二つ、私は春風に追われるⅡ
私は一気にレモンティーを飲み干し、鞄を持った。
「すみません、ちょっと用事思い出したんで、帰ります!」
急な私の行動に驚いたのか、先生も立ち上がる。
「気をつけて帰れよ。もう生徒は残ってないからな」
「はい、有難うございました!」
そう言って、保健室の扉から外に。走って下駄箱に行く。生徒どころか教師の気配もなく、校舎内は静かだった。私の走る音だけが響く。
大抵、放課後と夜の校舎には何かがいる。
悪霊というわけではないが、『何かがあるだろう』という皆の思念が変な形に集まっている時があるのだ。危険はないが、ただただ不気味である。
靴に履き替え、さらに走る。目指すは裏の山桜。
校舎を半周すると、山に続く畦道のようなものがある。日が落ちつつある山道は少し不気味でもあるが、その先に少しだけ見える桜の群生地は不思議とそうでもなく私の瞳には写った。
歩いて十分くらいだろうか。道はそれほど歩きにくくもないが、徐々に上り坂で確実に体力を奪っている。やがて左折と直進にわかれる。左方向に桜の木らしきものを見つけたので、左に逸れる。直進するときっと、昔の校舎があるのだろう。
「わぁ……」
その場所は、まだ蕾の状態の桜といえど、十分に美しい場所だった。
下には校舎が一望でき、そこそこの高さもあるためなかなかに絶景だ。夕日が半分沈んで、黄金色の空がよく見える。
切れた息を整え、桜の木々の下を歩く。
不思議なことにこの桜の木々がある場所は平地で、まるでここだけ特別だと言わんばかり。ここにある木々は全て桜で、地に根付いている畑を困らせる雑草も、まるで歩く衝撃を和らげるために程よく生えている。急な坂もあるのに手摺やフェンスのようなものはなく、一歩間違えば今歩いてきた道を転げ落ちることもできる。
見上げる桜の木は、どれもあと数日で花が咲きそうである。木々はどれも立派にずしりと幹を構えていて、ほのかに甘い匂いが漂っていた。
「遅かったな」
どこからか響く声。
辺りを見渡せば、幹から三つに分かれた太い枝の一本に、背を任せるように彼は立っていた。
「えっと、神様……?」
どう呼べばいいのか戸惑い、結果そう呼んだ。彼は桜の木から降り、私と向かい合う。
思ったとおり、小さい。が、私よりはるかに長い時間を生きたのだという風格があるのは確かだった。
「お前、俺のことが見えるだろう」
「ええ、まあ……。生まれつき霊感が強くて」
私がそう言うと、神様はキセルを取り出した。上質な品のようだ。
彼はその先に桜の花びらを、ひらり、とかざすと、それが種火になり燃え始め、キセルの先に落ちた。煙草のように煙が上がるが、嫌な臭いはしなかった。
彼の口から紫煙が上がることもなく、実に不思議なものである。
「普通は」
彼は切り出す。
「霊感が高いからといって、神までは見えんものだ。芹川七々海」
そうなのだろうか。いや、確かに霊が見えるというのと神が見えるというのは別物かもしれない。
迂闊に何かをしゃべることのできない威厳のようなものを、私は感じていた。
「しゃがめ」
「え?」
「屈め。お前は背が高すぎる」
あなたの背が低いのだ、とは言えなかった。私は素直に膝を折る。
「ふむ」
彼は私の瞳を覗き込んだ。
顔が近い。目の前にいい匂いがする。先程のような悪寒はない。彼の瞳の中に何かが蠢いていると思っていた。その何かの正体が今分かる。彼の黒い瞳の中に、鮮やかな花弁が舞っているのだ。
ひらり、ひらり。
吸い込まれそうなその奥に、別の世界があるようだった。
「特に特別な瞳をしている理由ではないな。じゃあやはり資質だけで俺を捉えているということか」
頬に添えられた手をぺたぺたと、物珍しいものを見た子どものように手を這わせる。
「……あの、恥ずかしいんですけど」
幽霊に抵抗はあっても、男子に免疫はないのだ。男子?男子なのだろうか。神に性別ってあるの?
「というか、本当に神様なんですか?」
私が尋ねると、彼は手を離す。
「まあな。別に幽霊でも精霊でも何でもいいが」
彼は自分の立場にあまり興味がないようだった。まあ、そういうものかもしれない。だって、人と違って誰かに認識されるということがあまりないようだから。
「さて、芹川七々海。お前を呼んだのはまあ、その性質の特異性が故だ」
「はあ」
私は呆けた顔でそれに応える。
「芹川七々海。お前のその『見る』力は一つの才能だ。お前はこの世に重なる全ての世界の一部を目視することができる。まあ、わかりやすく言えば幽霊や神の世界を覗くことが出来るというわけだ」
「覗く?完全に見えるわけではない?」
私の質問に、神は頷く。
「凄くわかりやすく説明してやろう」
未だに事情を飲み込めていない私に、彼は至極わかりやすく説明する態度を見せる。
この世界には肉体のある人間世界とは別な世界が、多重に存在しているのだそうだ。
「お前が一般的に見える幽霊は、人間界に一番近い幽界の存在だ。俺のいる神界、近いところで天界、それに精霊界。魔界や異界なんてのもある。普通の人間が見えるのは精々幽界までだが、神界に存在する俺が見えるということは、恐らくお前はこの全ての世界を覗き見ることが出来るわけだ」
世界が違う、という言い方に少し戸惑ったが、要するにこの『人間界』というものを核にして、平行世界が六つ存在している。ということ、らしい。
霊感が強くても、普通人間界の生物が覗けるのは『幽界』『精霊界』まで。『魔界』『異界』『天界』『神界』に関しては、よほどやばい手段を使わなければ干渉することさえできないのだという。
「うん、良くわかんない」
私の頭は混乱していた。
「つまりだ、俺とお前は、正式に言えば別次元の存在なわけだ。だからこうして、腕もすり抜けるだろ?」
「え?でもさっき触ってた」
「それはこの場所が俺の神域だからだ」
平行世界というものは、基本的にどれも相互不干渉である。しかし、彼のこの土地は人間界にも存在する特殊な地であり、限られた範囲でのみ異世界への干渉を許されているのだとか。
「まあつまり、偉いってことだ」
なるほど。なんとなくわかったような気がする。
「で、ここでお前が問題になるわけだ、芹川七々海」
「あの、名前でいいですよ」
そうか、と彼がキセルで一服をする。
「お前が精霊界や天界、神界を覗く分にはいい。特に害はないはずだ。だが、幽界の奴らには困ってるだろ?」
私は頷く。幽霊には、いままでずっと困らせられてきた。
「幽霊位ならまだいいが、魔界や異界の存在を見たらお前、やばいぞ」
幽界より上位の世界。ネーミングだけでもヤバそうだ。
「でも、見えるだけなんですよね?」
「そうだが、さっきお前も俺の神気に当てられて気絶しただろうが」
あの気絶は、どうやら他の世界の存在が持つ気配のようなものの所為らしい。
「見える、という事は、認識するということだ。人間では決して理解できない存在を、無理に脳で感じようとするからそうなる。今、お前は俺を『神』だと認識している、いや、そう捉えることで平静を保っている訳だ」
確かに、今はあの妙な気分を感じないことは確かだった。不可解な現象も『神だから』の一言で片付けられてしまう。それは決しておかしなことではなく、自身を守るための思考。




