第10話「同じユニフォーム、違う世界」
グラウンドに立った瞬間、空気が変わった。
代表合宿にありがちな緊張ではない。
もっと露骨で、もっと残酷なもの。
誰もが同じユニフォームを着ているのに、立っている世界が違う。
――比べられる。
紅白戦。
公式記録は残らない。勝っても表には出ない。
それでも、この試合だけは「嘘」を許されない。
先発のアナウンスが入った。
「先発ピッチャー。夏目孝太郎」
スタンドが、わずかに揺れる。
拍手というより、確認のざわめきだ。
夏目は反射的に帽子のつばに触れ、ベンチでグローブを確かめた。
両利き用のグローブ。
大学に入ってから変えたものだ。
右でも左でも、同じ感触で握れる。
“逃げ道”があることが、今日に限っては重い。
森山が隣に座り、防具の紐を締め直しながら言った。
「今日は最初に確認する。右はフォーシームを中心に変化球を織り交ぜる」
「回転数で押す。球速は出しすぎない」
「左はジャイロのみで行こう。俺も打者の反応をみたい」
夏目は頷く。
理屈は、もう頭ではなく身体に入っていた。
右のフォーシームは、回転数が異常に高い。
それでも打てないのは――“落ちないから”だ。
打者が思った高さに来ない。浮き上がるように見える。
左のジャイロは逆。
ジャイロ回転で空気抵抗が小さく、初速と終速の差が小さい。
途中から伸びてくるように感じ、距離感が壊れる。
森山は、そこだけは一切ブレない顔で言った。
「大丈夫だ。君の球は、理屈通りに怖い」
白組の攻撃が三者凡退で終わる。
攻守が入れ替わり、白組は守備についた。
夏目はマウンドへ向かった。
名前を呼ばれる。視線が刺さる。
それでも足は止まらない。
森山がミットを構える。低め。
サインは右。フォーシーム。七割。
一度深呼吸をして、夏目は投げた。
一球目。
打者のバットが遅れる。
捕らえたように見えたのに、芯を外し、三塁側へファウルが転がる。
“速い”より先に、“高い”が来る。
落ちない。浮き上がる。
森山が、ミットを動かさずに言った。
「今の高さでいい」
二球目も同じ。
最後まで沈まない球に、打者の目が泳ぐ。
三球目。外角いっぱい。
詰まった打球が二塁へ転がり、二ゴロ。
――一死。
二番打者。
今度は変化球を一つ混ぜる。右のスライダー。
フォーシームで“浮かせて”から、横へ割る。
打者は振るが、空を切る。
そこでもう一度フォーシーム。
空振り三振。
――二死。
三番打者が入る。
ベンチのざわめきが、少しだけ変わった。
「来るぞ」
「キャプテンだ」
三番。ショート。
一ノ瀬修吾。
球場の空気が、ほんの一段落ち着く。
騒がないのに、目が集まる。
あの男が立つだけで、全員が“野球の話”に戻る。
一ノ瀬は打席で、構えを大きくはしない。
余計な力がない。打つ気配が、静かにある。
森山がマウンドへ一歩だけ近づく。
「右でいい。勝負する」
「ただし、甘くなるな。簡単に拾われる」
夏目は頷き、サインを見る。
フォーシーム。外角低め。
投げる。
回転数が高い。落ちない球だ。
打つには限りなく難しいコース。
一ノ瀬は、振り遅れない。
むしろ、球を“迎えに行かない”。
バットの軌道が、ほんの少しだけ上にズレた。
――カン。
乾いた音。
打球はライナーで二遊間を抜け、センター前へ落ちた。
ヒット。
派手じゃない。
でも、確実に「打った」と分かる一本だった。
スタンドが、遅れて息を吐く。
ベンチも、同じ反応をする。
「……打てるのかよ」
「今の球、低いぞ」
九条が、ネクスト付近でその打球を見たまま、唇を噛んだ。
夏目はマウンド上で、ほんの一瞬だけ理解した。
(――ああ)
(大学とまるでレベルが違う)
怖い。
でも、嬉しさが勝った。
森山が、ミットを叩く。
「いい。今のが代表だ」
「次、切り替える。二死、ランナー一塁。次で締めればいい」
四番打者。
九条昂。
ネクストから出てくる足取りが、わずかに硬い。
一ノ瀬のヒットを見た直後。
同じユニフォームの中で、差が突きつけられた直後だ。
九条は夏目を睨む。
睨んでいるのに、どこか悔しさが混じる。
(大学でも、あいつが復帰してからは――ほぼ打てなかった)
その事実が、九条自身の足を重くする。
森山のサイン。フォーシーム。高さは少し上。
――浮く。
あえて見せる。
打者の“高さの基準”を壊す。
九条のバットが出る。
だが、芯が下にずれる。
三塁側へ高いファウル。
ギリギリでスタンドに切れる。
九条が舌打ちする。
その音だけが、やけに大きい。
二球目。今度は同じ軌道で、ほんの少し外へ。
九条は踏み込めない。
見逃し。
追い込まれる。
三球目。フォーク。
森山のミットが、低めに構えられる。
九条の目にはフォーシームの軌道が刻まれていた。
九条はスイングを止められなかった。
ボールがバットの下をすり抜けていく。
――空振り三振。
スリーアウト。チェンジ。
森山がマウンドへ走り、ボールを返しながら小さく言った。
「上出来だ」
「九条みたいなタイプはタイミングを外せばいい」
夏目は頷いた。
この紅白戦は、ただの選考じゃない。
代表という場所で、勝ち筋を見つける作業だ。
同じユニフォーム。
違う世界。
そして――
夏目孝太郎の球を「打てる男」が、確かにここにいた。
それが、今日の一番の収穫だった。




