第7話「怪物の基準」
ブルペンの端で、夏目孝太郎は順番を待っていた。
すでに投手陣のチェックは、ほぼ終わっている。
国内組。
海外組。
ベテランも若手も。
ひと通り投げ終えたあとだ。
それでも、誰一人として帰ろうとしなかった。
理由は単純だった。
最後に残っているのが、夏目孝太郎だったからだ。
大学生。
しかも、ここ数年名前を聞かなかった投手。
だが、甲子園の記憶と、復帰後の異常な数字は、
この場にいる誰もが知っている。
年齢も、所属も、プロかどうかも。
このブルペンでは、すでに意味を持っていなかった。
「……で?」
低い声が、静かな空気を割った。
腕を組んだ男が立っている。
短く刈った髪。
無駄のない体。
代表の常連。
メジャーでクローザーを務めるベテラン投手。
上野球児。
「大学生が、なんで一番最後なんだ?」
言い方は荒い。
だが敵意というより、確認に近い。
この男は、そういう投手だった。
夏目は少し考えてから、視線を向けた。
「……確認用、らしいです」
「ほう」
上野は鼻で笑う。
「世界最速だの、凄い身体能力だの」
「正直、そういう話は聞き飽きた」
周囲の空気が、わずかに張った。
「才能だけで投げるやつはな」
「だいたい、途中で壊れる」
経験から出た言葉だった。
「ここは代表だ」
「遊びじゃない」
完全に、試している。
だが、夏目は表情を変えなかった。
「……じゃあ」
一拍置く。
「確認してください」
逃げがない。
短いのに、引かない。
上野の眉が、ほんの少しだけ動く。
捕手がミットを構え直す。
「最初は?」
「左で。ジャイロから」
「ほう……」
上野が口角を上げる。
「見せてもらおうか」
夏目は、マウンドの土を軽く踏む。
肩を回す。
呼吸は浅い。
淡々としている。
余計な所作がない。
一球目。
左腕が振り切られる。
ボールが――伸びる。
伸びる、というより。
減速しないまま、突っ込んでくる。
捕手のミットが鳴った。
……はずだった。
乾いた破裂音がして、
ミットが上を向いた。
ボールが、後ろへ転がる。
一瞬、ブルペンが無音になった。
計測器だけが数字を吐き出す。
《165》
捕手が、ゆっくり振り返る。
「……今の、何だ」
誰に向けた言葉でもない。
自分に言っている。
二球目。
捕手は前に出た。
止めにいった。
止めた。
だが、収まらない。
ミットに入る直前、沈んだ。
ボールが身体に当たる。
三球目。
外角低め。
捕手の身体が反応した瞬間には、
ボールはもうミットを抜けていた。
後ろでコーチが、低く言った。
「……伸びながら動いている」
上野が腕を組んだまま訊く。
「取れないのか?」
捕手は、悔しそうに吐き捨てる。
「途中で……加速して……」
夏目は首を傾げる。
「変わってません」
その一言が、余計に空気を冷やした。
「じゃあ、何で取れねぇんだ」
誰かが言う。
別の誰かが黙る。
言いたいことは同じだ。
普通に取れる球じゃない。
そういう種類の球だ。
そのときだった。
ブルペンの入口で、足音が止まる。
誰も呼んでいないのに、
全員が振り向いた。
森山だった。
代表正捕手。
強肩強打なだけじゃない経験豊富な捕手。
マスクを片手に持っている。
表情は変わらない。
「……代わってもいいか?」
短い。
命令でもない。
当たり前の確認みたいな声だった。
今の捕手が、迷わず立ち上がる。
逃げたんじゃない。
譲った。
森山が、しゃがむ。
ミットを一度だけ、静かに鳴らす。
「いいぞ」
夏目は頷く。
一球目。
音が違った。
さっきまで暴れていたボールが、
森山のミットの中で――ぴたりと止まった。
《166》
ブルペンの空気が、はっきり変わる。
「……取った」
誰かが、呟く。
森山は動かない。
視線だけが、夏目に向く。
「もう一段、上げられるよな?」
夏目は、ほんの少しだけ目を細めた。
二球目。
回転が増す。
伸びが増す。
ミットが、わずかに後ろへ下がる。
それでも、収まる。
《168》
森山が、淡々と言う。
「見たことがない球だ」
一拍。
「取れる捕手は少ないと思う」
その言葉が、全員の背筋を正した。
上野が、低く笑う。
「……なるほど」
夏目は、何でもない顔で言う。
「右もやりますか?」
森山は、迷わず頷く。
「もちろんだ」
夏目はボールを持ち替える。
左から右へ。
空気が変わる。
一球。
爆ぜる音。
森山のミットが、明確に押し戻された。
《174》
誰も、すぐには声を出せなかった。
二球目。172。
三球目。170。
数字が、安定している。
森山は、受けながら目を細める。
「……スピン量が異常だ」
「かなり、浮き上がって見える」
夏目は頷く。
「はい」
最後に、スライダー。
同じ腕の振り。
同じ高さ。
次の瞬間、割れる。
森山のミットが、半拍遅れる。
それでも、止める。
ボールが収まった瞬間、
ブルペンの全員が息を吐いた。
上野が、腕を組んだまま言う。
「……本物だな」
視線を逸らさない。
「才能だけの投手かと思ってたが」
「撤回しよう」
一拍。
「これは、別格だ」
周囲の投手たちが、静かに頷いた。
夏目は、少し困ったように首を傾げる。
「そうですか?」
上野は思わず笑う。
「……変なやつだな、お前」
そして少しだけ声を落とす。
「肩は大事にしろ」
「俺みたいになるなよ」
棘はなかった。
同業者の、素直な忠告だった。
夏目は、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
上野は背を向けかけて、ふと思い出したように言う。
「……このあと、投手陣で飯行くぞ」
九条が、横から口を挟む。
「上野さん、こいつ来ると思います?」
上野は首を傾げた。
「どういうことだ?」
夏目はスマホを確認し、真顔で言う。
「すみません」
「筋トレがあるので」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、誰かが笑った。
「上野さんの飯断るやつ初めて見たわ!」
「代表合宿だぞ!」
夏目は本気で首を傾げる。
「筋肉は、待ってくれないので」
上野が、天を仰ぐ。
「……聞いたか?」
「怪物って、こういうやつだぞ」
すると、別の投手が言った。
「……俺も、行こうかな」
「俺もだ」
「結局、正解あいつじゃね?」
気づけば、数人が本気でストレッチを始めていた。
九条が笑う。
「お前、空気壊す才能も一級品だな」
夏目は、よく分からないまま言った。
「……そうか?」
代表合宿、初日。
怪物は一人じゃない。
だが――
怪物の基準を、静かに引き上げた男は、
確かにここにいた。
そして、
まだ“本番”は始まってすらいなかった。




