36話 マッチョ、姿を消す
黒川誠が――消えた。
会社に来ない。
ジムにもいない。
夜道にも、いない。
三日目。
ことみは、街灯の下で腕を組んでいた。
「……遅い」
誰もいない。
静かな夜。
脱衣音、ゼロ。
筋肉音、ゼロ。
実況対象、ゼロ。
「静かすぎて逆に怖い!!」
いつもなら
バサッ。
とか、
「フロントダブル!!」
とか、
「仕上がってるぅぁぁぁ!!」
とか、
うるさいはずなのに。
無音。
ただの住宅街。
ただの夜道。
「……なにこれ」
ことみは、街灯を見上げた。
光だけが、地面を照らしている。
(さみしい、みたいじゃん)
(さみしいとか、そういうんじゃないけど)
(でも、なんか……)
風が吹いた。
冷たい。
いつもより、冷たく感じた。
---
翌日。
会社。
朝から、ヒソヒソ声が聞こえる。
「黒川さん、まだ休み?」
「有給らしいよ」
「え、連続?」
「体調不良とか?」
「筋肉痛じゃない?」
「それは常時では?」
ヒソヒソ。
ことみは、デスクで資料を見ているフリをした。
でも、頭に入ってこない。
(黒川さん、どこ行ったんだろう)
(炎上が、まずかったのかな)
(家族が、何か言われたのかな)
ことみは、立ち上がった。
「課長!!」
桐谷課長の席へ、駆け寄った。
「黒川さん、どこですか!!」
「知らん」
「え?」
「連絡は来ていない」
「えぇ!?」
桐谷課長は、腕を組んだ。
スーツの袖が、パンパンだ。
「だが」
「だが?」
「逃げる男ではない」
「それはわかりますけど!!」
「筋肉は嘘をつかない」
「また筋肉理論!!」
「あの男の筋肉は、本物だ」
「それは分かってる!! でも!!」
その時
「ちょっと」
背後から、声。
振り向くと
早苗。
腕組み。
不機嫌顔。
「うるさい」
「早苗さん……」
「仕事中」
「ごめん」
早苗は、小声で言った。
「……心配なんでしょ」
「べ、別に!!」
「顔に出てる」
「僧帽筋くらい?」
「なにその例え」
ことみは、顔を赤くした。
早苗は、小さくため息をついた。
「連絡したの?」
「してない」
「は?」
「なんか……重いかなって」
「重いわよもう」
「え?」
「毎日夜道で筋肉実況してたくせに今さら距離とか」
「実況は不可抗力!!」
早苗は、スマホを取り出した。
「番号」
「え?」
「持ってるでしょ」
「……ない」
「は?」
「持ってない……」
ことみは、顔を伏せた。
早苗が、呆れた顔をした。
「あんた、毎日会ってたのに番号知らないの?」
「だって、夜道で会うだけだったし……」
「LINEは?」
「交換してない……」
「どういう関係?」
「筋トモ……」
「それ連絡先交換してないとか意味わかんない」
早苗が、ことみの肩を叩いた。
「桐谷さんに聞きなさい」
「え、でも……」
「今すぐ」
「……はい」
ことみは、桐谷課長を見た。
「あの……課長」
「なんだ」
「黒川さんの、電話番号……教えてもらえますか?」
桐谷課長が、少しだけ笑った。
「やっと聞いたか」
「え?」
「待っていた」
桐谷課長が、スマホを操作した。
ピロン。
ことみのスマホに、番号が送られてきた。
「ありがとうございます……」
「かけろ」
「今!?」
「今」
「緊張する……」
「告白じゃないんだから」
「いや、ちょっと近い!!」
「は?」
早苗と桐谷課長が、同時に言った。
ことみは、深呼吸した。
スマホを握りしめた。
番号を、タップした。
プルルル。
コール音。
長い。
長い。
心臓が、速い。
「出ない……」
「もう一回」
早苗が、冷たく言った。
「鬼!!」
もう一度、かけた。
プルルル。
長い。
また長い。
そして
ガチャ。
『……はい』
「!!」
ことみは、息を呑んだ。
「黒川さん!?」
『杉野さん?』
普通の声。
いつもの、穏やかな声。
生きてる。
ちゃんと、生きてる。
「どこにいるんですか!!」
『自宅です』
「なにしてるんですか!!」
『減量明けのリバウンドと戦っています』
「なにそれ!!」
『心も体も、少し休めています』
ことみは、固まった。
(休めてる……?)
(それって、大丈夫ってこと……?)
「……大丈夫ですか」
『はい』
「嘘だ」
『少しだけ』
「やっぱり!!」
電話越しに、小さな笑い声が聞こえた。
『炎上の余波で、家族が少し騒がれまして』
ことみの胸が、ぎゅっとなった。
『大きな問題ではありません』
「でも……」
『娘が言いました』
「……なんて?」
『パパ、最近脱いでないねって』
「そこ!?」
『寂しそうでした』
「価値観どうなってるのその家族!!」
早苗が、横で呆れている。
でも、ことみは分かる。
黒川は、たぶん
家族を守るために、静かにしている。
夜道で脱がないことで、
騒ぎを大きくしないようにしている。
「……夜道」
『はい』
「誰もいないと、変です」
『静かですか』
「うるさいほうがマシです」
沈黙。
電話越しの、沈黙。
でも、繋がっている。
『杉野さん』
「はい」
『少しだけ、整理しています』
「なにを?」
『筋肉と、向き合い方を』
「哲学にするな!!」
『戻ります』
「いつ?」
『もう少ししたら』
「約束ですよ」
『はい』
「絶対ですよ」
『はい』
「……待ってます」
『ありがとうございます』
ツー、ツー、ツー。
通話が、切れた。
ことみは、スマホを握りしめた。
早苗が、聞いた。
「どうだった?」
「生きてた」
「当たり前でしょ」
「筋肉と向き合ってるらしい」
「なにそれ怖い」
ことみは、小さく笑った。
「戻るって」
「……そ」
早苗は、そっぽを向いた。
「別にあんたが落ち込んでると仕事回らないから」
「ツンデレ出た!!」
「うるさい」
桐谷課長が、頷いた。
「あの男は、戻ってくる」
「……はい」
「筋肉は嘘をつかない」
「……はい」
「だから、信じろ」
「……はい」
ことみは、頷いた。
胸が、少しだけ軽くなった。
---
その夜。
街灯の下。
ことみは、一人で立っていた。
誰もいない。
静かな夜道。
今日は、少しだけ違う。
「……戻ってこい、変態」
風が、吹いた。
冷たい風。
でも、前ほど冷たくない。
(黒川さん、ちゃんと生きてた)
(ちゃんと、声が聞こえた)
(そして、戻るって言った)
ことみは、空を見上げた。
星が、きれいに見えた。
(逃げても戻る人だから)
(きっと)
(筋肉は、消えない)
その時
ことみのスマホが鳴った。
メッセージ。
黒川からだった。
《ありがとうございます。杉野さんの実況、録音して聞いています。元気が出ます》
「録音してたの!?」
思わず、叫んだ。
笑った。
涙が出るくらい、笑った。
(この人、やっぱり変態だ)
(でも、変態でいい)
ことみは、返信した。
《早く戻ってきてください。実況、待ってます》
送信。
すぐに、既読がついた。
返信が来た。
《はい。必ず》
ことみは、スマホを握りしめた。
胸が、温かくなった。
夜道は、静かだった。
でも、もう不安じゃなかった。
黒川は、戻ってくる。
筋肉は、消えない。
ことみは、そう信じていた。
その信じる気持ちは、
たぶん、間違っていなかった。
次回予告:
「桐谷の決断――桐谷課長が、動く。黒川を連れ戻すために。そして、ことみも――ついに、自分の気持ちに気づく……!」
37話「桐谷の決断」に続く
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