12 そして響く音は
――カン、カン、カン、カン、カン、カン……
暗い部屋の中で、鐘の音が響く。俺にはそのピアノの高音は、金属の音に聞こえる。
高低に。繰り返される硬質な。
俺が知っているCDの曲よりも少しゆっくり、囁くように弾いていく。
俺は目を閉じた。
沙樹さんの指先から零れる音は、静かで、でも柔らかくて、一音一音が本当に小さな光みたいだった。暗闇に響く鐘の音は、鍵盤を叩くごとに微かな光が灯るように仄かに明るく聞こえた。圧倒的なものではなくても、ささやかな。
指がつる、と言ったのに。沙樹さんが練習してたことを知った。
心を鷲掴みにしなくたって、その音は俺にちょっとだけ世界を明るく見せた。
俺だけのために、弾いてくれたから。
聴きながら――ああ、本当にこの人とはここで終わりなんだって、思った。
最初っから、俺たちは間違ってた。
続けることは不可能なんだって。
そもそも、始まってさえいなかったのだから。
「……ミスタッチ」
弾き終わった沙樹さんに、そっと言った。
「うるさいなぁ。フジコ・ヘミングでさえ、ミスタッチは直さないんだよ」
「何それ。そんな有名な人と自分を比べないでよ、言い訳じゃん?」
「せっかく弾いたのに。……ああ、泣くなよー」
沙樹さんが手招きするから立ち上がって、椅子の横に座った。
笑って、ニットの袖で俺の頬を拭ってくれる。エアコンの弱い温風じゃ全然温まらない冷たい指が俺の顎に触れて、冷たい唇がまるでPeaceを吸う時みたいに、優しく俺の唇に触れた。煙草の味がしないキスはいつぶりだろう。沙樹さんとの最後のキスは微かに甘い香りがした。
「……反則だ。こんな、最後だけ」
俺がぶすっとして言えば、沙樹さんは軽く肩を竦めた。
「ルールなんてないのに? 反則も何もあるか」
俺は、むっつりしたまま屈んで、放り出してあった袋を拾って沙樹さんに押しつけた。
「何これ」
「クリスマスプレゼント」
「……クリスマス終わってますけど?」
「じゃあ、お年玉」
くっくと笑って、沙樹さんが袋を開ける。取り出した鳥は沙樹さんの手の中にちんまりと収まった。
「……シマエナガ?」
沙樹さんが少しだけ首を傾げたように見える丸い鳥と目を合わせて呟いた。
実際にいる鳥の種類なのか。俺は知らない。
「そういう名前の鳥なの?」
「たぶん。――ポーチ? にしては、小さい?」
「キーケースだって。鍵、なくさないように」
「……可愛い」
「……もう、メーターボックスに鍵入れとく、とかずぼらなことしないように。危ないから」
俺は助けたりできないんだから、という言葉は飲み込んだ。
「……うん。ありがとう」
「もう一曲弾いてよ」
「いいよ。何がいい?」
「……沙樹さんの、作った曲」
「わかった」
ふと、明るい音が零れ落ちる。
ばらばらと分解されたいくつもの音が連なって、続いていった。
耳に心地良くて、聞いたそばから流れていってしまうかのような。
印象には強く残らなくても、気持ちが良かった。
「……タイトルあるの?」
繰り返される優しいフレーズを弾きながら、沙樹さんの口元が綻ぶ。
「……春の、海」
「……嘘だろ?」
「うん、嘘。お正月だね、それじゃ」
「ああ、じゃあむしろ、ちょうどいい?」
「……あけましておめでとう?」
「……ますますセンスないね」
目を閉じれば、不思議と春のような音に聞こえてきた。
零れていく音はまるで小さく明るい光と桜色が弾けては消える、そんな風に。
「沙樹さん」
「ん?」
「……この間はごめん」
「いいよ。春海が謝ることじゃない。春海が言ったのはぜんぶ本当のことだから。謝るようなことじゃない。……むしろ、私の方がいっぱい謝らないといけない。――謝ってすむことじゃない。本当は」
「……本気、だったらいいんじゃないの」
「本気?」
「誰かに責められたら、俺のことは本気だった、って言えば」
「……」
「そこで、黙るなよ。本気で、真剣に好きでした、って言えよ。結婚するつもりでした、くらいのことを言えよ」
「……けっこん」
「俺は言うよ。好きだったよ、沙樹さん」
沙樹さんが曲を弾き終えた。沙樹さんが両手で顔を覆う。
座った細い体を後ろから抱きしめた。
「……本気になってたんだろ? だから、怖くなったんだろ? 最後くらい、言ってよ」
沙樹さんは好きだって、言ってくれなかった。腕の中で細い体がただ小さく震えていた。
好きって言う代わりに、ぽつりと呟きが響く。
「春海の『好き』はぜんぶ、過去形だね……、気づいてた?」
――仕方ない。『好き』に気づいた時は、もう終わってたから。
もっと、早く気づいてたら、何か違ったんだろうか。
ちゃんと、本気で向き合ってたなら。
わからない。俺にわかることは、これが、始まる前に既に終わっていた、ってことだけ。
沙樹さんは俺を玄関で送り出した。
「……元気でね」
微笑んだ沙樹さんはあんまりにも痩せていて、消え入りそうだった。
手を伸ばして、抱きしめたくなった。――でも、しない。
「……沙樹さんも」
「さようなら、春海」
「バイバイ」
俺が言うと、沙樹さんは頷いてドアを閉めた。
隔てられた、ドアを無理やり開けたくて、もう一度叩きたくて、でも、やらなかった。ドアにそっと掌を当てるだけにする。
「――俺、ちゃんと、本気出すから」
言って、ドアから手を放した。
そして、駅に向かって走り出した。
――走れ、走れ、走れ……!
――立ち止まるな、走れ……!
――真っ直ぐに、ただ、行け……!
俺の中で颯の歌が響く。
暗い道を、ただ走った。
頭の片隅で、沙樹さんが弾いた鐘の音が響く。
暗くても、前が見えなくても、まるでか細い希望みたいに光る、それ。
――進め、行け、本気で!
……俺の本気って、なんだろ。
わかんないけど、今は馬鹿みたいにとにかく走るしかなかった。全力で。
颯が歌う歌みたいに。あれに背中を押されて。
走ってれば、いつか見えてくるのかもしれない。
もちろん、見えないままかもしれないし、どこにもたどりつかないかもしれない。怖いよ。きっと、大人だって怖いんだろ。現にいたもんな、後ろばっか見て進むの怖がってなんにも捨てれなくてぐずぐずしててだらしない駄目な大人。すぐ近くに。でも、あの人が本気出すって言ってんだ。今からでも。ひとりで。
じゃあ、俺は? 俺だけ、ずるしてくのか?
要領よく、適当に手を抜いて?
言い訳しながら、嘘ついて?
持ってるものを手放すのが怖くて、なくすのが怖くて何も変えたくないって足踏みして?
そうやって、生きてくのか、俺は? この先、ずっと?
簡単に手に入るものなんて、なかった。
欲しいって願って努力しないで、それで手の中に残るものってなんだよ?
結局、なんにも残らないんじゃないのか?
でも。努力して、頑張って、それでなんにも手に入らなかったら?
――知るかよ、未来なんて、誰にもわかんないだろ?
そんなの、その時また考えればいいだろ!?
「……ゼェゼェ……ッ、阿呆かよ……っ! 吐くし……っ!」
全力で走りすぎて酸欠になって吐きそうになる。駅にたどりついて壁際でオェッてなりながら、不審そうに通りすぎる人を気にするのも馬鹿らしいくらい、崖っぷちで真っ暗で、でもちょっとだけどこかに光があるみたいな、そんな気持ちでいた。
沙樹さんと俺の話はここで終わりだ。
でも、当然日常は続いていく。
学校も、友達も、幼馴染みも、家族も、俺に何があったかなんて知らないまま、終わることがなく明日からも続いていく。
だから、もう少しだけ俺の物語を続けようか。




