68【スーツ男と世界樹の種】
数日後。
スーツ男が謎の扉から送り出された先は、異世界の森の中だった。
周りは薄暗い。時間帯は夜である。
森の中から空を見上げてみれば、高い木々の隙間から七つの月が見えていた。それは、元の世界では有り得ない光景である。
その月明かりだけが頼りだった。
空気は少し湿っぽくて暖かい。元居た世界は真冬だったというのに、こちらはまるで真夏のようだった。夜だと言うのに蒸し暑くて堪らない。
森の中では夏虫が鳴いている。時折、謎の奇声まで聞こえてくる。おそらく森に住む鳥などの鳴き声なのだろう。都会の森では聞いたこともない、南国の鳥を思わせる鳴き声である。
すると――。
「なんだ、あれは……」
目の前を、小さな蝙蝠のような目玉が飛んでいった。
それは、眼球に蝙蝠の翼が生え、鼠のような長い尻尾を持ち、さらに雀のような足がチョコンと生えている謎の生き物だった。有り得ない生物である。
それがパタパタと翼を羽ばたかせながら、スーツ男の目の前を通り過ぎていく。そいつは森の奥へと飛んで行った。
「なんだ、あれは……」
現実世界では、有り得ないだろう生き物であった。思わず、飛び去って行く姿を呆然と見送ってしまう。
「こ、ここが服部泰三のいる異世界なのか……」
髪の毛をボサボサに乱したスーツ姿の男は、森の中で呆然と佇んでいた。
自分がくぐってきた扉は、既に消えている。
もう、帰り道は絶たれているのだ。
「――……っ」
森の中、辺りを見回しながらスーツ男は考え込んだ。額から汗が流れ落ちる。
「これから、どうしたものか……?」
鬼頭二角に言われたことは、服部泰三の殺害。それを達成できたのならば、自分がウロボロスの書物の所有者になれると言われていた。
男も不老不死に憧れを抱いていた。
これは、とてつもないチャンスである。
服部泰三は、最近になってウロボロスの権利者になったばかりの新参幹部だ。
一般の社員である自分でも、殺せるかもしれない相手だった。
鬼頭二角よりは、いくぶんか難易度の低いターゲットだろう。
これは、ウロボロスの書物を手に入れるチャンスなのだ。
だが、右も左も分からない異世界の森の中に投げ出されてしまえば、どうしたものかと途方に暮れてしまう。
人影どころか人工物の姿すら見当たらない森の中である。しかも、夜だ。たまに見られるのは、訳もわからない奇怪な生物ばかりであった。
問題なのは、目標が達成されるまで、迎えは来ないらしい。この異世界から出れないのだ。
「とりあえず、進むか……」
宛てはない。
しかし、この場でジッとしていても話は始まらないのだ。まずは移動してみるしかないだろう。
目標を見つけ出す。人里を見つけ出す。とりあえずは、その辺からスタートだろうか。
「ク、クソぉ……」
そして、森の中を何キロ歩いただろうか。やがて、森の空が少しずつ明るくなってきた。
その頃には、着ていたスーツは木々の枝に引っ掛けてボロボロになっていた。革靴もズボンの裾も泥だらけである。
どうやら、一晩中森の中を歩いていたようだ。朝が来てしまう。
しかし、これといって進展はない。
ただ森の中をボロボロになりながら歩いただけだった。進めど進めど、険しい森ばかりである。
目標を見つけるどころの話ではない。人里どころか、誰にも会えなかった。森に住む動物や訳のわからない生き物ぐらいにしか遭遇しない。
そして、それ以上の問題があった。
「の、喉が渇いた……。腹も減ってきた……」
スーツ男は一晩中、飲まず食わずで歩き続けていたのだ。何時間経ったのかも分からない。
ゆえに喉が渇いて、お腹が空いてしまった。もう、歩くのもやっとである。
「畜生め。どうなってやがる……」
スーツ男は、腕時計を見て時間を確認した。
しかし、手首に付けていた腕時計は鬼頭二角と戦った際に壊れてしまっていた。ガラスがひび割れて秒針が止まっている。
スマホも向こうの世界に落としてきたようだ。
最悪である。時間すら確認できない。
ここまで来る間も、周囲を見回しながら歩いていた。だが、川すら見当たらなかった。
「畜生め。せめて水だけでも飲みたいぜ……」
スーツ男が最後に口にしたのは、数時間前に食べたラーメンだった。
舎弟二人と鬼頭二角襲撃の前祝いとして食べた食事である。それが最後の晩餐だった。
あの時に、もっとビールを煽っておくべきだったと後悔する。
まさか、飲み水すらも満足に手に入らない世界に飛ばされるとは、夢にも思っていなかったからだ。
思えば、水道の蛇口を捻れば水が飲める世界が懐かしかった。あの頃に戻りたい。
「腹減った……。ビールが飲みてえ……」
ひもじい思いをしながらも何気なくスーツのポケットを漁ると、クルミのような乾燥した種が出てきた。
「これは……」
鬼頭二角に渡された、世界樹の種だった。
そして、世界樹の種を眺めていると、お腹の虫がグゥ〜っと鳴った。
パッと閃く。
「これ、食えるんじゃね……?」
世界樹の種はクルミの種のようで、割ったら中身が食べれるのではないかと連想させた。
「砕いてみるか……」
スーツ男は周囲の森から平たい石を探してきた。
その上に世界樹の種を置くと、別の石を手に取り、世界樹の種を叩き割る。
「うらぁ!」
世界樹の種が砕けた。
「おおっ!」
割れた世界樹の種から、中身が現れた。それはクルミの身っぽい。なんだかカリカリと食べれそうである。
「や、やったぜ」
スーツ男は、それを何の躊躇いもなく口に運ぶ。
ボリボリ、ボリボリ。
そのまま食べてしまった。
味は、まさにクルミのような味だった。
美味しくもなく、不味くもない。乾燥していて、ポリポリとした食感である。
しかし――。
「……足りねぇ」
腹の足しにはならなかった。あまりにも量が少なすぎる。
空腹を紛らわせるには、焼け石に水だった。
これならば、バケツ一杯には食べれるだろう。
「畜生め……もっと食べてぇ〜……」
そう呟きながら森の中を進むスーツ男。南国のような暑さに、額から汗が滲んでいる。
喉が渇く。
今なら泥水ですら啜れるだろう。
すると、森の木々が少し開けた。
眼前には崖の斜面が見える。その斜面には、大きな洞穴がぽっかりと口を開けていた。
「なんだ、あれは?」
洞穴の前に、子供のような矮躯の影が二つ見える。
人間では、なさそうだ。
それは、緑色の小鬼だった。
背は低いが頭は大きい。汚れた服を纏い、手には木の槍を持っている。耳は尖り、鼻も尖っており、髪の毛は疎らに生えていた。
その顔は、まるで悪鬼羅刹のように醜い。
ゴブリンである。
二匹のゴブリンが、洞穴の見張りに立っていたのだ。
しかし、スーツ男はゴブリンを知らない。
彼は筋金入りのろくでなしである。
若い頃はヤンキーだった。ゲームすらやったことがない。アニメも映画も、漫画すら観ない。そんな男なので、ゴブリンというファンタジー世界の定番モンスターすら知らなかった。
スーツ男は、ゴブリンたちに声を掛ける。
「おい、お前ら。水をくれ、水をくれよ!」
命令形の口調だった。自分の立場を何一つ弁えていない。
その横柄な態度に、ゴブリンたちが腹を立てる。
「ギィーー! ナンダ、キサマ!!」
「ヘンナ人間ダナ。ブッ殺スゾ!!」
一匹のゴブリンが木の槍を突き出しながら、スーツ男に飛び掛かった。
その形相は、野良犬のように凶暴で威嚇的だった。容赦も何も無い先制攻撃である。
その顔から明確な敵意を感じ取ったスーツ男は、咄嗟に懐へ手を突っ込む。
「なんだ、こいつ!?」
そして、取り出したレンコン銃をゴブリンへ向けた。
パンッ!
一発。
渇いた銃声が森に響き、ゴブリンの頭部を的確に撃ち抜いた。額のド真ん中を撃ち抜いている。
「ギャッ!」
ゴブリンはその場に倒れ、呆気なくも絶命する。
見事な狙撃だった。
「キェー!? ナンダ、今ノハ!?」
仲間が殺されたことに驚いた別のゴブリンが叫ぶ。
すると、その銃声を聞きつけたゴブリンたちが洞窟の中から次々と飛び出してきた。
「ナンダ、ナンダ!?」
「雷ノ魔法カ!?」
「敵ダ、敵ダ!!」
「人間ガ攻メテ来タゾ!!」
「一匹シカ居ネエジャアネエカ!!」
「バラシテ、食ッチマエ!!」
洞穴から、ゾロゾロとゴブリンたちが姿を現す。その数は三十匹を超えていた。かなりの大群である。
「やべぇ……」
さすがのスーツ男も、ゴブリンの数に恐れをなした。まさかこんなに群れているとは思わなかったからだ。
拳銃を持っているとはいえ、一人で相手にできる数ではない。とにかく数が多すぎる。
「逃げるか……」
そう思った、その刹那だった。
ぎゅるるるる~~~~。
「ぅぅ…………」
スーツ男の腹が、切なげな音を立てた。ゴロゴロと鳴る。腹部に激痛が走った。
「なっ……。ぁ、あ〜……」
お腹が下り始めたのだ。
腹を押さえたスーツ男は内股になり、前のめりに身体を屈める。顔色が一瞬で青ざめ、額からは大量の油汗が噴き出した。
お尻が爆発しそうだ。それは決壊寸前のダムを思わせる。
「は、腹が……」
どうやら、下痢である。
しかし、かなりビンチを煽る下痢だった。
世界樹の種が、当たったようである。あれは食べるべき物ではなかったのだろう。
「もほほほぉ……。や、ヤバい……」
そのように苦しむスーツ男だったが、そんなの関係なくゴブリンたちが襲いかかった。
「「「キィェエエエエエエエ!!!」」」
いろいろと、ピンチ到来であった。




