わったのだった。本来ならば趙氏と言う内輪だけで終わる予定だったのが、智氏の荀玲姫を妻にした豫譲の来訪によって華やかさが増した婚礼は、参列者の心に感激を残した。

「お嬢様、そろそろ私達も休みましょうか。阿譲だけでなく、御曹司や新稚狗親分も気を使って下さって、有り難いことでしたね」

「嫌だわ、あなたったら。もう夫婦じゃありませんか? 私のこと、蓮英と呼んで貰わないと困るわね」

婚礼の緊張感と高揚感の冷めやらぬ孟談が他人行儀で話してしまったのを、蓮英が苦笑交じりに窘めた。

「そうだね。では蓮英、表で待っている馬車に乗ろう」

 孟談が照れ臭そうに笑う。蓮英も満足そうに頷いて、私邸から迎えに来た馬車へと乗って家路についたのだった。この日の夜空に照り輝く月は、男女の出会いと睦びを祝うかのように満ち足りた満月であった。




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