第8話 神殿の正門にて
神殿の正門に蹄の音が響いたのは、薄曇りの午後のことだった。
その日、私は神殿の応接間にいた。神官長セレディウス様に招かれた、打ち合わせの場だった。マルガレーテ様の証言書、傍書のある契約書、神殿の保管文書。それらを王宮監察使様に預ける手続きの、最終確認だった。
神殿の書記が、書類の順序を読み上げておられた。
その読み上げが、半分ほど進んだ時だった。応接間の外、神殿の中庭を越えた向こうから、馬の蹄が石畳を叩く音が、はっきりと聞こえてきた。一頭。供を連れていない速駆けだった。
書記が、ペンを止められた。
神官長は、顔色を変えずに、入口の方を、ご覧になった。
まもなく、廊下を急ぎ足で来る靴音が聞こえた。神殿の警備の神官騎士の方が、応接間の前で軽く声をかけられた。
「神官長様、失礼いたします」
「お入りください」
扉が開いた。
神官騎士の方が、廊下に立ったまま、低く告げられた。
「ロッシュフォール侯爵様が、正門にお越しでございます。エマ様にお会いしたい、と仰っております」
書記の手の中で、ペンが、わずかに音を立てた。
私は、息を整えた。
応接間の窓の外、神殿の中庭の向こうに、正門が見えていた。石造りの大きな門だった。神殿は、王都の北の高台にあり、平日の午後でも参拝者が絶えなかった。今日も、正門の周辺には、十名ほどの方がお見えになっていた。
その正門の前に、馬から降りた夫が立っているのが、私の席からは見えなかった。けれど、夫がそこにいることは、神官騎士の方の声で、はっきりと分かった。
神官長が、ゆっくりと立ち上がられた。
書類入れを、円卓の上に閉じられた。
「エマ様」
はい、と私は答えた。
「お会いになる必要はございません。神殿として、お引き取りいただけます」
神官長は、私の判断を、私に委ねられた。
「お決めになる前に、お伝えしておきたいことが、一つございます」
はい、と私はもう一度答えた。
「正門の前には、参拝者がお見えになっております。本日は、神殿の例祭の前日でございます。普段より、人通りが多うございます。侯爵閣下が、正門の前で何を仰るかは、その方々の前で、語られることになります」
承知しました、と私は答えた。
神官長は、頷かれた。
「お会いになると決められたなら、私は、お隣におります」
その一言を、私は、神官長の顔を見て聞いた。
「お会いいたします」
私はそう申し上げた。
「逃げる場面では、ございません。ロッシュフォール侯爵様に、私の口から、申し上げるべきことがございます」
神官長は、深く頷かれた。
「では、参りましょう」
神殿の正門までは、応接間から、廊下を二度曲がり、中庭の回廊を抜けて、石段を七段降りる距離だった。
私と神官長と神官騎士が、その道を、並んで歩いた。
私は、自分の足音を確かめながら歩いた。神官長の長衣は、相変わらず衣擦れの音が小さかった。神官騎士の方の歩調は、私たちに合わせて、わずかに遅められていた。
中庭の回廊を抜ける時、参拝者の方の声が、聞こえてきた。
「神官長様がお越しになるそうですよ」
「あの、神殿に……」
ざわめきの中に、私の名を、口の中で繰り返している方もおられた。神殿に保護されている、聖女の血筋のご令嬢。その方が、元の夫君と対面なさる。参拝者の方々にとって、今日のこの場は、思いがけない見学の場になっていた。
石段の七段を、私は数えながら降りた。
最後の一段を降りた時、視界の中央に、正門の前に立つ、夫の姿が入ってきた。
夫は、騎乗服のままだった。
額に汗を浮かべておられた。屋敷から神殿までを、供を連れずに、一頭の馬を駆ってきた。それだけの急ぎ方だった。
夫の前には、神官騎士の方が、二名、立っておられた。腰の剣を抜かれてはいなかった。けれど、両足の置き方は、夫が一歩でも踏み出した時に、即座に阻める間合いだった。
夫は、私の姿を見つけて、わずかに身を乗り出された。
「エマ」
その呼び方を、夫は、選ばれた。
離縁が成立した日から、夫は私を「エマ」と呼ぶ権利を、失っていた。けれど夫は、その呼び方で、私を呼ばれた。
私は、夫の三歩手前で、足を止めた。神官長と神官騎士の方も、私の左右に、一歩遅れて止まられた。
参拝者の方々が、息を呑む音が、いくつか重なった。
「ロッシュフォール侯爵様」
私は、当主としての呼び方で、声をかけた。
「私を、エマと呼ばれる権利は、もう、あなたにはございません」
夫の表情が、わずかに崩れた。
「エマ……パッリーニ嬢」
夫は、言い直された。
その言い直し方を、私は、最後まで聞いた。
「会いに来た。話を、聞いてくれないか」
「お話は、神殿の応接間でお伺いする筋ではございません」
「ここでなら、いいんだな」
夫は、ご自分の解釈で、言葉を続けられた。
「エマ嬢。リリーシュが、もう五日も熱を出し続けている。医師にも見せたが、原因が分からない。屋敷の井戸も、五つが涸れた。商人たちが取引を引き上げ始めている。これは、君が屋敷を離れたことと、関係があるのか」
夫の声は、焦っておられた。
屋敷で聞いた声とは、別の声だった。屋敷で「君なら分かってくれる」と仰った時の、ゆとりのある声ではなかった。
私は、答え方を考えた。
考えながら、私は、夫の方をまっすぐ見ていた。
その目を、夫は、受け止めきれずに、わずかに、視線を逸らされた。
「屋敷の領内で、何が起きているのかを、私は、神殿の報告を通じて、伺っております」
私は、低く申し上げた。
「井戸が五つ涸れたこと。子どもたちに熱と咳が広がっていること。リリーシュ様が、再び寝込んでおられること。商人組合が取引を控え始めていること。すべて、伺っております」
「では、君は、それが何のせいだか、知っているはずだ」
夫は、一歩、踏み出された。
神官騎士の方が、夫の前に、すっと体を入れられた。剣の柄に手はかけられなかった。けれど、夫はそこで止まる以外に、選択肢を持たれなかった。
「侯爵閣下」
神官長が、私の半歩前に出られた。
「神殿の正門でございます。声を抑えてお話しくださいませ」
夫は、神官長の方を、ご覧になった。
「神官長様、お会いできて光栄に存じます」
夫の口調が、一瞬で、社交の場のものに戻った。
「ですが、これは私的な話でございます。神殿の手を煩わせる筋ではございません」
「いいえ、侯爵閣下」
神官長は、はっきりと仰った。
「これは、神殿の話でございます。エマ様は、本日より、神殿の正式な保護下にございます。エマ様への面会は、神殿の許可をいただいてから、お申し入れください」
「保護下」
夫は、その言葉を繰り返された。
「彼女は、私の元妻だ。家族同然の関係だ。保護も何も——」
「侯爵閣下」
神官長の声は、それまでで一番、低かった。
「家族同然、と仰いますのは、お引き入れになっておられたリリーシュ様のことで、よろしいのですね」
夫は、息を、わずかに止められた。
その一言で、夫が、屋敷で四年余りの間に、繰り返し使ってこられた言葉が、神官長の口から、夫ご自身に返された。
夫は、答えに詰まられた。
参拝者の方々の方を、夫は、初めて、気にされた。
石畳の脇に並んだ十名ほどの参拝者が、誰一人として、目を逸らさずに、夫を見ておられた。
「侯爵閣下」
神官長が、続けられた。
「先代侯爵様が、契約のことを、ご嫡男様に口頭で伝達されたという、ご自筆の傍書が、神殿に正式に届け出られております」
夫の顔色が、変わった。
「マルガレーテ様が、神殿に証言を、書面で提出されました」
神官長は、淡々と続けられた。
「先月、書斎の整理の際に、ご自身で遺品の中から、契約の傍書を発見された経緯。それをご嫡男様に見せられた経緯。ご嫡男様が、その傍書をご覧になって、何と仰ったか。すべて、神殿の書面に、お記しいただいております」
「母上が……」
夫の声が、震えた。
「母上が、神殿に……」
「マルガレーテ様は、神殿への証言を、ご自分の意思でお決めになりました」
神官長は、低く仰った。
「神殿として、その証言を、明日の朝、王宮監察使様に正式に預け申し上げます。これは、エマ様お一人の話ではございません。先代侯爵家からパッリーニ家への、四十年の契約に関わる、家門の話でございます」
夫は、声を出されなかった。
代わりに、夫は、私の方を、見られた。
「エマ」
もう一度、その呼び方を選ばれた。
「君から、神官長様に、お止めいただけないか。私たちのことだ。母上も、私も、君も、家族のうちで話をすればいい。神殿にまで、話を持ち込む必要はないはずだ」
私は、夫の目を、見返した。
「ロッシュフォール侯爵様」
「エマ……」
「お引き取りくださいませ」
夫の口が、開いて、止まった。
「私はもう、あなたの問いに、お答えする立場にはございません。お母上のご証言は、お母上ご自身のご意思で、神殿に預けられました。私が止める筋でも、止められる筋でもございません」
「エマ、頼む。リリーシュが本当に苦しんでいるんだ。君なら、分か——」
夫は、その先を、口の中で、止められた。
止められたのは、神官長の顔をご覧になったからだった。
神官長は、何も仰らなかった。けれど、その目が、夫の言葉の続きを、止めておられた。
参拝者の方々の中に、静かな沈黙が広がった。
夫の口から、いつもの言葉が、出かけて、止まった。
その止まり方を、参拝者の方々は、見ておられた。
夫は、しばらくの間、何も仰らなかった。
神官騎士の方が、夫の馬の手綱を、引かれた。
「侯爵閣下、お引き取りください」
神官長が、夫の方ではなく、私の方に、声をかけられた。
「エマ様、応接間にお戻りいただいて構いません」
はい、と私は答えた。
夫の方を、もう一度だけ、私は見た。
夫の目の中に、私の知っている表情が、一つもなかった。屋敷で「君なら分かってくれる」と仰った時の余裕は、消えていた。リリーシュ様への優しさを語っておられた時の、明るさも、なかった。
ただ、疲れた表情だけが、残っていた。
私は、夫に背を向けて、神殿の本殿の方へ、戻り始めた。
神官長と神官騎士が、私の左右に、半歩遅れて続かれた。
石段の七段を上がる時、私は、振り返らなかった。
背後で、神官騎士の方が、夫に何かを仰っているのが聞こえた。馬の手綱を、夫にお返しになっている音だった。それから、参拝者の方々の中の、一人の声が、私の耳に、はっきりと届いた。
「あれは、神殿の聖女様でしょう」
年配の方の声だった。
私は、立ち止まりかけて、止まらなかった。
石段の上で、私は、姿勢を直して、神殿の本殿の方へ、歩き続けた。
応接間に戻った時、神殿の侍女が、新しい紅茶を運んできてくださっていた。
神官長は、ご自分の椅子に、戻られなかった。
神官長は、応接間の窓辺に、立たれた。窓の鎧戸を、ゆっくりと、押し開けられた。
午後の風が、応接間に流れ込んできた。
ロッシュフォール家の客間で、夫がリリーシュ様の話をされていた間、客間の窓が締め切られたままだったことを、私は、急に思い出した。屋敷の客間は、いつも、香水と煙草の匂いで、わずかに澱んでいた。私はそのことに、四年余り、慣れてしまっていた。
神殿の応接間の空気は、外の風で、軽くなった。
神官長は、それきり、何も仰らなかった。
窓を開けたことについて、何の説明もなさらなかった。
私の隣に立っておられた書記の方が、低く呟かれた。
「神官長様は、お部屋の空気を、気にかけられる方でいらっしゃいます」
澱んだ空気を、入れ替えるためだろう、と私は、心の中で、自分に言い聞かせた。
ただの、空気の入れ替えだった。
私は、新しい紅茶のカップに、口をつけた。
温かかった。
その日の夕方、神殿に、王宮からの正式な使者が訪れた。
神殿の上奏を待たずに、王宮の方から、ロッシュフォール領への調査使者の派遣を、正式に決定された、というお知らせだった。マルガレーテ様の証言の写しが、神官長から、その日のうちに、王宮監察使様のもとに、内々に届けられていた。王宮監察使様は、神殿の正式な上奏を、明朝の予定としながらも、調査使者の派遣を、本日午後の段階で、決定されていた。
決定はそれだけではなかった。
王命書が、神殿に届けられた。
ロッシュフォール侯爵領の経営権を、当面、王家信託に移管する旨の、正式な王命書だった。封蝋には、王家の紋章と並んで、銀の月の紋章が押されていた。神殿の合議を経た、王命の発出だった。
神官長が、王命書を、円卓の上に、置かれた。
「エマ様」
はい、と私は答えた。
「ロッシュフォール領の経営権は、本日付で、王家信託に移管されました。明日以降、領内の井戸の修繕、子どもたちの治療、商人組合との調整は、王家信託の管理下で、進められます」
承知しました、と私は答えた。
「もう一つ、お伝えしておくべきことがございます」
「はい」
「王宮監察使様より、貴族院での公開審問の開催が、十日後に決定されたとの通知でございます」
公開審問。
私は、その言葉を、口の中で繰り返した。
「審問の対象は、ロッシュフォール家の歴史的契約違反の認定でございます。マルガレーテ様の証言、先代侯爵様の傍書、神殿の保管文書、神殿への書状の四年余り分の握りつぶし、すべてが、貴族院で公開されます」
神官長は、淡々と続けられた。
「エマ様には、証人としてのご出席を、王宮監察使様より、正式にお願い申し上げる旨の書面が、本日中にこちらに届くはずでございます」
「承知いたしました」
私はそう答えた。
「お出になりますか」
「はい」
返事は、迷わなかった。
四年余りの間に、私が分からなかったことのすべてが、貴族院で、公にされる。マルガレーテ様も、リリーシュ様も、夫も、私も、すべての家門の事情が、社交界の前で、明らかになる。それは、ロッシュフォール家にとって、生き残れないほどの重さの場だった。
その場で、私は、自分の口で、申し上げるべきことが、あった。
神官長は、私の返事を聞いて、頷かれた。
「エマ様」
「はい」
「公開審問の席は、王宮監察使様の主宰のもとで、開かれます。神殿として、私は、その場にエマ様の隣に、立たせていただきたく存じます」
「神官長様にお願いしたいのは、こちらの方でございます」
私は、深く頭を下げた。
神官長は、応じて、深く頭を下げ返された。
パッリーニ家に戻る馬車の中で、私は、窓の外を見ていた。
空はすでに、夕方の色を越えて、夜の色に近づいていた。
貴族院での公開審問が、十日後。
その日まで、王命書の銀の月の封蝋を、私は、自分の手元で、見守ることになる。
馬車の振動の中で、私は、自分の指先を、確かめた。冷たくはなかった。屋敷の応接間で、神官長の話を伺った時のような、震えも、なかった。
ただ、私は、自分の進む道が、屋敷を出た日の朝に思い描いていたものよりも、ずっと先まで、続いていることを、知った。
その先がどこまで続くのか、まだ、私には見えなかった。
けれど、振り返って、屋敷の方へ戻る道は、もう、私の中に、なかった。
馬車が、王都の北西の貴族街へ、入っていった。パッリーニ家の門の銀の月の文様が、夜の灯りの中で、白く浮かび上がるのが、見えた。
王命書の銀の月の封蝋を見て、私は四年ぶりに、自分の声が震えていないことに気づいた。




