第42話「右腕、限界の予兆」
甲子園の空気は、昨日より重く感じた。
スタンドのざわめきが、ひとつの名前に吸い寄せられている。
夏目孝太郎。
初回から投げるたびに、空気が一度止まり、
ミットへ収まった瞬間に爆ぜるような歓声が返ってきた。
ただ――今日は、少し違った。
南浦学院の一番は、まるで“何か”を計りながら間を取り、
二番も三番も、ファウルで粘り続けた。
(……粘ってくるな)
夏目は淡々と指先を整えたが、
マウンド上の時間は確実に長くなっていった。
ストレートは相変わらず速い。
スライダーは鋭く、落ちるフォークはいつもの切れ味。
だが――誰も打ちにいかない。
ただひたすら、粘る。
スイングしてきても、ファウルで逃げる。
まるで“球数を増やしにきている”としか思えない。
ベンチの中村が落ち着かない視線を送ってくる。
伊藤はスコアブックに数字を書きながら、唇をかすかに噛んだ。
夏目は気づいていた。
(……右肩、少し重いな)
痛みじゃない。
ただ、疲れの“予兆”。
それでも初回を無失点で切り抜けると、
球場は大きく沸いた。
二回も三回も同じだった。
南浦学院は徹底していた。
――
南浦学院のベンチ。
監督は腕を組み、マウンドの夏目をじっと見つめていた。
「……いいか」
声は低く、冷静だった。
「人間がだ。
170キロなんて球を、
何十球も、何イニングも投げ続けて――
壊れないわけがない」
選手たちが、唾を飲む。
「打たなくていい」
監督ははっきり言った。
「ヒットなんていらん。アウトでもいい。
三振でもいい」
一拍置いて、続ける。
「どんな形でもいいから粘れ。
ファウルでいい。
球数を増やせ」
「……でも、監督……
あの球、当たらないっす……」
「分かってる」
監督は即答した。
「バットは振り切るな!中途半端に止めてもいい!追い込まれたら当てることに集中しろ!」
マウンドを見る。
怪物が、淡々と次の球を握っている。
「勝つ方法は一つしかない。
“今”のあいつを倒すんじゃない」
「“後”のあいつを作るんだ」
ベンチに、重い沈黙が落ちた。
――
配球を読みにいくでもなく、強振するでもなく、
ただ粘る。
計算されたファウル。
(面倒な打ち方してくるな……)
夏目が淡々と処理していく一方で、
球数だけがじわりと増えていった。
佐藤はミットの中で手を握りしめていた。
夏目の球は完璧に近い。
だけど、何かが騒ぐ。
(……この流れ、嫌な感じだな)
四回表。
南浦の四番がまたも粘る。
ファウル、ファウル、ファウル。
最後は結局、三振で終わった。
だが夏目の投げた球はすでに六十球に近づいていた。
観客は気づかない。
ただ圧倒されているだけ。
――完全に抑えているのに、何かがおかしい。
マウンドに立つ夏目だけが、
肩の奥にわずかに残る“きしみ”を感じていた。
(……もう少しは投げられるけど)
次の回への不安が、胸の奥で小さく揺れた。
そして五回。
ついに――決定的な違和感が生まれる。
ストレートが、ほんの少しだけ浮いた。
打者は見逃した。
結果はストライク。
でも佐藤がミットの奥で、
ほんのわずかに息を呑んだのを夏目は知っていた。
(……落ちてきてる)
球威も回転数も不安定になってきている。
球速表示はまだ 162km と出ていたが、
夏目自身が一番分かっていた。
(右腕の限界……少し近いな)
それでもアウトは積み上がっていく。
スコアは 2-0。
開明がリードしたまま、試合は中盤へ進む。
球場の温度があがる。
観客も、実況も、相手ベンチも知らない。
夏目孝太郎自身だけが気づいていた。
――右肩の奥の違和感。
――球数の積み重なり。
――粘りで削られる試合。
これは、ただの快勝では終わらない。
次の回で、何かが起きる。
そんな予感が、静かに、確実に形を取りはじめていた。




