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義妹の病を癒していたのは、私でした 〜離縁の翌日から、奇跡は止まりました〜  作者: 秋月 もみじ


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第9話 貴族院、君なら分かってくれない


 貴族院の朝、私は四年前に作った扇を一度も開かないまま、傍聴席に座っていた。


 嫁いだ年の秋、夫からの誕生日の贈り物だった扇だった。象牙の骨に、白い羽根を貼り合わせた、簡素ではあるが品の良い品。社交の場では使い慣れた扇のうちの一つだった。今朝、パッリーニ家を出る前に、何の扇を持っていくか迷って、結局これにした。理由は自分でも分からなかった。


 貴族院の議場は、王宮の東翼にあった。


 半円形の議場で、中央に発言台、それを囲むように三段の階段席があった。一段目に貴族院議員席、二段目に証人席、三段目が傍聴席。傍聴席には、すでに七十名ほどの方が座っておられた。


 私は、証人席の最前列にいた。


 神官長セレディウス様が、私の左隣に座っておられた。父も、私の右隣にいた。マルガレーテ様の席は、私たちから二列離れた場所にあった。直接、目を合わせる位置ではなかった。けれど、私が振り向けば、視界には入る位置だった。


 マルガレーテ様は、屋敷でお見かけしていた時よりも、痩せておられた。十日の間に、食事を充分に召し上がっていない顔の色だった。それでも背筋は、まっすぐだった。


 議場の奥の扉が、ゆっくりと開いた。


 王宮監察使様が、入ってこられた。


 白い髪を後ろに撫でつけた、五十代の方だった。長い法服の裾を、お一人で歩きながら、引きずられている。発言台の中央に、座られた。


「本日、貴族院の正式な公開審問を、開廷いたします」


 王宮監察使様の声は、低く、よく通った。


「審問の対象は、ロッシュフォール侯爵家における、歴史的契約違反、ならびに神殿への正式書状の受領拒否、ならびに領内の井戸涸れと疫病兆候に関する、当主の不作為の認定にございます」


 議場の中の貴族院議員の方々が、静かに頷かれた。傍聴席からは、衣擦れの音と、扇を膝の上に置く音だけが聞こえた。


「証人として、ロッシュフォール先代侯爵夫人マルガレーテ様、神官長セレディウス・ヴァローネ様、パッリーニ卿アルベール・パッリーニ様、ならびに、エマ・パッリーニ嬢のご出席を、確認いたします」


 名前を呼ばれるたびに、私たちは、軽く立ち上がって応じた。


 最後に名前を呼ばれた時、私は立ち上がりながら、自分の名が、もう「ロッシュフォール」ではなく「パッリーニ」と呼ばれることを、改めて受け止めた。離縁の手続きから、すでに一月以上が経っていた。けれど、公の場で「パッリーニ嬢」と呼ばれたのは、私にとっては、その日が初めてだった。


「被審問者として、ロッシュフォール侯爵ウィルフリード・ロッシュフォール様のご出席を、確認いたします」


 議場の右側の扉が、開いた。


 夫が、お一人で入ってこられた。


 供を連れずに、お一人で議場に入る。それは、被審問者として、当然の作法だった。けれど、夫が議場の中央を、お一人で歩く姿は、四年余り、屋敷でお見かけしていた方とは、別の方のように見えた。


 夫は、被審問者の席についた。


 その席は、議場の中央の、王宮監察使様の正面の席だった。


 夫は、議場の中を一度、見回された。傍聴席の方々の中に、知り合いを探しておられる視線だった。けれど、傍聴席の貴族の方々は、誰一人として、夫の方に、視線を返されなかった。


 夫の視線が、最後に、私の方に止まった。


 私は、視線を逸らさずに、夫の方を見ていた。


 夫が、唇を、ほんのわずかに開かれた。けれど、何も仰らずに、夫は、視線を下げられた。



 審問は、王宮監察使様による事実関係の説明から、始まった。


 ロッシュフォール家とパッリーニ家の、四十年前の契約。先代侯爵様の遺品から発見された、契約書とその傍書。神殿から、エマ・パッリーニ嬢宛てに四年余りの間に三度送られ、いずれも侯爵家の文箱で開封されないまま放置されていた、神殿の正式書状。領内の井戸の水位低下、子どもたちの発熱、商人組合の取引控え。これらが、十日前の神殿の上奏と、王宮監察使様の予備調査によって、明らかになった事実として、淡々と読み上げられた。


 読み上げが終わると、王宮監察使様は、顔を上げられた。


「ロッシュフォール侯爵」


 はい、と夫が、低く答えられた。


「先代侯爵様の傍書に、嫡男であるあなた様に契約のことを口頭で伝達されたとの、ご自筆の記載がございます。この記載について、ご異存はございますか」


 夫は、すぐには答えられなかった。


「お父上の筆跡を、ご確認いただいた書面でございます。筆跡について、ご異存はおありですか」


「……ございません」


 夫の声は、いつもよりずっと低かった。


「では、お父上から、契約のことを、口頭でお聞きになった事実をお認めになりますね」


「……はい」


 議場の中で、傍聴席の方々の扇が、いくつか動いた。


 ご存じだった、と夫はお認めになった。


 その一言で、議場の空気が、変わった。


 屋敷を出る前、お父上の傍書を見せられて、それでも「迷信」と仰ったことを、夫はこの場で、お認めになるかどうか。それが、これからの、最大の焦点だった。



「次に、マルガレーテ様」


 王宮監察使様が、マルガレーテ様の方に、視線を向けられた。


「ご証言を、お願い申し上げます」


 マルガレーテ様は、静かに立ち上がられた。


 発言台の前まで、ゆっくりと歩いてこられた。ショールは、屋敷の紋を縫い込んだものではなかった。喪服のような、深い灰色の生地に、銀の月の刺繍が、控えめに襟元にあるだけのものだった。


 マルガレーテ様は、発言台の前で、深く頭を下げられた。


「ロッシュフォール先代侯爵夫人、マルガレーテ・ロッシュフォールでございます」


 マルガレーテ様の声は、震えなかった。


 ご自分の口から、話すべきことを、もう、何度も頭の中で確かめてこられた声だった。


「先月の中頃、私は、亡き夫の遺品を整理しておりました。書斎の奥の引き出しの中に、四十年前の契約書の写しを発見いたしました。本文は、先代侯爵家とパッリーニ家との契約。本文の末尾に、別の筆跡で、傍書が一行、添えられておりました」


 マルガレーテ様は、ゆっくりと息を整えられた。


「『嫡男ウィルフリードへ口頭にて伝達済』」


 その一行を、マルガレーテ様は、ご自分の声で、議場に読み上げられた。


 夫が、顔をわずかに、下げられた。


「夫の自筆でございました。夫は、亡くなる三年前に、嫡男のウィルフリードに、契約のことを口頭で伝えておられたのでございます。その記録を、ご自身の手で、契約書に、遺しておられたのでございます」


 マルガレーテ様の声は、淡々としていた。


「私は、書面を発見いたしました翌日、息子のもとを訪ねました。書斎で、私は、息子に、傍書を見せました。そして、申し上げました。お父様が、お前に契約のことを伝えていらしたはずです。お前は、それをご存知のはずです、と」


 議場の中の、扇の動きが、止まった。


「息子は、私に、こう答えました」


 マルガレーテ様は、夫の方を、ご覧になった。


 四年余り、屋敷で育てられた息子を、マルガレーテ様は、ご自分の目で、はっきりと、見つめられた。


「『母上、迷信ですよ。妹を諦めるくらいなら、迷信ということにしてください』」


 議場が、凍った。


 誰の扇も、誰の手も、誰の声も、その瞬間に動かなかった。


 夫の口が、わずかに開いた。


「母上……」


 その声は、夫が議場の中で、初めて、父上や母上を呼ぶ時の、若い声に戻っていた。屋敷で「君なら分かってくれる」と仰っていた時の、社交の場の声では、なかった。


 マルガレーテ様は、夫の方を、見続けられた。


 けれど、答えにはならなかった。


 マルガレーテ様の視線は、息子の目を、まっすぐに見据えておられた。その目には、もう、屋敷で「いい加減になさい」と叱責された時の、抑えた怒りも、十日前に神殿の応接間で見せられた、涙も、なかった。


 ただ、長く奥方の地位にあった方が、ご自分の家門のために、最後まで線を引かれる時の、揺るぎなさが、お一人の母として、息子に向けられていた。


「以上が、私の証言でございます」


 マルガレーテ様は、王宮監察使様の方に、向き直られた。


 深く頭を下げて、発言台を、降りられた。


 席に戻られる途中で、マルガレーテ様は、一度も、夫の方を、振り返られなかった。



「ロッシュフォール侯爵」


 王宮監察使様が、夫の方に、視線を戻された。


「マルガレーテ様の証言について、ご異存はおありでしょうか」


 夫は、すぐに、返答にならなかった。


 夫の指が、被審問者の席の縁を、ゆっくりと撫でた。撫でる動きの最中に、夫は、議場の中を、もう一度、見回された。


 誰も、夫の方に、視線を返されなかった。


 傍聴席の貴族の方々の中には、夫の友人として知られた方も、おられたはずだった。屋敷の夜会で、何度かお見かけした顔も、議場には来ておられた。けれど、その方々も、夫の方に、目を合わされなかった。


「……母の証言に、異存は、ございません」


 夫は、低く答えられた。


「ご証言の通り、契約のことを、お父上から伺っておりました。母上から、傍書を見せられたのも、その通りでございます」


「お母上の前で、『妹を諦めるくらいなら、迷信ということにしてくれ』と仰ったことも、お認めになりますね」


 夫の顔から、また、血の気が引いた。


「……はい」


 お認めになる、と夫は仰った。


 議場の中で、貴族院議員の方々の数名が、深く頷かれた。傍聴席からは、扇を膝に置かれる音が、いくつか、続いた。


 お認めになる、というその一言が、夫の家門の道を、その日のうちに、変えてしまった。



「次の証人」


 王宮監察使様の声で、議場の左側の扉が、もう一度、開いた。


 リリーシュ様が、お一人で、入ってこられた。


 義妹の姿を、私は、嫁いだ年から、ずっと拝見してきた。屋敷では、いつも、誰かに付き添われていた。侍女、医師、夫、私。お一人で長い距離を歩かれる姿を、私は、見たことがなかった。


 その日、リリーシュ様は、お一人で議場の中央まで、歩いてこられた。


 体は、まだお細かった。けれど、頬の色は、屋敷でお見かけしていた頃よりも、わずかに戻っておられた。神殿に保護されてから、十日が経っていた。その間に、神殿の医師の方の手当てを受けて、リリーシュ様のご体調は、少しずつ、本来の虚弱さの範囲に、戻り始めておられた。


「リリーシュ・ロッシュフォール、と申します」


 リリーシュ様は、発言台の前で、ご自分の名前を、はっきりと、名乗られた。


 屋敷で「お姉様」と私を呼ばれた時の、甘えた声では、なかった。


「神殿の保護下にあった十日の間に、私は、これまで申し上げられなかったことを、頭の中で、繰り返してまいりました」


 リリーシュ様の声は、ゆっくりとしていた。


 言葉を選びながら、お話しになっていた。


「本日、お話を申し上げます」


 リリーシュ様は、議場の中の、夫の方を、ご覧になった。


「お兄様」


 夫が、顔を上げられた。


「私は……お兄様の、盾になっておりました」


 リリーシュ様は、一度、息を整えられた。次の言葉が、すぐには出てこなかった。


「お兄様は、私のために、と、いつも仰いました。お茶会の席のことも、観劇のお約束のことも、贈り物のことも。私は、それを、当たり前のように、受けてまいりました」


 リリーシュ様の声が、わずかに揺れた。


「神殿で、十日……考えました。私は、本当に、お兄様にとって、それほど大切だったのでしょうか」


 リリーシュ様は、そこで、しばらく沈黙された。


 言葉を、お探しになっておられた。神殿で十日、頭の中で繰り返してこられたお話を、議場の場で、ご自分の口にのせるのは、十九歳の方には、思っていたよりも、難しいことだった。


「もし、本当に、私のためだったのなら……お兄様は、もっと、別のやり方を、お選びになれたはずです。私を、屋敷の中に閉じ込めるのではなく、もっと早くに、神殿に連れてきてくださることも、できたはずでございます」


 リリーシュ様は、もう一度、息を整えられた。


「お兄様、お願いがございます」


 はい、と夫が、低く答えられた。


「私を、もう、盾になさらないでくださいませ」


 その一言で、議場の中の空気が、もう一度、変わった。


「私は、お兄様が思っておられたほど、弱くは、ございませんでした。お屋敷で、お姉様にお守りいただいていたから、穏やかにいられたのです。それを、私のせい、ということに、しないでくださいませ」


 夫が、席で、顔を伏せられた。


 リリーシュ様は、王宮監察使様の方に、向き直られた。


「王宮監察使様。私、リリーシュ・ロッシュフォールは、本日をもって、侯爵令妹の身分を、ご返上いたします」


 議場が、再び、凍った。


「神殿の修練者として、神官長セレディウス様のもとで、育てていただきたく、ご請願申し上げます」


 神官長が、私の隣で、軽く頷かれた。


 リリーシュ様の請願は、すでに、神殿と王宮の間で、内々に話し合われていた話だった。けれど、議場で、ご自分の口から、ご返上を、申し出になるところまで、リリーシュ様は、決めておられた。


「ご請願は、承りました」


 王宮監察使様は、頷かれた。


「神殿との正式な手続きを経て、本日付で、リリーシュ・ロッシュフォール嬢の侯爵令妹の身分は、ご返上とさせていただきます。これより、神殿の修練者として、お暮らしくださいませ」


 はい、とリリーシュ様は、お答えになった。


 席に戻られる前に、リリーシュ様は、もう一度、夫の方を、ご覧になった。


「お兄様」


 夫が、顔を上げられた。


「お元気で」


 その別れの言葉を、リリーシュ様は、ご自分の声で、おっしゃった。


 屋敷で「お兄様」と呼んでおられた声と、同じ声だった。けれどその声には、もう、屋敷の頃の甘さは、なかった。


 夫が、何かを答えようとされる前に、リリーシュ様は、発言台を降りられた。席に戻られて、座られる時、リリーシュ様の指が、わずかに、震えた。それでも、リリーシュ様は、姿勢を崩されなかった。



「では、エマ・パッリーニ嬢」


 王宮監察使様が、私の方に、視線を向けられた。


「ご証言を、お願い申し上げます」


 私は、立ち上がった。


 発言台までの距離は、十歩ほどだった。


 その十歩を、私は、ゆっくりと、歩いた。


 発言台の前に立つと、議場の全体が、見渡せた。


 貴族院議員の方々の顔、王宮監察使様の真剣な目、傍聴席の貴族の方々の沈黙、神官長セレディウス様の、私を見守る視線。父の顔。マルガレーテ様の、横顔。そして、夫の顔。


 夫が、私の方を、見ておられた。


 その目には、もう、何の余裕も、なかった。


 私は、深く頭を下げた。


「エマ・パッリーニ、と申します」


 私の声は、震えなかった。


「四年余りの間に、私が屋敷で見聞きしたことについて、申し上げます。長くは、お話し申し上げません。短く、申し上げます」


 貴族院議員の方々が、軽く頷かれた。


「私が嫁いだ年から、夫は、義妹のリリーシュ様を、ご自分の優先順位の最上位に置き続けてこられました。茶会の隣席、観劇の約束、贈り物の順序、社交の場の同伴者、家族の食卓の席、すべて、リリーシュ様が、私より、先に決まっておりました」


 私は、議場の中を、もう一度、見渡した。


「私は、四年余り、これを耐えてまいりました。けれど、それは、私が義妹のリリーシュ様の体調を案じていたからでございます。先月、契約のことを、神官長様から伺った時、私は初めて、自分が四年余りの間、何を支えてきたかを、知ったのでございます」


 私は、ゆっくりと、息を整えた。


「夫は、ご存知でいらっしゃいました」


 その一言を、私は、発言台の前から、はっきりと、議場の中に置いた。


「先代侯爵様から、口頭で契約のことを、伺っておられました。お母上からも、傍書を見せられて、申し上げられておりました。その上で、夫は、お母上の声で伝えられた、その通りに、こう答えられておりました。妹を諦めるくらいなら、迷信ということにしてくれ、と」


 議場の中の貴族の方々の、いくつかの扇が、固く閉じた。


「私が、夫の文箱の中で、神殿からの書状を発見いたしましたのは、先月のことでございます。四年余りの間に、神殿から私宛てに三度、正式な書状が届いておりました。いずれも、開封されないまま、夫の文箱の中で、私を待っておりました」


 私は、夫の方を、見た。


 夫は、顔を、下げておられた。


「私は、夫に、なぜ書状を私に見せられなかったかを、伺いました。夫はこう、答えられました。『君を煩わせたくなかった。君なら、分かってくれると思っていた』と」


 議場の中で、誰かが、低く息を吐いた。


「四年余り。新婚の私を煩わせまいとしてくださった理由が、四年後も、同じ言葉で、繰り返されておりました。私の名宛ての書状を、私が読むことを、煩わせることだと、夫はお考えになっておられました」


 私は、ゆっくりと、息を整えた。


「夫は、知っておられた。知っておられたうえで、神殿の書状を、文箱に伏せておられた。知っておられたうえで、義妹を、いつも私の前に、置いておられた。知っておられたうえで、領内の井戸が涸れ始めていることを、ご自分の判断で、見過ごしておられた」


 私は、夫の目の正面に、視線を、まっすぐに置いた。


「『君なら分かってくれる』というお言葉は、私を信じてくださっていたお言葉ではございませんでした。それは、私を、ご自分の都合の中に、置いておられたお言葉でございました。私は、四年余り、その言葉を、信じようと努めてまいりました。けれど、もう、信じることは、いたしません」


 議場の中の、いくつかの扇が、初めて、ゆっくりと、開いた。


 扇を開く動きは、社交の場で、賛同を示す動きだった。傍聴席の貴婦人の何人かが、私の話を、聞き入れてくださっていた。


「以上が、私の証言でございます」


 私は、深く頭を下げた。


「申し上げ忘れておりました」


 頭を上げて、私は、もう一言、足した。


「それを、申し上げる場を、本日いただきましたことに、お礼を申し上げます」


 王宮監察使様が、頷かれた。


「ご証言、ありがとう存じました」


 私は、席に、戻った。


 神官長が、わずかに頷かれた。それだけだった。けれど、その頷きを、私は、最後まで見届けた。



「ロッシュフォール侯爵」


 王宮監察使様が、夫の方を、向き直られた。


「以上の証言を踏まえまして、最後に、申し開きの機会を、差し上げます」


 夫は、ゆっくりと、席で、立ち上がられた。


 夫の指は、もう、震えていなかった。けれど、顔の色は、午前中の議場に入られた時から、さらに、薄くなっていた。


「申し開きを、申し上げます」


 夫は、低く、話を始められた。


「契約のことを、お父上から伺っておりました。母上から、傍書を見せられたことも、申し上げた通りでございます。神殿の書状を、文箱で伏せていたことも、その通りでございます」


 夫は、議場の中を、ゆっくりと、見回された。


「妹のことが、私には、長く、心配でございました。妹は、私が幼い頃から、病弱でいらっしゃいました。私は、当主としての務めを引き継ぐ前から、妹を守ることだけは、お父上に誓い申し上げておりました。妹が、エマが嫁いできた年から、元気になられたことも、知っておりました。けれど、契約のことを、エマに話せば、エマが妹を恨むのではないかと、私は、案じておりました」


 夫の声は、わずかに、震え始めた。


「私は、エマを信じておりました。エマなら、屋敷の中の、すべてを、私に代わって、整えてくださると、信じておりました。エマは、強い方でいらっしゃいました。妹のために、私のために、屋敷のために、領地のために、エマは、ご自分の力を、惜しみなく、注いでくださいました」


 夫の目が、私の方に、向けられた。


「だから、私は——」


 夫は、そこで、ご自分の声を、止められた。


 止められるまでに、夫が、何を言いかけたのかを、私は、知っていた。


 君なら、分かってくれる。


 その言葉を、夫は、貴族院の議場で、口に出されようとした。けれど、止められた。


 神官長が、わずかに、私の方を、ご覧になった。


 神官長は、何も仰らなかった。けれど、その視線は、夫が止められた一言の重みを、私と共に、見届けてくださっていた。


「申し開きは、以上でございます」


 夫は、低く、そう仰った。


 席に、戻られる前に、夫は、議場の中を、もう一度、見回された。


 誰一人として、夫の方に、頷きを返さなかった。


 傍聴席の貴族の方々の中で、夫の友人として知られた方も、頷きを、返さなかった。お従兄弟にあたる伯爵様も、頷かれなかった。古いお付き合いの公爵令嬢の父上も、頷かれなかった。


 誰も、頷かなかった。


 夫は、席に、ゆっくりと、座られた。



 王宮監察使様が、判決を、読み上げられた。


 ロッシュフォール家における、歴史的契約違反を、認定する。神殿への正式書状の握りつぶしを、当主の不作為と認定する。先代侯爵様の遺志を、軽率に「迷信」と退けられた当主の判断を、家門の継承者としての適格性に重大な疑義を生じさせるものと判断する。


 よって。


 ロッシュフォール侯爵ウィルフリード・ロッシュフォール様の、爵位継承権を、剥奪する。領地経営権は、本日付の王命書の通り、王家信託として、当面、王家の管理下に置く。当主のご本人様には、王都退去を命じ、地方の小規模領にて、ご隠棲いただく。


 判決を、夫は、席で、聞いておられた。


 顔は、下げておられた。けれど、声を、一度も、出されなかった。


 判決の最後の文言が、読み上げられた時、傍聴席の貴婦人の方々の中で、一人だけ、扇を、深く閉じられた方が、おられた。ル・ブラン伯爵夫人だった。


 その扇を閉じる音が、議場に、小さく響いた。


 夫は、その音を、聞かれて、ようやく、顔を、上げられた。


 ル・ブラン伯爵夫人は、夫の方を、見られなかった。


 見られずに、伯爵夫人は、ただ静かに、扇を膝に置かれた。


 その動作を、夫は、最後まで見ておられた。



 審問が終わって、議場の方々が、立たれる頃。


 私と神官長と父が、議場の外の回廊に出た。


 マルガレーテ様も、リリーシュ様も、神殿の方の保護のもとで、別の出口から、出られた。直接、顔を合わせるお別れの時間は、今日のうちには、用意されていなかった。


 回廊を歩いていると、後ろから、ル・ブラン伯爵夫人が、追いついてこられた。


「パッリーニ嬢」


 伯爵夫人は、私の名前を、新しい呼び方で、声をかけられた。


「ご立派でいらっしゃいました」


 その一言を、伯爵夫人は、ゆっくりと、話された。


「ありがとう存じます」


 私は、深く頭を下げた。


「ご立派でいらしたのは、四年余り、社交の場で、ご自分の苦しさを、顔に出されなかったお姿のことでございます。茶会の隣席を譲られた時から、私は、ずっと、見ておりました。声をかける機会を、長く逸しておりました。お詫び申し上げます」


 伯爵夫人は、頭を、下げられた。


「お詫びを、いただく話では、ございません」


 私は、もう一度、深く頭を下げた。


「これからは、私が招く席にも、お越しいただけますか。神殿のご都合のつく時で、構いません」


「お招きを、いただけましたら、伺います」


 伯爵夫人は、頷かれた。


 頷かれてから、伯爵夫人は、神官長の方に、視線を、向けられた。


「神官長様。今日の席を、見届けてくださって、ありがとう存じます」


「いえ、こちらこそ」


 神官長は、深く頭を下げ返された。


 伯爵夫人は、それきり、回廊を、ゆっくりと、進まれた。


 私と神官長と父が、その背中を、見送った。



 その日の夕方、神殿の応接間で、神官長が、私と父の前に、一通の書状を、差し出された。


「エマ様」


 はい、と私は答えた。


「本日付で、王宮から、神殿に、正式な通知が届きました」


 神官長は、書状の封蝋を、示された。


「神殿として、エマ様を、聖女として、正式にお迎え申し上げる手続きが、王の承認のもと、お認めいただきました」


 承知いたしました、と私は答えた。


「聖女としてのご任命の儀は、改めて、神殿としてお決めいたします。それまでの間、エマ様には、神殿のご保護のもとで、お過ごしいただきます」


「お受けいたします」


 私はそう申し上げた。


 神官長は、頷かれた。


 書状を、円卓の上に、ゆっくりと置かれた。


 神官長は、書状を、置かれた後、しばらくの間、何も仰らなかった。


 応接間の窓辺に、午後の薄い光が、入ってきていた。


「エマ様」


 はい、と私は答えた。


「お話を、もう一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「はい」


 神官長は、ゆっくりと、話を始められた。


「神殿の法では、聖女様のご在任中の婚姻は、原則として、認められておりません。これは、神殿創建期から続いてまいりました、長い取り決めでございます」


 はい、と私は、もう一度、答えた。


「ただ、神殿の歴史の中には、三度だけ、この原則の、例外がございました」


 神官長の声は、いつもと同じだった。


「神殿創建期に、一度。二百年前に、一度。九十年前に、一度。聖女様と神官長との、古式の合一儀礼として、王命のお取り次ぎを経て、ご婚姻が、認められた前例が、ございます」


 私は、神官長の顔を、ゆっくりと、見た。


 神官長の目は、私を、まっすぐに、見つめておられた。


「私は、本日、王様への直訴の文書を、書き上げました」


 神官長は、低く、話された。


「文書は、明朝、神殿の使者を通じて、王様の手元に、お届けする予定でございます。古式の合一儀礼として、エマ様と、私との、ご婚姻を、認めていただきたく、お願い申し上げる文書でございます」


 応接間に、長い、沈黙が、落ちた。


 父が、椅子の縁を、軽く、握られた。


 私は、神官長の顔を、見ていた。


「神官長様」


 はい、と神官長はお答えになった。


「お話を、続けて、いただけますか」


 神官長は、深く、頭を下げられた。


「エマ様」


「はい」


「私が、エマ様のお屋敷に、初めて、ご訪問申し上げましたのは、神殿としての寄進相談のためでございました。けれど、私は、客間で、義妹様の話ばかりされる夫君のお隣で、ご自分の茶碗を一度も見ずに、私のカップの湯気だけを見ておられたエマ様の横顔を、お見申し上げた時に——」


 神官長は、そこで、言葉を、切られた。


 切られてから、もう一度、私の顔を、ご覧になった。


「役割としてではなく、一人の人として、エマ様にお目にかかりたいと、その日から、思い続けておりました」


 神官長は、続けられた。


「神殿の窓辺で、お会いするための書状を、四年余りの間、何度も書きました。三度、正式にお送りいたしました。けれど、お届けすることが、できませんでした。神殿として、できることを、私は、長く探しておりました。本日、貴族院の議場で、エマ様のご証言を伺い、私は、これ以上、お待ちすることは、神殿としても、私個人としても、するべきではないと、決めました」


 神官長は、ゆっくりと、私の顔を、見つめ続けられた。


「ご返事は、いつでも、構いません。考える時間を、お取りください」


 神官長は、それだけ仰って、頭を、下げられた。


 私は、しばらくの間、声を、出さなかった。


 応接間の窓辺の光が、わずかに、傾いた。


 神殿の中庭の方で、夕方の鐘が、低く、鳴り始めた。


 その音を、私は、神官長の話の余韻と一緒に、聞いていた。


「神官長様」


 私は、ゆっくりと、口を開いた。


「お返事を、明日まで、お待ちいただけますか」


「もちろんでございます」


 神官長は、深く頭を下げ返された。


 父も、ゆっくりと、立ち上がられた。


「セレディウス殿」


「はい」


「明日、エマと一緒に、お返事に、参上いたします」


 承知しました、と神官長は、お答えになった。


 その日の夕方、パッリーニ家への帰り道、馬車の中で、私は、神官長の話を、頭の中で、何度も、繰り返した。


 神殿の規則では、聖女は在任中の婚姻は、許されない。


 けれど、神官長は、もう、王様への、直訴の文書を、書き上げておられた。

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