19【草】
スペツナズ・ナイフとは――。
ロシア軍や治安部隊の特殊任務部隊「スペツナズ」に由来する、発射機構を備えた特殊ナイフの総称である。
主に、スプリングの力で刀身を射出する特殊な機構を備えたナイフを指し、一般市場では頑丈なタクティカルナイフとして販売されている製品も多い。また、近年では火薬を利用した射撃機構を備えた特殊モデルも存在する。
その仕組みは、柄の後部に設けられたボタンや引き金を操作することで、内部のスプリングが解放され、刀身が前方へ射出されるというものだ。
有効射程はおおよそ五メートル程度。射出された刀身の速度は時速約六十キロ前後とされ、プロ野球投手の投球速度が時速百五十キロを超えることを考えれば、比較的遅い弾速と言える。
そのため、至近距離での奇襲や隠密行動を目的として設計されており、何よりも意表を突く奇襲性能に優れた武器である。
この種のスペツナズ・ナイフが実戦で使用されたのは、1970年代後半から1980年代の冷戦末期である。
その後、アクション映画などのフィクション作品に登場する機会が増えたことで広く知られるようになったが、その存在が一般にも認知された現代では、かつてほどの奇襲性は薄れている。
その奇襲攻撃も、仕組みを知っていれば対処できるのである。
しかし、異世界育ちのダークエルフであるレーンには、そのような知識は皆無だった。まさか刀身が唐突に発射されるとは、夢にも思わなかっただろう。
この異世界で発射機構を持つ武器といえば、弓矢や旧式のクロスボウが関の山である。その程度ならば異世界人でも知っている。
だが、ボタン一つのノーモーションで刀身が発射される武器は知らない。
そもそも、この異世界にスプリングが存在するかどうかも怪しい。火薬すら存在しないかもしれない。
そして、戦いの冒頭で見せた忍者刀の投擲ですら、意表を突くための前振りだったのだ。
頭上高く振りかぶってからの忍者刀の投擲。手裏剣のフルスイング投擲。サイドスローによる投擲。どれもこれもフルスイングからの投擲だ。それらはすべて布石である。
大きく振りかぶる分かりやすいモーションこそが、騙し討ちには必要だった。
だからシーンは、ナイフが指先一つで発射される武器だとは考えもしなかったのである。投げるモーションが無かったからだ。
服部泰三という男は、騙し討ちや意表を突く攻撃を得意とする。それゆえに、前振りを緻密に積み重ね、相手を丁寧に騙してくるのだ。
忍者の戦い方は、武芸百般を修めた侍とは異なる。そもそも忍者は、正面戦闘を主任務とする兵士ではない。
なぜなら、忍者の本職は諜報活動だからである。敵地へ潜入し、情報を収集することが主な任務なのだ。現代で言うところのスパイである。
その情報収集も地味な仕事である。武家屋敷に忍び込み、屋根裏へ潜んで盗み聞きをするような任務は、ごく一部の特殊任務にすぎない。
多くの忍者は「草」と呼ばれる者たちで、農民や町人に変装し、人々の暮らしに溶け込みながら、さまざまな情報を集めることを任務としていた。
庶民の暮らしを探り、地形を地図にまとめ、人間関係を調べ上げる。それは地味で、しかも長期間に及ぶ活動である。だからこそ農民町民に紛れ、長い年月をかけて情報収集に励むのだ。
それこそが、多くの忍者の仕事である。草とは、農民町民と見分けがつかないスパイ的な存在だった。
敵国の地に暮らし、根付く。だから「草」と呼ばれるのだ。
だから、武器を持って日常的に稽古へ励めば怪しまれる。忍者の武器に鎖鎌など、農具を応用したものが多いのは、武器の稽古をしていると悟られないためでもある。
その結果、忍者は侍と正面から戦えば、あっさり敗れることも珍しくなかった。外国人が思っているほど強くないのだ。
それを避けるため、忍者は武器や戦法を工夫し、騙し討ちや不意打ちを基本とした戦術を築き上げ、自らの身を守ったのである。
服部泰三の戦術は、まさにその忍者の精神性に基づいて組み立てられている。そこが、一般的な格闘家とは決定的に異なる点なのである。
騙す――それ自体が技なのだ。
『決着で、構わんよな?』
シャドーはスプリングが剥き出しになったスペツナズ・ナイフの柄をジャケットの懐にしまい込んだ。そして、残った左手のナイフをレーンへ向ける。
『防具をまとっていて良かったな。さほど内臓も傷ついてはいまい。今治療すれば、命は助かるだろう』
「ぐぬぬぬぅ……」
両膝をつくレーンは悔しそうに奥歯を噛み締めていた。しかし、刺された腹が痛むのか、その顔は真っ青だった。
「ま、まだやれる……」
そう言いながらレイピアを杖代わりにして、レーンが立ち上がってくる。まだ諦めていない様子である。
『くどい――』
つぶやくなり、シャドーが左手に残るスペツナズ・ナイフを発射した。スプリング音と共に射出された刀身がレーンの左太腿に突き刺さる。
「ギィアッ!!」
ナイフの刀身が太腿に刺さったレーンは悲鳴を上げ、その場に尻から倒れ込んだ。激痛に叫びながら、のたうち回る。
『負けを認めろ。じゃないと、本当に殺すぞ』
「構わん、殺せぇえええ!!!」
強がるレーン。
『まったく、困ったちゃんだな――』
そう言いながら跳躍したシャドーは、倒れているレーンを跨ぐ形で上半身の上に着地する。馬乗りである。
そして拳を高く振り上げた。
『死ぬのは、生きることよりも簡単だぞ。楽を選ぶな』
言うなり拳を振り下ろす。レーンの顔面へ、瓦割りの下段正拳を叩き落とした。
『せいっ!』
「ぎゃふん!!」
振り下ろされた拳がレーンの顔面にめり込む。その下段正拳突きの一撃で、後頭部を地面に打ち付けた。
顔面を打たれる音と、後頭部を地面に打ち付ける衝撃で激しい音が二度鳴った。それでレーンの意識は吹き飛んだ。
彼は気絶した。もうピクリとも動かない。
『これで完全決着だ――』
シャドーは振り返り、ラーオに告げる。
『ラーオ、こいつを治療してやってくれないか』
ラーオは冷たく応えた。
「生かすのですか?」
『殺す必要もあるまい。あとは本人の意思に任せる。自分の中で敗北を認められないのなら、また挑んでこいと言っておいてやれ。俺は、いつでも相手をしてやるからさ』
「甘いですな――」
『同じ同族だろ。少しは甘く見てやれよ』
「シャドー様の意のままに……」
ラーオは深く頭を下げた。
すると村人たちが気絶しているレーンを広場から運び出し、どこかへ担いで行った。
『なあ、マーリアさん』
「はい?」
『村の中を案内してもらえないか?』
「畏まりました、シャドー様」
マーリアは笑顔でほほ笑んだ。褐色の美人が見せる笑顔は、まるで花が咲いたようだった。緊張していた戦闘の空気が薄らぎ消える。
その後、二人でダーク村を見て回る。それは、まるでプチデートのようだった。
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by、ヒィッツカラルド。




