戦場の聖女と、最悪な貴族様
魔王軍の兵士が、目の前で吹き飛んだ。
黒い鎧をまとった巨体が地面を二度、三度と跳ね、崩れかけた石壁へ叩きつけられる。人間より一回りも大きな身体が動かなくなったのを確認すると、金色の髪をなびかせた青年は剣についた黒い血を振り払った。
「リリア! 無事か!」
グランディア王国第一王子、アルベルト・ルミナス・グランディア殿下だ。
金髪碧眼に長身、整った顔立ち。王位継承第一位という肩書きだけでも十分すぎるのに、剣術まで王立学院で上位に入る腕前を持っている。
学院では、アルベルト殿下と、その側近であるセドリック様、ラインハルト様の三人を、誰が呼び始めたのか《華の御三家》などと呼ぶ生徒までいた。
たしかに、そう呼びたくなる気持ちは分かる。
私にとっては雲の上の人たちだ。
一年前まで孤児院で暮らしていた平民の私が、少しくらい背伸びをしたところで届くような相手ではない。
「私は大丈夫です!」
「そうか。ならよかった」
アルベルト殿下は私の返事を聞くと、安心したように笑った。
その直後にはもう表情を切り替え、再び戦場へ向き直っている。
「殿下! 左翼から追加です!」
別の声が上がった。
声の主はラインハルト・シュヴァルツ様。王国騎士団長の嫡男であり、王立学院剣術大会の優勝者でもある。
白銀の鎧をまとったラインハルト様が大剣を横薙ぎにすると、迫っていた魔族兵がまとめて吹き飛んだ。
「ここは俺が抑える! リリアは後方を頼む!」
「はい!」
「安心しろ! そっちへは一匹も通さない!」
力強く笑い、そのまま敵陣へ飛び込んでいく。
頼もしい人だ。
剣を振るうラインハルト様の背中を見ていると、戦場にいる自分の方が場違いなのではないかと思えてしまう。
「第三班、後退してください! 魔術隊は第二列へ。殿下、十二秒後に正面を空けます!」
少し離れた丘の上では、セドリック・ローゼンベルク様が戦場全体を見渡していた。
王国宰相の嫡男にして、王立学院筆記試験三年連続首席。細身で銀色の髪を持つセドリック様は、剣よりも魔術と指揮を得意としている。
「リリアさん。負傷者を三名、そちらへ送ります」
「分かりました!」
「重傷者を優先してください。軽傷者には自力で後退させます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、担架が運び込まれてきた。
一人は肩を深く裂かれ、一人は脚を負傷している。最後の一人は鎧の腹部が大きくへこみ、呼吸も浅かった。
「すぐ治します!」
私は膝をつき、両手をかざす。
胸の奥から温かなものがあふれ、それが光となって指先から広がっていった。
「お願い……!」
淡い光が兵士の身体を包み込む。
この力が目覚めたのは、一年前のことだった。
それまでの私は、王都の片隅にある孤児院で暮らす、どこにでもいる平民だった。両親の顔も知らず、特別な教育を受けたこともない。魔術なんてものは、貴族様や一部の才能ある人たちが使うものだと思っていた。
ところが十五歳になった春、孤児院を訪れた神官様の前で祈りを捧げたところ、礼拝堂いっぱいに光があふれた。
聖属性。
それも、何十年も確認されていなかったほど強力な治癒能力。
その日を境に、私の人生はまるで別のものになった。
王立学院への編入が決まり、読み書きから礼儀作法、歴史、魔術理論まで、毎日頭がおかしくなりそうなほど勉強した。
最初は本当に大変だった。
貴族の子ばかりが集まる教室で、孤児院育ちの自分だけが場違いに思えて仕方がなかったからだ。
そんな私にも、アルベルト殿下は分け隔てなく接してくれた。セドリック様は授業で分からないところを教えてくれたし、ラインハルト様は何か困っていると、いつも笑って手を貸してくれた。
だからといって、私とあの人たちが同じ世界の人間になったわけではない。
王子様と平民。
宰相家の御曹司と孤児院育ちの娘。
騎士団長の嫡男と、つい最近まで礼儀作法すら知らなかった少女。
少し優しくしてもらったからといって、勘違いしてはいけない。学院にいた頃から、そこだけは自分に言い聞かせていた。
そんな学園生活も、今ではずいぶん遠い昔のことのように感じる。
魔王軍が国境を越えたのは、半年前だった。
最初は辺境での小競り合いだと聞かされていた。すぐに騎士団が鎮圧するだろうと、学院の先生方も話していた。
けれど、一か月経っても二か月経っても、魔王軍の侵攻は止まらなかった。
そして三か月前。
王立学院の高学年からも、実戦に耐えられる生徒が後方支援や警備へ動員されることになった。
私も、その中に含まれていた。
理由は単純だ。
聖女だから。
治癒魔術を使える人間は、それだけで戦場では貴重らしい。特に私のような強い聖属性を持つ者は、王太子預かりの部隊に編成され、必要に応じて各所の負傷者を治療する役目を与えられた。
「……よし」
へこんでいた兵士の鎧が少しずつ持ち上がり、呼吸も安定していく。
「ありがとうございます、聖女様……」
「喋らないでください。もう大丈夫ですから」
そう答えた瞬間、前方からアルベルト殿下の声が響いた。
「リリア!」
顔を上げると、戦場の中央に巨大な魔族が現れていた。
牛のような角を生やし、人間の胴ほどもある腕には巨大な戦斧を握っている。
「オオオオオオオオッ!」
咆哮だけで空気が震えた。
「オーガジェネラルです!」
セドリック様が叫ぶ。
「ラインハルト、正面!」
「任せろ!」
ラインハルト様が地面を蹴り、真正面から飛び込んだ。
振り下ろされた戦斧を大剣で受け止め、凄まじい轟音と共に足元の地面が砕ける。
「ぐっ……!」
「ラインハルト様!」
「大丈夫だ!」
ラインハルト様が敵を押し留めている間に、アルベルト殿下が横から踏み込んだ。金色の魔力をまとった剣が、オーガジェネラルの脇腹を深く切り裂く。
「セドリック!」
「準備できています!」
セドリック様が杖を掲げると、地面から幾重もの魔力の鎖が伸び、巨体を拘束した。
「リリアさん!」
「はい!」
言われなくても分かった。
治癒だけが、聖属性の力ではない。
私は両手を胸の前で組み、残っている魔力を一気に引き出した。
「聖なる光よ――!」
まばゆい光が集まり、一つの槍へと形を変えていく。
「《ホーリーランス》!」
光の槍が飛んだ。
セドリック様の拘束、ラインハルト様の足止め、アルベルト殿下がつけた傷。三人が作ってくれた隙を縫うように、私の魔術が巨体へ突き刺さる。
「グオオオオオオオオッ!」
オーガジェネラルが絶叫し、その身体が光に飲み込まれていった。
やがて巨体が地響きを立てて倒れると、一瞬の静寂のあと、周囲から歓声が上がった。
「やったぞ!」
「オーガジェネラルを倒した!」
「殿下!」
「聖女様!」
私はようやく大きく息を吐いた。
今さらになって膝が震えている。
「リリア」
アルベルト殿下がこちらへ歩いてきた。
「よくやった」
「ありがとうございます」
「君の聖術がなければ、もう少し苦戦していただろう」
「皆さんが動きを止めてくださったからです」
「それでもだ」
アルベルト殿下は満足そうに頷いた。
その向こうから、ラインハルト様もやって来る。
「見事だったぞ、リリア!」
「ラインハルト様も……お怪我は?」
「こんなの傷のうちに入らない!」
「あとで診せてくださいね」
「ああ、頼む!」
「ですが、その前にこちらを」
セドリック様が周囲の状況を確認しながら言った。
「第五班の損耗が大きいです。リリアさんは休息の前に、そちらの治療をお願いします」
「はい」
私は素直に頷いた。
当然のことだと思った。
私がここにいるのは、怪我をした人を治すためなのだから。
三人とも、本当に優秀な人たちだ。
剣を振れば敵を倒し、指示を出せば兵が動き、私の力が必要になれば迷わず声をかけてくれる。
学院で《華の御三家》と呼ばれていたのも当然だろう。きっと、この先もこの三人は国を支える側に立つ人たちなのだ。
私は違う。
ただ、今の自分にできることをすればいい。
「殿下! 前方に負傷者です!」
兵士の声が上がった。
アルベルト殿下が振り向く。
崩れた防壁の向こう、戦線から少し突き出た場所に、一人の兵士が倒れていた。
「まだ生きているか?」
「動いています!」
アルベルト殿下はすぐに私を見た。
「リリア。頼めるか?」
「はい!」
反射的に答え、私は駆け出した。
怖くないわけではない。
少し前まで、あの辺りにも魔族がいた。今も完全に掃討できているとは限らない。
それでも、アルベルト殿下が私に任せてくれたのだ。
私なら助けられる。
だったら行くべきだと思った。
「待っていてください!」
倒れている兵士へ向かって走る。
あと少し。
手を伸ばせば届く。
そう思った時だった。
「おい、平民!」
ものすごく不愉快な声がした。
思わず足を止める。
「……え?」
「聞こえなかったのか! 下がれ、平民!」
横から一人の男子生徒が歩いてきた。
黒に近い濃紺の髪に、制服の上から簡素な革鎧を身につけている。右手には剣を握り、見るからに不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。
顔立ち自体は悪くない。
むしろ整っている方だと思う。
けれど、眉間に深く皺を寄せた表情が、その長所をすべて台無しにしていた。
「なんで貴様みたいな平民が、こんな前線まで出てきてるんだ!」
「怪我人がいるんです!」
「見れば分かる!」
「だったら邪魔しないでください!」
「だから下がれと言っている!」
「嫌です!」
私は再び走り出した。
倒れている兵士まで、あと十歩ほど。
手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
瓦礫の陰から黒い影が飛び出した。
「――え」
魔物だった。
小型とはいえ、人間の胸ほどの高さがある獣型の魔物が、血のついた牙を剥き出しにして私へ飛びかかってくる。
攻撃魔術を使わなければ。
頭では分かっていた。
私にだって攻撃する力はある。
けれど、あまりにも近かった。
身体が動かなかった。
「だから言っただろうが!」
怒鳴り声が響く。
次の瞬間、私の横を誰かが駆け抜けた。
銀色の光が一閃する。
「ギャッ!」
魔物の身体が横へ吹き飛び、地面を滑った。
それでも立ち上がろうとした魔物へ、男子生徒が一気に距離を詰める。
一太刀。
それだけだった。
剣が魔物の首を斬り落とす。
思っていたより、ずっと速い剣だった。
けれど、そんなことを考えている余裕はなかった。
私は尻もちをついたまま、呆然とその男を見上げた。
男子生徒は剣についた血を振り払い、露骨な苛立ちを浮かべてこちらを睨む。
「だから言っただろう、平民が!」
「……」
「戦闘訓練もまともに受けていないくせに、前へ出るな!」
「でも、私は――」
「いや」
男は途中で言葉を切った。
一瞬だけ考えるような顔をしたので、少しは言い方を改めるのかと思った。
「もう一度言わないと分からないようだから、言ってやる」
「……え?」
「愚図が!」
わざわざ悪化した。
「なっ……!」
「余計なことをして死にかけているんじゃない! この程度も分からないのか!」
「余計なことって……!」
「そうだ!」
「私は怪我人を助けようと――!」
「だから、それを兵士に任せろと言っている!」
「私は聖女です!」
「知っている!」
「だったら!」
「聖女だろうがなんだろうが、平民は平民だろうが!」
耳を疑った。
この人、今なんて言ったのだろう。
「学院で少し習った程度の人間が勝手に前へ出るな! 邪魔だ!」
「邪魔……?」
「そう言っている!」
最低だ。
本当に、最低だった。
学院に入ってから、身分の違いを感じたことがなかったわけではない。陰で何かを言われたこともあるし、礼儀を知らないと笑われたこともあった。
それでも、ここまで真正面から何度も「平民」と呼ばれたのは初めてだった。
「ルキウス様!」
そこへ、小柄な男子生徒が駆け寄ってきた。
前歯が妙に目立っている。
「まだ二匹いるでやんす!」
「場所は!」
「右の瓦礫、その奥でやんす!」
「ゴワス!」
「分かったでごわす!」
今度は、とても大きな男子生徒が走ってきた。
横にも縦にも大きな身体に分厚い鎧を着込み、巨大な盾を抱えている。
「ワイが前に出るでごわす!」
「ヤンスは右を見ろ!」
「了解でやんす!」
二人が動くのと同時に、濃紺の髪の男も剣を構えた。
先ほどまで私に向けられていた苛立ちが、そのまま魔物へ向けられる。
「来るぞ!」
瓦礫から二匹の魔物が飛び出した。
ゴワスと呼ばれた大男が、大盾で一匹を正面から受け止める。
「ぬおおおおおっ! 重いでごわす!」
「押し返せ!」
「やるでごわす!」
盾が前へ押し出され、魔物の身体が浮いた。
「今でやんす!」
「分かっている!」
男の剣が走る。
一匹目を斬り伏せ、そのまま二匹目へ。
華麗とは言い難かった。
アルベルト殿下のように魔力が輝くわけでもなく、ラインハルト様のように一撃で敵を吹き飛ばすわけでもない。
それでも三人は、それぞれの役目を果たしながら魔物を倒していった。
「負傷者は?」
「ワイが運ぶでごわす!」
「頼む!」
ゴワス様が、私の助けようとしていた兵士を抱え上げる。
「後ろまで運んだら治療させろ」
「了解でごわす!」
「ヤンス、まだ近くにいないか確認しろ!」
「あいあいでやんす!」
それから男は、もう一度こちらを見た。
「お前も下がれ」
「……」
「聞こえなかったのか、平民」
「聞こえてます!」
「なら――」
「ルキウス!」
戦場に鋭い声が響いた。
男の口が止まる。
アルベルト殿下だった。
これまで見たことのないほど険しい表情で、こちらへ歩いてくる。
「……これはこれは、殿下」
さっきまでの勢いはどこへ行ったのだろう。
男はものすごい速さで頭を下げた。
「今、リリアになんと言った?」
「はて」
「聞こえなかったと思っているのか?」
「いやいやいや! そのようなつもりではございません!」
へこへこしている。
ついさっきまで、私にはあれほど偉そうだったのに。
「僕には『愚図』と聞こえた」
「……気のせいでは?」
「ルキウス」
アルベルト殿下の声が一段低くなった。
「僕を愚弄する気か?」
「とんでもございません!」
男はさらに深く頭を下げた。
「俺はですね、ただ危険な場所ですので後方へ下がっていただいた方がよろしいのではないかと、そう申し上げていただけでして」
「リリアにあの負傷兵の治療を頼んだのは僕だ」
一瞬だった。
本当に一瞬だけ。
男の顔から、へらへらとした笑みが消えた。
「……殿下が?」
「ああ」
「左様でございましたか」
それだけ聞くと、すぐに元の取り繕った表情へ戻った。
「では、俺から申し上げることは何もございません!」
「リリアは王国に選ばれた聖女だ。身分にかかわらず、相応の敬意を払え」
「はい。仰せの通りでございます」
「二度と彼女を侮辱するな」
「承知いたしました!」
見事なまでの引き下がり方だった。
あまりにもあっさりしている。
さっきまでの威勢はなんだったのだろう。
「名前は?」
思わず私が聞いた。
男がこちらを見る。
「ルキウス・モブリウス。子爵家三男だ」
「そうですか」
「なんだ、その顔は」
「覚えました」
「勝手にしろ」
「二度と忘れませんから」
「それは光栄だな、平――」
アルベルト殿下が睨む。
「……聖女様」
ものすごく嫌そうに言い直した。
「ルキウス様! また向こうから来るでやんす!」
「分かっている!」
「ワイ、盾をさっきのところに置いてきたでごわす!」
「なんでだ!」
「負傷者を両手で運んだ方が早かったでごわす!」
「取りに戻れ!」
「分かったでごわす!」
三人は騒ぎながら走っていった。
私は、その背中をしばらく呆然と見送った。
「気にするな、リリア」
アルベルト殿下が言った。
「ああいう人間もいる」
「……はい」
「君の価値は身分で決まるものではない」
優しい言葉だった。
さっきまで煮え立っていた気持ちが、少しだけほどけていく。
「ありがとうございます」
「それより、治療を頼む。後送された兵士が待っている」
「はい!」
私は頷いた。
そうだ。
今はルキウス様に腹を立てている場合ではない。
私には私の役目がある。
治せる人を治す。
そのために私はここへ来たのだから。
後方へ戻る途中、もう一度だけ振り返った。
ルキウス・モブリウス。
子爵家三男。
偉そうで、口が悪くて、平民、平民とうるさい。私を愚図とまで呼んだくせに、王子殿下に注意された途端、あっさり頭を下げる情けない男。
一年前から同じ学院に通っているというのに、どうして今までまともに関わらずに済んでいたのだろう。
できることなら、このまま二度と関わりたくない。
心の底から、そう思った。
けれど翌日には、私はまたルキウス・モブリウスと言い争うことになる。
そしてこの時の私はまだ知らなかった。
あれほど腹立たしく聞こえた「平民」という言葉の意味を、いつか自分がまったく違う形で受け取ることになるなんて。




