11 ちゃんと始めないと、ちゃんと終わることさえできない
ガラガラガラ、という何かを引く音、コツリ、という足音に俺は目を上げた。
「沙樹さん」
俺の前で足を止めた沙樹さんがそこに立っていた。
手にはトランク。旅行にでも行ってたのか。
「……あけまして、おめでとう」
ふっと笑って、沙樹さんが言った。
「……あけまして、おめでとう」
寄りかかっていたドアから体を起こして、俺も言った。俺が避けると、沙樹さんが部屋の鍵を開けた。
ガチャリ、と音がしてドアが開く。よいしょ、と玄関にトランクを入れた沙樹さんがドアを閉めずに俺を見た。
「……入れば?」
「……いいの?」
「寒いから」
「……うん」
玄関に足を踏み入れて、俺は少し目を見張る。
中にはダンボールがゴロゴロと置かれていた。
もともと殺風景だった部屋だが、ベッドと電子ピアノ以外はいくつかのダンボールに無造作に荷物がつっこまれていて、どこかガランとしてしまっている。
「……引っ越し?」
「そう」
エアコンの電源を入れた沙樹さんがコートを脱いで、ピアノの椅子に腰掛けた。
そうして、俺を見た目はこの間のことがなかったように凪いでいた。
それで、俺は本当に、沙樹さんの中で俺が切られたことを実感した。
「旅行でも行ってたの?」
「年末年始、実家に帰ってた。……三、四年ぶり、かな?」
「実家……」
就職しないで一人暮らしを続けることを反対されて、半ば勘当されていて足を踏み入れていない、と以前言っていた。
「頭を下げてきた」
「頭?」
「頭を下げて、もう一度実家に戻ることを許してもらった」
「帰る、の?」
「帰る」
「……やめる、の? 俺のせい? 諦めちゃうの?」
「諦めないことを、決めた」
「あ……、諦めない?」
沙樹さんは、少し笑って軽く頷く。
それは、肩の力が抜けた、諦めなんかじゃない笑いだった。絶望でもなくて、暗くもなくて、ただ静かな。
「高校まで習ってたピアノの先生のところも行ってきて、もう一度教えてもらえるよう頼んできた」
「……どういう、こと?」
「無理かもしれないけど、もう一度、ちゃんと勉強し直すことにした。音大は無理でも、専門学校でもいい。ちゃんと、受験し直す。実家に、それまでの生活費と学費を貸してもらえるよう、頼んできた」
「……ピアノ、やめないの?」
「やめない。ピアノはやめないし、曲を作る。理論も勉強する。少しだけもらってる仕事は今まで通り継続する。そうやって、つなげてく。少しずつでも。何者にもなれなくても。……ちゃんと始めないと、ちゃんと終わることさえできないから」
凪いだ目で俺を見ていた。
俺を通して兄貴を見るのでもなく。
俺が何もしなくても、この人はひとりで自分の中で決着をつけてしまったことだけがわかった。
沙樹さんが、手招きした。近づくと、沙樹さんが俺を抱きしめた。
沙樹さんからは珍しく、煙草の匂いがしなかった。その髪は俺の知らないシャンプーの匂いがした。
「……ごめんね、春海。今まで甘えてて、ごめん」
本当に、ひとりでこの人は俺のことも終わらせてしまったんだ、って思った。
俺が、謝りたいとか、傷つけてごめん、とかぐるぐるしてたのを飛び越えて、ひとりでぜんぶ決めちゃったんだ。
「春海とは一緒にはいれない。どうしたって、終わりにしないといけないんだ。だって、最初から間違ってたから」
「……なんにも言わず、引っ越しちゃうつもりだったの?」
クスリ、と耳元で笑い声がする。
「春海がそう言ったんだよ。諦めさせたいんなら、って」
「い、言ったけど……!」
「……嘘だよ。ごめん。ちゃんと、言おうとは思ってたよ。連絡しようとしたら、家にいたから。――もしかして、何度も来た?」
「う……、い、いや、一回、くらい、かな?」
沙樹さんの手が、まるで子どもにするように優しく頭を撫でた。
「ごめん。……お詫びに、春海のリクエスト、なんでも聞く。好きな曲を弾くよ」
「なんでも?」
「なんでも」
「……電気、消してもいい?」
「寝ないよ?」
「わかってる。……暗い中で聴きたいんだ」
「……いいよ」
電気を消して、沙樹さんが窓際に白く浮く鍵盤の前に座る。
床に座った俺を、見た。
「何を弾く? シベリウス? パルムグレン?」
「リスト。……『ラ・カンパネラ』」
「……いいよ」
前は「いやだ」と言った曲に、沙樹さんは頷いた。
ヘッドフォンを渡されて、それを俺は受け取った。




