第11話「授業」
代表合宿三日目。
紅白戦を終えた翌日のグラウンドは、驚くほど静かだった。
全体練習といっても、負荷は軽い。
肩肘を休ませる投手。
調整に徹する野手。
この段階で、首脳陣はもう候補を絞り始めていた。
九条昂は、外野の端でバットを握っていた。
素振りの回数は、いつもより少ない。
振るたびに、昨日の紅白戦が頭に浮かぶ。
――打てなかった。
正確には、「対応できなかった」。
夏目のストレートを意識しすぎて、変化球にやられた。
九条は視野が狭くなっていた。
(……見すぎてる)
分かっている。
頭では、もう分かっている。
だが、体が追いついていない。
「九条」
声をかけてきたのは、一ノ瀬修吾だった。
キャプテンマークのない練習着姿でも、自然と人が集まる位置にいる。
「ちょっと、一緒にやろう」
九条は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「はい」
二人が向かったのは、打撃ケージでもメインフィールドでもない。
外野寄りに設置された、簡易的なマシンの前だった。
球速表示は、130キロ前後。
代表レベルとしては、拍子抜けする数字だ。
九条は思わず聞いてしまう。
「……遅くないですか?」
一ノ瀬は否定も肯定もしなかった。
「今日は、速さはいらない」
そう言って、マシンの設定を微調整する。
コースは、外。
しかも、わずかにボールゾーン。
「これ、振る?」
九条は、正直に答えた。
「……振らないです」
「うん。普通はね」
一ノ瀬は、バットを構える。
力の入っていないフォーム。
構えも、低い。
マシンが球を吐き出す。
外。
ボール。
だが、一ノ瀬は迷わず振った。
強振ではない。
合わせるだけでもない。
乾いた音。
打球は、三遊間の深い位置を抜けていく。
九条の喉が鳴った。
「……今の、ボール球ですよね」
「うん」
一ノ瀬は、何事もなかったように言う。
「外しにきてる球だ」
「でも……ヒットに」
「分かってるから、だよ」
九条は眉をひそめる。
一ノ瀬は、ゆっくり言葉を選ぶ。
「投手はね、ボールゾーンに“外す”時」
「抜けないように、回転や角度を変える」
「そのぶん――」
「狙いがズレた球が混ざる」
「回転が少し甘い」
「抜けが少し早い」
「球が少し浮く」
「コースは外れてても“球威が落ちてる”瞬間がある」
「だから、こういう球は――」
「強い球じゃない」
九条は、思わず口を挟む。
「じゃあ、甘い球じゃなくて……」
「弱い球」
一ノ瀬は、はっきり言った。
「甘い球は、来ない前提でいい」
「でも、弱い球は必ず混ざる」
一ノ瀬は、もう一球打つ。
またボール球。
またヒットゾーン。
「全部打つ必要はない」
「打てる球だけ、奪う」
九条は、バットを握り直した。
「……俺が夏目を打てなかったのも」
「速さじゃない」
被せるように、一ノ瀬が言う。
「判断だ」
「君は、“全部対応しよう”としてた」
それは、核心だった。
夏目の右。
回転数が高く、浮き上がって見えるフォーシーム。
左のジャイロ。
初速と終速の差が小さく、途中まで真っ直ぐに見える球。
全部に反応しようとすれば、必ず遅れる。
「九条」
一ノ瀬が、九条の構えを見て言う。
「今日は、芯で打たなくていい」
「前で、当てろ」
「前で……」
「芯で打つのは、夏目が許さない」
「でも、前で当てるのは止められない」
その言葉が、九条の中で何かを切り替えた。
マシンが球を出す。
外。
ボール。
九条は、迷わず振った。
詰まった感触。
だが、打球は二遊間を抜ける。
「……」
もう一球。
今度は、少し高い。
ストライクゾーン外。
九条は、同じように前で当てた。
外野の前に落ちる。
「……当たる」
一ノ瀬は、静かに頷く。
「それでいい」
「綺麗じゃなくていい」
九条は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(俺、ずっと)
(勝ち方を一つしか知らなかった)
夏目を超える。
正面から倒す。
怪物を上回る。
でも、代表は違う。
勝てばいい。
奪えればいい。
遠くで、キャッチボールの音がする。
別の場所では、夏目が軽くランニングをしている。
その姿を、九条は一瞬だけ見る。
(……追いかけるだけじゃ、ダメだな)
バットを構え直す。
「もう一球、お願いします」
一ノ瀬は、少しだけ笑った。
合同練習。
軽いメニュー。
だが、九条にとっては違った。
この日、彼は初めて知った。
打つべきは、ストライクじゃない。
怪物が嫌がる場所を、静かに奪うことだ。
そしてその技術は、
確かに今、自分の中に落ち始めていた。




