一つ、私は神と出会うⅣ
「はい、みんな居るわねー?」
先ほどの教師だった。若い女教師だ。彼女は、教壇まで歩み寄り、『笹原希美』と黒板に書いた。
みんな、その溌剌とした美貌に魅せられている。男子は特に。しかし、私は凍りついたように別のところを見ていた。
彼女のすぐ後ろ。一緒に教室に入ってきた彼は。
澄んだ海の色のような透明感のある着物をゆるりと着て。身長はきっと百五十歩かないかの小柄な体格。それでいて渋み、というか大人っぽさを感じさせる顔立ち。髪の毛は黒く、威勢のいい短髪に、少し寝癖がついて跳ね返っている。足元は草履のようなものを履いていた。
そして何より、私以外の人には見えていない、彼。
「えー、この後は必要書類を配って、簡単に自己紹介なんかをしたら解散になります。結構な量あるから、覚悟しててね」
耳から入る教師の声と、目の動きが一致せず、脳内は再び混乱状態に。
彼は教室をぐるりと見渡したあと、明らかに私に目を向けた。視線を急いで教師に向ける。幾つかのプリントが回ってきたが、目を通す気にはなれなかった。
ちらり、彼の位置を確認すると、彼は退屈そうに窓のへりに背中を預けていた。身長が足りないのか、不良のように腰掛けることはできない。
幽霊ではないのかもしれない。
そう思うのは、彼の表情が豊かであるし、行動に一貫性があるように見えるからだ。校長の話もある。
其の辺に漂っている幽霊は、どう動くかわからなければ、何が彼らの逆鱗に触れるのかもわからない。結果的に、やはりか関わらないのが一番の対策であるのだ。
その点、彼は明らかに退屈そうであるし、何かを待っているようにも思える。
笹原先生が何かを喋っている間に、生徒の誰かが手を挙げた。
「先生は、その神様っていうの見たことあるんですか?」
他の学校なら笑いが起こりそうな質問も、ここでは起こらない。もしかしたら、私以外にも何かを感じている人が、実のところいる、のかもしれない。
「うーん、私は実はここの生徒じゃないし、ここに来てまだ三年目だから。その『神様』っていうのに会ったことはないの」
其処にいますよ、先生。そこで欠伸してます。
「校長先生もそうだけど、教師より生徒の方が見たとか、声をかけられた、って人は多いらしいわ。一番有名な人だと、女優の神代結稀さんかしらね」
おお、とか、ええっ、とか、そんな驚きの声。
神代結稀とは、まあまあ有名な女優である。もう若くはないが、それはそれで演技の幅も広く、映画なども多々出演している。
「じゃあ、本当にいるんだ」
教室がざわつく。
「そうねえ。先生はいると思ってる。というか、この学校でいない、って頑なに思ってるのは数学の小林先生くらいよ」
自分のことを話しているというのに、彼は興味のなさそうな表情。
もしかしたら、皆が言っているのは彼ではなく、別にいるのではないか、とも思ったが、それはそれで困ったことになることに気付いた。
「でも、別に神様が特殊な力で宿題をやってくれるだとか、テストのヤマを当ててくれるだとか、そういうことはしてくれないみたいだから、学生の本分はしっかりとやること!神頼みして聞いてくれるような神様じゃないらしいからね」
先生が言うと、皆は笑いながらはい、と返事をした。その時、本当に小さくだが。彼が笑ったような気がした。
「そんな悪い奴じゃないのかも……」
「七々海ちゃん、何か言った?」
ゆゆが小さく私を振り返り、次のプリントを渡してくる。
「ううん、独り言」
「そっか……。具合悪いなら早めに言ったほうがいいよ?」
先ほどの騒ぎのことで、ゆゆは少し心配してくれているようだった。
「うん、大丈夫」
私もプリントを後ろへ回す。紙には週の授業割が乗せられていた。
一限一時間半、授業間休憩十五分、昼食休憩一時間。月、水、金は四限、火、木は五限まで。土曜は午前で終了。
授業科目は国語、古典、漢文、数学二種、英語、科学、物理、現社。体育は週に二回。
「美術とか音楽とかそういった科目はありません。ですが、部活としては美術部も吹奏楽部もあります。まあ、そういったことは強制させてやるより、自主的にやったほうが伸びるっていうことね」
授業のコマは多くないが、その代わり時間が長い。予習よりも復習の方が大事になるのかもしれない。予習も復習もやれ、と言われるのは、実のところかなり大変だ。片方をしっかりやるというスタンスの授業は嬉しい。
その後、学校生活においての諸事情を先生が話す間、彼は懐から何かを取り出していた。
煙草?いや、キセル、というのだろうか。長くて先に何かを載せるような窪みがある。煙のようなものは浮かんでいないが、たまにそれを口に寄せる仕草をしていた。
「えー、じゃあ次に自己紹介ね!二年にあがった時にまたクラス替えがあるけど、一年間一緒に過ごす仲間だしね」
そうして恒例とも言える、自己紹介が始まる。
五十音順に、面白可笑しく、または普通に。
「椎那ゆゆです。え、っと、よろしくお願いします!」
ゆゆが無難に自己紹介を終える。あまり人付き合いがうまい方ではなさそうだ。私と同じだな、と私も立ち上がる。
「芹川――」
そう、席と立ったとき、私の背筋が怖気だった。
いつの間にか、彼が隣に立っていた。やはり幼い。私の身長より背は低く、見下げなければ視界に入ることもない。しかし、それを無視しろというのはなかなかに難しい話で。
「な、なみ。芹沢、七々海、です……」
心臓が跳ね上がる。私はどうなるのか。そんな不安さえよぎらない、心臓が緊張で止まってしまいそうだった。手を強く握ると、汗が滲んでいた。
音が消えたようだった。まるでこの世界に、私と彼しか存在し得ないような。
ふっ、と彼が息を吐いて、私を見上げた。
そして私はそれを見た。見てしまった。
幽霊のようではない、と思った。その顔は凛々しく、肌には生気のようなものがあった。透けているようですけておらず、脳が得体の知れない情報にパンクしてしまいそうだった。
思ったより、美形だな。
私が思ったのは、そんなことだった。
目があった。彼の瞳の中には、何かが蠢いていて。それを知りたくて、もっと目が離せなくなる。
「芹川七々海」
声がした。高い男の。私を呼ぶ声。はい、と返事をしたいのに、喉が遣えて何も言葉にできなかった。
取り憑かれるというのは、こんな感覚なのかもしれない。
「用事が済んだら裏山まで来い。桜がある場所だ」
来なければ、と彼は続ける。綺麗な瞳で。
「お前を祟るぞ」
そう自分で言って、ふふ、と満足げに彼は笑った。
はい、ということも、頷くこともできなかった。
私の視界が暗くなっていく。
「芹川さん!?」
先生の声が聞こえる。ここは現実なのか?
瞼が自分の意思に関係なく降りていく。微かな視界の端に、彼は映っていなかった。
そうして私は登校初日から、意識を失うことになる。




