貴族様は今日も”最悪”です
戦闘が終わったからといって、私の仕事まで終わるわけではなかった。
むしろ、そこからが本番だった。
「次の方をお願いします」
「聖女様、こちらです!」
「分かりました!」
簡易天幕の中には、負傷した兵士たちが次々と運び込まれてくる。腕を斬られた人、矢を受けた人、魔術で火傷を負った人と傷の種類はさまざまだったけれど、私に治せるものなら全部治したかった。
治癒魔術を使うたびに、身体の奥から少しずつ何かが抜けていくような感覚がある。それでも、目の前に苦しんでいる人がいるのに休んでいる気にはなれなかった。
「聖女様……ありがとうございました」
「いえ。しばらく安静にしてくださいね」
治療を終えた兵士を見送り、次の人へ手を伸ばそうとしたところで、指先が小さく震えた。
「……あれ?」
もう一度、魔力を集めてみる。
光は出たものの、さっきまでより明らかに弱い。
「リリアさん」
声をかけてきたのはセドリック様だった。
「顔色がよくありません」
「あ……大丈夫です。少し疲れただけなので」
「大丈夫な人間は、今のような顔色にはなりませんよ」
セドリック様は私の顔と手元を順番に見て、それから少し考えるように目を細めた。
「魔力もかなり減っていますね。あと何人ほど治療できますか?」
「ええと……重傷者なら、五人くらいは」
「では五人までです」
「でも、まだ怪我人が――」
「駄目です」
いつも穏やかなセドリック様が、珍しく少し強い口調で遮った。
「あなたが倒れては困ります。聖女の回復力は、今後の戦線維持にも必要ですから」
「……はい」
「治療後はすぐに休んでください。明日の朝まで、できるだけ魔力を戻しておきましょう」
忙しい中でも、こうして私の体調まで見てくれている。
やっぱり優しい人だと思った。
「分かりました。ありがとうございます」
「礼を言うようなことではありません」
セドリック様はそう言って、すぐに別の仕事へ戻っていった。
言われた通り、そのあと五人だけ治療を続けた。
最後の一人を終えた頃には、さすがに立ち上がるだけでも少し身体が重くなっていた。
天幕を出ると、アルベルト殿下とラインハルト様がちょうどこちらへ向かってくるところだった。
「リリア」
アルベルト殿下は私を見るなり眉を寄せた。
「ずいぶん疲れているじゃないか」
「少しだけです」
「少しには見えない」
そう言って、顔色を確かめるように私を覗き込む。
「今日はもう治療を終えたのか?」
「はい。セドリック様に、ここまでにするよう言われました」
「それでいい。これ以上は休め」
殿下は安心したように頷いた。
「君には明日以降も働いてもらわなければならない。今夜は魔力の回復を最優先にしてくれ」
「はい!」
「本当に無茶するなよ」
ラインハルト様も横から口を挟んだ。
「今日みたいに顔を真っ青にするまで治療する必要はない」
「でも、私が治せるなら――」
「リリア」
ラインハルト様が、さっきまでの明るい表情を少し引き締めた。
「聖女の代わりはいないんだ」
その言葉に、私は口を閉じる。
「普通の治癒術師なら他にもいる。だが、君ほどの聖術を使える人間はいない。君一人が無理をして倒れれば、それだけ助けられなくなる命が増える」
「……はい」
「だから、自分の身体も大事にしてくれ。それも聖女としての役目だ」
「分かりました」
心配してくれているのだと思った。
私は平民だ。
一年前まで、こんな立派な人たちと言葉を交わすことすら想像していなかった。それなのに今では、王太子殿下も、騎士団長のご子息も、宰相家のご子息も、私の体調まで気にかけてくれている。
そのことが、ただ嬉しかった。
「明日は今日より魔王軍の勢力圏へ近づく」
アルベルト殿下が言った。
「朝の状態を見て、無理のない範囲で動いてもらう。いいな?」
「はい!」
「少しでも具合が悪ければ、すぐに言ってくれ。聖女である君の身体は、君一人だけの問題ではないのだから」
「ありがとうございます、殿下」
「では、今日はもう休め」
私は頭を下げた。
三人が去っていくのを見送りながら、胸の奥が少し温かくなる。
あの人たちは本当に優しい。
だから私も、その期待に応えたいと思った。
そうして自分の天幕へ戻ろうと一歩踏み出したところで、身体がふらりと傾いた。
「わっ」
慌てて近くの柱につかまる。
少しだけ目眩がした。
きっと寝れば治る。その程度に考えていた。
「何をしているんだ、平民」
聞きたくもない声がした。
私は柱につかまったまま、ゆっくり顔を上げる。
「……なんでいるんですか」
「それはこちらの台詞だ」
ルキウス・モブリウス。
今日、私が一番会いたくなかった人だ。
その後ろには、例の二人もいた。
「こんばんはでやんす」
ヤンス様がぺこりと頭を下げる。
「腹減ったでごわす」
ゴワス様は丸いパンを両手に一つずつ持っていた。
この人は、いつ見ても何かを食べている気がする。
「俺たちもこの辺りに天幕を張っている。それより、その状態で明日も出る気か?」
「出ますよ」
「なぜだ」
「なぜって……私は聖女ですし」
「それは知っている」
「殿下たちも、無理のない範囲でと言ってくださいました」
「無理のない範囲?」
ルキウス様の眉間に皺が寄った。
「お前、明日の朝には魔力がどの程度戻る」
「半分くらいだと思います」
「半分?」
「はい」
「それで戦場を歩き回るつもりか?」
「歩き回るって……私は治療をするだけです」
「今日、魔物に襲われただろう」
「それは……」
「しかも固まっていた」
「急だったんです!」
「戦場で魔物が予告してから襲ってくるとでも思っているのか!」
「うるさいです!」
「それはこちらの台詞だ!」
また始まった。
昨日からこの人と話すと、どうしてこうもすぐ喧嘩になるのだろう。
「お前、まともな戦闘訓練を受けていないだろう」
「学院に入ってから、少しは受けています」
「少し?」
「……少しですけど」
「それで前線をうろついていたのか」
「うろついてません!」
「今日うろついていただろうが!」
「殿下に頼まれて負傷者のところへ行ったんです!」
「それも聞いた!」
「なら文句は殿下に言ってください!」
「だから、俺が気に入らないのはそこではない!」
ルキウス様は苛立ったように言い切った。
「訓練もままならない平民が、戦場を当然のような顔で歩き回っているのが気に入らないと言っているんだ!」
「また平民!」
「平民だろう!」
「聖女です!」
「それは聖女であることと平民であることが両立しているだけだ!」
「そんな言い方あります!?」
「事実だ!」
本当に腹が立つ。
「私にだって力があります!」
「治癒の力だろう」
「攻撃魔術も使えます!」
「今日、間に合っていなかったではないか」
「……!」
痛いところを突かれた。
何も言えずにいる私へ、ルキウス様はさらに続ける。
「戦場では一度判断を誤れば死ぬ。学院で少し訓練を受けただけの人間が、それを理解したつもりになるな」
「分かっています」
「分かっていないから前に出たんだろう!」
「だから、殿下に頼まれたんです!」
「それでも危険なら止まれ!」
「王太子殿下の命令に逆らえって言うんですか!?」
「それは――」
「ルキウス」
声が響いた。
まただ。
ルキウス様の顔が、露骨に曇る。
振り返ると、アルベルト殿下が立っていた。先ほど別れたはずなので、何か用があって戻ってきたのだろう。
「殿下」
ルキウス様はすぐに姿勢を正した。
「またリリアに絡んでいるのか?」
「絡んでいるというほどではございません。ただ少々、意見の相違がありまして」
アルベルト殿下が私を見る。
「リリア、大丈夫か?」
「はい」
「体調ではなく、この男に何か言われていないかと聞いている」
「……平民って何度も言われました」
「なっ……!」
「事実です!」
殿下の眉が寄った。
「ルキウス」
「はい」
「前にも言ったはずだ。リリアは王国に選ばれた聖女だ」
「承知しております」
「なら、もう彼女に直接文句を言うな」
ルキウス様がわずかに目を細める。
「……文句、でございますか」
「ああ。聖女の扱いについて何か意見があるなら、次からは僕に直接言え」
「……」
「彼女を困らせるな」
「承知いたしました」
ルキウス様は静かに頭を下げた。
前のように慌てて取り繕うこともなく、そのまま一歩引く。
「分かったならいい」
「はい」
「リリア、君は休め」
「はい。ありがとうございます」
殿下はそれだけ言うと、その場を去っていった。
しばらく沈黙が続いた。
「……怒られましたね」
私が言うと、ルキウス様はこちらを睨む。
「いちいち言わなくても分かっている!」
「さっきまであんなに偉そうだったのに」
「相手は王太子殿下だぞ。子爵家三男が好き勝手に言える相手ではない!」
「でも、次から直接言えって言われましたよ」
「聞いていた!」
「言えるんですか?」
「……必要があれば言う」
「本当ですか?」
「しつこいぞ、平民!」
「また言った!」
「何度でも言う。お前が平民であることは変わらん!」
そこで、ゴワス様が最後のパンを口へ運ぼうとしているのが目に入った。
「ふう。これで腹も――」
「ゴワス」
「なんでごわす?」
「そのパン、まだあるか」
「あるでごわすよ。実家から昨日、食料が届いたでごわす」
「なら平民女に食わせてやれ」
「……私ですか?」
思わず自分を指さした。
「他に平民女がいるのか」
「言い方!」
「ゴワス。お前の実家からの仕送りだ。多少はまともなものが入っているだろう」
「干し肉とチーズと蜂蜜漬けの果物もあるでごわす」
「全部出せ」
「全部でごわすか!?」
ゴワス様が目を見開いた。
「戦場では常に物資が足りていない。お前だけ腹を満たそうとするな」
「う、手厳しいでごわすなぁ……」
「商家から爵位を得た家だからこそ、こういう時に物資を回すのも務めだろう」
「それを言われると何も返せないでごわす」
ゴワス様は肩を落としながら、大きな袋を私へ差し出した。
「ほいでごわす」
「い、いえ! そんな、悪いです!」
「受け取れ」
「でも、ゴワス様のご実家から送られたものですよね?」
「だからなんだ」
「だからなんだって……」
「お前、今日まともに食事を取ったのか?」
「……」
答えられなかった。
治療が忙しくて、まともな食事を取る時間なんてなかったからだ。
「やはり愚図ではないか!」
「なんでそうなるんですか!」
「魔力を使い切りかけて、食事もせず、それで明日も戦場へ出るつもりなのだろう? 愚図以外になんと呼べばいい!」
「もっと優しい言い方があるでしょう!」
「必要ない!」
「あります!」
「いいから食べろ!」
ゴワス様が困ったように、私とルキウス様を見比べた。
「ワイとしては、食べてもらって構わないでごわすよ。実家からまた届くでごわすし」
「ゴワス様……」
「ただ、蜂蜜漬けだけは一瓶残してほしいでごわす」
「駄目だ」
「ルキウス様!?」
「お前、今日だけでいくつ食べた」
「数えてないでごわす」
「では全部渡せ」
「鬼でごわす……」
隣でヤンス様が肩を震わせていた。
「ゴワス、諦めるでやんす。ルキウス様はこういうところだけ無駄に厳しいでやんす」
「こういうところだけとはなんだ!」
「貴族様らしいところでやんす」
「俺は常に貴族らしくしている!」
「今日、殿下にものすごく頭下げてたでやんす」
「ヤンス!」
「ひいっ、怒ったでやんす!」
私は渡された袋を抱えた。
ずっしりと重く、中からは焼いたパンと干し肉の香りがする。
「……ありがとうございます」
「俺に礼を言うな。ゴワスの家の金だ」
「ワイに言ってくれていいでごわすよ」
「ありがとうございます、ゴワス様」
「どういたしましてでごわす」
「それと」
ルキウス様がこちらを見る。
「食べたら寝ろ」
「分かっています」
「本当に分かっているのか?」
「分かっています!」
「ならいい」
相変わらず腹の立つ言い方だ。
けれど、さすがに食料をもらっておいて怒鳴り続ける気にもなれなかった。
「では、もういいですか。私、寝ますから」
「ああ。そうしろ」
天幕へ向かいかけたところで、私は少しだけ足を止めた。
「……ルキウス様は、平民が戦場にいるのがそんなに嫌なんですか?」
「嫌だ」
即答だった。
「貴族は違うんですか?」
「少なくとも俺たちは、そういう教育を受ける」
ルキウス様は腰の剣へ手を置いた。
「領地を守ることも、戦になれば兵を率いることも、貴族に生まれた以上は責務の一つだ。だから剣も習う。魔術も学ぶ。少なくとも、俺はそう教えられてきた」
「私は学院で少し訓練を受けました」
「少し、だろう」
「……はい」
「それで十分なはずがない」
その言い方には、私を馬鹿にするような響きがなかった。
「お前は聖女かもしれない。だが兵士ではない。戦場で生き残るための教育も、訓練も足りていない。それなのに、力があるというだけで前へ出されている」
「前へ出されているなんて――」
「今日、お前を負傷兵のところへ向かわせたのは殿下だったのだろう?」
「……そうです」
「なら、俺から言うことはない」
「ないんですか?」
「殿下には殿下のお考えがある」
あまりにもあっさりした答えだった。
「でも、納得してない顔をしています」
「納得はしていない」
「じゃあ――」
「だからといって、俺が王太子殿下より偉くなるわけではないだろう」
ルキウス様は当然のことを言うように続けた。
「身分には身分の秩序がある。それを無視して好き勝手に振る舞うことを、勇敢とは呼ばん」
「……」
「意見を聞いてもらえないなら、それは今の俺に聞かせるだけの価値がないということだ」
「悔しくないんですか?」
「悔しいに決まっている」
意外なほど素直な答えだった。
「なら、どうするんです?」
「決まっている」
ルキウス様は腰の剣を軽く叩いた。
「聞かせられる人間になる」
「……どうやって?」
「強くなる。実績を作る。役に立つ。それだけだ」
ずいぶん単純な答えだった。
「貴族様は、結果を出してこそだからな」
「自分で貴族様って言うんですね」
「悪いか」
「ちょっと変です」
「うるさい!」
やっぱり腹が立つ。
私は食料の入った袋を抱え直して、今度こそ天幕へ向かった。
入口へ手をかけたところで、後ろからヤンス様の声が聞こえる。
「ルキウス様、もう寝ないんでやんすか?」
「お前たちは寝ても構わん」
「ルキウス様は?」
「訓練してくる」
「今からでやんす!?」
「今日戦ったばかりでごわすよ!」
「だからだ」
思わず振り返る。
ルキウス様はすでに剣を抜いていた。
「今日の俺では、あの程度の魔物を倒すのにも手間取った」
「手間取ってたでやんすか?」
「俺の中ではな」
「厳しいでごわすなあ」
「それに、ヤンス」
「なんでやんす?」
「お前は索敵だ」
「あっしもやるんでやんすか!?」
「当然だ。今日、お前は俺より先に二度魔物を見つけた」
「……褒められたでやんす!」
「そこで満足するな。お前は足も速い。索敵と伝令を覚えろ」
「分かったでやんす!」
次に、ルキウス様はゴワス様を見る。
「ゴワス」
「嫌な予感しかしないでごわす」
「盾を持て」
「やっぱりでごわす!」
「今日、オーガの突進を止めただろう」
「止めたでごわす」
「なら、それがお前の長所だ。もっと伸ばせ」
「……褒められたでごわす!」
「お前たちは本当に単純だな!」
三人は騒ぎながら、訓練場の方へ歩いていった。
私は腕の中の袋へ目を落とす。
パン、干し肉、チーズ、蜂蜜漬けの果物。私が今日食べたものより、ずっと豪華だ。
ゴワス様のものを取ってしまったようで申し訳ないけれど、今さら返しに行けば、また愚図と呼ばれる気がする。
「……変な人」
ルキウス・モブリウスは、口が悪くて、態度も悪い。平民、平民とうるさいし、私のことを愚図と呼ぶ。王太子殿下には逆らわないくせに、納得できないことがあれば一応は口にする。
そして、自分の意見を聞いてもらえなかったからといって、相手を恨んだりはしない。
だったら自分が変わる。
強くなって、実績を作って、無視できない人間になる。
ずいぶん面倒な考え方だ。
そのうえ、人のお腹を心配するなら普通にそう言えばいいのに、わざわざゴワス様を叱って食料を押しつけてくる。
「やっぱり嫌いです」
そう呟いて、私は天幕の中へ入った。
嫌いなのは本当だ。
少なくとも、そのはずだった。
けれど昨夜までと違って、ルキウス・モブリウスという人間を「ただ嫌な貴族」とだけ片づけることが、少しだけ難しくなっていた。




