第43話「沈む音」
六回表。
マウンドへ戻った瞬間、夏目は右肩を軽く回した。
「…………」
五回までとは違う。
痛みはない。
だが、肩の奥に何か重いものが沈んでいるような感覚があった。
指先の痺れも、まだ完全には消えていない。
(……まだいけるけど)
投げられないわけではない。
それでも、いつものように腕を振れるかと言われると少し怪しかった。
南浦学院の一番打者が打席へ入る。
ここまで何度もファウルで粘り、夏目に球数を使わせてきた打者だ。
佐藤が外角高めへミットを構える。
夏目が投げた。
バシュッ!!
「ストライク!」
電光掲示板に球速が表示される。
【158km/h】
スタンドがざわついた。
「158?」
「さっきまで160超えてたよな?」
「昨日173出してたやつだぞ……?」
夏目も表示を見た。
(……下がってきたな)
二球目。
内角へのストレート。
【156km/h】
それでも十分速い。
普通の高校生ならエース級どころではない球速だ。
だが、今までの夏目を知っている者には明らかな異変だった。
三球目のフォークに、一番打者が食らいつく。
カッ!
「ファウル!」
南浦は変わらない。
夏目の球威が落ちても、焦って打ちに来ようとはせず、徹底して一球でも多く投げさせようとしてくる。
(……また粘るか)
四球目。
夏目はストレートを選んだ。
投げた瞬間、指先からボールがわずかに早く離れる。
(あ)
予定より少しだけ真ん中へ入った。
カキィン!!
鋭い打球が三遊間を抜ける。
レフト前ヒット。
「よし!!」
南浦ベンチが今日一番の声を上げた。
夏目が甲子園で初めて許したヒットだった。
佐藤は返球を受けながらマウンドを見る。
(やっぱり……落ちてる)
球速だけではない。
制球も、変化球のキレも。
少しずつだが、いつもの夏目からズレ始めている。
⸻
続く二番打者は、最初から送りバントの構えを見せた。
「バントか」
佐藤が前へ出る。
夏目の初球を二番がファウル。
二球目もファウル。
追い込まれても、南浦は慌てなかった。
三球目。
夏目がストレートを投げる。
【152km/h】
バットへきっちり当て、打球を一塁線へ転がした。
「一塁!!」
夏目が処理して送球。
アウト。
その間に一塁走者は二塁へ進む。
一死二塁。
中村はベンチの前で松葉杖を握りしめた。
「……150まで落ちてきてるぞ」
伊藤もスコアブックへ球速を書き込みながら、マウンドから目を離さない。
五回から、明らかに下がり続けている。
それでも夏目は交代を求める様子を見せなかった。
(……まだ抑えられる)
夏目自身も、そう思っていた。
だが右手を握ると、指先の感覚がさっきよりも薄い。
⸻
三番。
南浦学院の主軸打者。
佐藤は慎重に外角へ構えた。
初球。
スライダー。
夏目の指から離れたボールが、いつもよりわずかに高い。
(抜けた)
三番は見送った。
二球目。
フォーク。
これも思ったほど落ちない。
「…………」
夏目が一度右手を見る。
三球目。
ストレート。
【148km/h】
「えっ?」
「150切ったぞ!」
「夏目どうした!?」
スタンドが一気に騒がしくなった。
その直後。
カキィン!!
三番の打球がセンター前へ抜ける。
二塁走者が三塁を回った。
「バックホーム!!」
加藤から返球が来るが、間に合わない。
「セーフ!」
南浦学院、初得点。
2-1。
甲子園に大きな歓声が響いた。
夏目は表情を変えず、佐藤から新しいボールを受け取る。
(……もう結構きてるな)
右肩が重い。
指先も思うように動かない。
それでも、一点差。
まだリードしている。
⸻
一死一塁。
四番打者が入る。
南浦ベンチから大きな声が飛んだ。
「ここだ!!」
「もう一人返せ!!」
夏目が初球を投げる。
球速表示は――
【144km/h】
そしてストレートは、高めへ浮いた。
カァン!!
鋭い打球がライト線へ飛ぶ。
「金森!!」
金森が全力で追い、最後は飛びついた。
だがグラブの先をかすめ、ボールは外野を転がっていく。
一塁走者が二塁を蹴り、さらに三塁も回った。
「ホーム!!」
中継から返球。
クロスプレー。
「セーフ!」
2-2。
同点。
南浦学院のベンチが爆発した。
「よっしゃあああ!!」
「追いついた!!」
甲子園も一気に沸く。
今まで一人の走者すら許さなかった夏目が、ついに捕まった。
マウンドで夏目は帽子のつばを触り、右肩を軽く回す。
(……押し込めないな)
いつもの感覚で腕を振っている。
なのに、最後まで力が伝わらない。
佐藤がタイムを取った。
そのままマウンドへ走る。
「夏目」
「ん?」
「もうキツいだろ」
夏目はすぐには答えなかった。
「肩、痛いのか?」
「痛くはない」
「じゃあ指は?」
「感覚が薄い」
「それで投げ続けんなよ!」
佐藤の声が少し大きくなる。
「球速、もう144だぞ。しかも球も浮いてる」
「まだ投げられる」
「お前の“まだ投げられる”はもう聞き飽きた!」
佐藤は夏目の右腕を見る。
「無理して本当に壊したらどうすんだよ」
「…………」
夏目は黙った。
佐藤の言っていることが間違っているとは思わない。
実際、右腕はもうかなり重い。
それでもマウンドを降りる気には、なぜかなれなかった。
「……この回までは投げる」
佐藤が顔をしかめる。
「絶対だぞ」
「分かった」
「七回も右で行くとか言ったら殴るからな」
「届かないだろ?」
「チビ扱いすんじゃねえ!!」
いつもの返しが出たことで、佐藤も少しだけ息を吐いた。
「……あと二人。抑えるぞ」
「おう」
⸻
五番打者。
夏目は球速を求めるのをやめた。
無理に力を入れれば、もっと制球が乱れる。
なら今残っているもので抑える。
外角へスライダー。
ファウル。
低めへカーブ。
空振り。
最後はコースいっぱいのストレートを打たせ、ショートゴロ。
二死。
六番もフルカウントまで粘ったが、最後はフォークを引っかけて一塁ゴロに倒れた。
「アウト!」
スリーアウト。
六回表終了。
2-2。
夏目はゆっくりマウンドを降りた。
ベンチへ戻る途中でも右肩の重さは消えず、右手を握ってみても指先の感覚はほとんど戻ってこない。
中村がすぐに横へ来た。
「夏目」
「ん?」
「もう右で投げんなよ」
夏目は右手を見た。
「……そうだな」
「珍しく素直だな」
「球、走ってないし」
「144出てんだけどな!?」
「遅いだろ」
「お前基準ではな!!」
夏目は少しだけ笑った。
そして、自分の左手を見る。
県大会決勝。
右手を痛めた時、一度だけ使った左腕。
160キロ。
ジャイロストレート。
ジャイロスライダー。
ジャイロフォーク。
夏目は左手を軽く握った。
(……まだ、こっちがある)
右腕は使えない。
なら――
それだけだった。




