第8話「勝ち筋」
ブルペンの空気が、少しずつ緩み始めていた。
投球チェックが終わり、投手たちはそれぞれクールダウンに入っている。
ストレッチを始める者。
黙ってベンチに腰を下ろす者。
スマホを取り出す者。
だが、視線の中心だけは、まだ夏目孝太郎から外れていなかった。
数字が派手だったからじゃない。
速いだけの投手なら、ここにはいくらでもいる。
「どう使うべきか」
全員が、無意識にそこを考え始めていた。
ミットを外した森山が、夏目の方へ歩いてくる。
代表正捕手。
この合宿の中でも、投手との会話に最も慎重で、最も率直な男だった。
「少し、話していい?」
「はい」
二人は、ブルペンの端に並んで腰を下ろした。
森山は、しばらくグラウンドを見つめてから、ゆっくり口を開く。
「右も左も、正直言って想像以上だった」
「数字だけなら、今すぐ最高峰に混ざってもおかしくない」
そこまでは、評価だった。
だが森山は、そこで言葉を切る。
「でも」
視線を夏目に戻す。
「代表で勝つ、となると話は少し変わる」
夏目は、黙って聞いている。
遮らない。
「速い球は、世界に山ほどいる」
「160後半、170近いフォーシームも、もう珍しくない」
「右で殴り合うなら、君は間違いなく主力だ」
「でも、それだけだと“決め手”にはならない」
森山は、左手を軽く握った。
「君の左のジャイロボール」
「正直、捕ってて背筋が寒くなった」
少しだけ、苦笑する。
「回転も、伸びも、落ち方も」
「既存のデータに当てはまらない」
「打者からすると」
「途中まで“真っ直ぐ”にしか見えないのに、最後にズレる」
はっきりと言う。
「誰も、見たことがない球だ」
夏目は、少し考えるように視線を落とした。
「……左は、球速が落ちます」
「それでもいい。というか十分速い」
即答だった。
「世界の打者は、速さに慣れてる」
「でも、“意味が分からない球”には慣れていない」
森山は、静かに断言する。
「左のジャイロは、日本の勝ち筋になる」
「それを投げられるのは、今この中で君だけだ」
その言葉は、評価というより依頼に近かった。
夏目は、少しだけ息を吐く。
「……分かりました」
森山は、安心したように頷いた。
「ありがとう」
「それと――」
一拍置いて、続ける。
「君の球、俺でも油断したら危ない」
「試合では、もっと緊張感を持って捕らなきゃいけないレベルだ」
冗談めかして言ったが、半分は本気だった。
夏目は、素直に言う。
「よろしくお願いします」
そのやり取りを、少し離れた場所で見ていた投手たちが、ひそひそと声を落とす。
「……もう、軸決まったな」
「左で混乱させて、右で締める」
「いや、どっちもエースだろ」
上野が、腕を組んだまま言った。
「どっちにしろ」
「とんでもねぇもん拾ったな、俺たち」
夕方。
宿舎へ戻るバスの中は、意外なほど静かだった。
疲労もある。
だがそれ以上に、今日一日で受け取った情報量が多すぎた。
夏目は、窓際の席に座り、外を流れる景色を見ている。
スマホが震えた。
《どうだった?》
伊藤からだった。
《ちょっと楽しい》
短く返す。
少しして、返信。
《……楽しいって、なんで??》
夏目は、思わず小さく笑った。
宿舎に着くと、各自解散になる。
「夜、ミーティング後に軽く集まるぞ」
誰かが言ったが、
夏目はバッグを肩にかけたまま、首を傾げる。
「……筋トレ、行ってきます」
即座に、ため息が落ちた。
「またかよ」
「代表だぞ、ここ」
「代表でも、筋肉は必要なので」
真顔で言う。
数人が顔を見合わせ、やがて誰かが言った。
「……俺も行く」
「じゃあ俺も」
気づけば、投手陣の半分ほどが、無言でついてくる流れになっていた。
森山が、少し離れた場所でそれを見て、苦笑する。
「……不思議だな」
「一日で、空気が変わった」
上野が言う。
「変えたんじゃねぇ」
「基準を、引き上げただけだ」
その視線の先にいるのは、
黙々とストレッチを始める夏目孝太郎だった。
代表合宿、初日。
ようやく全員が理解し始めていた。
――この合宿は、
「夏目をどう見るか」じゃない。
「夏目にどう合わせるか」だ。
そしてその答えは、
まだ誰も、完全には掴めていなかった。
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