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義妹の病を癒していたのは、私でした 〜離縁の翌日から、奇跡は止まりました〜  作者: 秋月 もみじ


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第7話 枯れていく領地


 神殿の応接間に、ロッシュフォール家の紋を縫い込んだショールを羽織った姑が現れた時、私は思わず立ち上がっていた。


 神官長セレディウス様にお会いしてから、十日が経っていた。


 神官長から預かった革表紙の書物を、私は毎日少しずつ、開いていた。家系図の頁、母の名、私の名、銀の月の印。そのどれもが、見るたびに、私の中で形を変えていった。最初は、母を救えなかった私の血の物語だった。読み進めるうちに、母が嫁いだ家を、母の血が癒していた物語に変わっていった。


 その日、午前中に、神殿から使者が訪ねてきた。


 神官長より、お話し申し上げたいことがある、と。


 パッリーニ家ではなく、神殿の応接間にお越しいただけないか、と。


 了承して、馬車に乗った。神殿に着いたのは、午後の早い時刻だった。応接間に通されて、神官長と差し向かいに腰を下ろした、その直後だった。


 扉が、もう一度開いた。


 マルガレーテ様が、お一人で立っておられた。


 私を見て、マルガレーテ様は、深く頭を下げられた。私は反射的に立ち上がった。


「マルガレーテ様、なぜ……」


 マルガレーテ様は、答えられる前に、神官長の方を、ご覧になった。


「神官長様」


 はい、と神官長はお答えになった。


「私からのお願いを、お聞き届けくださり、ありがとう存じます」


「いえ。お話し申し上げたいのは、こちらの方でございます」


 マルガレーテ様は、神官長が示された椅子に、お座りになった。私の隣の席だった。父は、円卓の向かいに着座されていた。父は、神殿に到着した時から、すでに席についておられた。父も、マルガレーテ様のお越しを、事前にご存知だったのだ。


 円卓には、もう一つ、書面が置かれていた。


 革表紙の書物ではなかった。古い羊皮紙の、長く折りたたまれていた書面だった。封のされていた縁が、薄く反っていた。長く封印されていた書面を、最近開いた、という痕跡だった。


「エマ様」


 マルガレーテ様が、私の方に向き直られた。


「奥方様……いいえ、エマ様」


 その言い直しを、マルガレーテ様は、はっきりとなさった。


 私は頷いた。


「マルガレーテ様、お顔をお上げください」


「いいえ。お顔を上げていただきたいのは、私の方でございます」


 マルガレーテ様の声は、低かった。屋敷で「いい加減になさい」と息子を叱責された時と、同じ低さだった。


「本日、お話し申し上げますのは、私が、長く隠してまいりましたお話でございます。お話し申し上げてから、頭を上げさせていただきたく存じます」


 承知しました、と私は答えた。


 マルガレーテ様は、円卓の上の羊皮紙に、手を添えられた。



「先月の中頃、私は、亡き夫の遺品を、改めて整理いたしました」


 マルガレーテ様は、そう切り出された。


「夫が亡くなってから、十二年が経っております。書斎の整理は、当時、辛うございましたので、ほとんどの書類はそのまま、亡き夫の私室に保管されておりました。先月、私は、お部屋を一度、空ける必要がございまして、書類の整理に手をつけたのでございます」


 マルガレーテ様の指が、羊皮紙の縁を、軽くなぞられた。


「書斎の奥の、引き出しの中に、この一通がございました」


 封の蝋は、すでに切られていた。けれど、その切り口は、新しかった。


「亡き夫の自筆の書面でございます。先代侯爵家とパッリーニ家との間で、四十年前に交わされた契約に、夫が後年、傍書を加えた写しでございます」


「傍書、でございますか」


「はい」


 マルガレーテ様は、羊皮紙を、ゆっくりと開かれた。本文は、契約の本体だった。神官長がお見せくださった革表紙の書物の中にも、同じ契約の写しがあった。私は、その時、本文を読んでいた。


 本文の末尾の、別の筆跡。


 その一行を、私は、近づいて見た。


 「嫡男ウィルフリードへ口頭にて伝達済」


「夫が、亡くなる三年前に、嫡男のウィルフリードに、口頭で契約のことをお伝えになりました。その時、夫は、傍書を一行、お加えになりました。エマ様、この一行は、夫が、ご自分の責任において、息子に契約を伝えたことの、ご自身の手による証明でございます」


 マルガレーテ様の声は、震えなかった。


 けれど、その声は、震えないことに、ひどく力を使っているように聞こえた。


「私は、先月、この書面を見つけて、息子のもとを訪ねました。私からも、もう一度、契約のことを息子に申し上げました。先月の話でございます。エマ様が、まだお屋敷におられた頃でございます」


 私は、息を整えた。


 先月のいつのことなのか、マルガレーテ様は、お話しにならなかった。けれど、思い当たる出来事があった。先月、マルガレーテ様の私室に、いつもより長く灯りが点いていた夜が、何度かあった。


「私は、息子に申し上げました」


 マルガレーテ様は、続けられた。


「お父様が、お前に契約のことをお伝えになっていたはずです。お前は、それをご存知のはずです、と」


「ご嫡男様は、何と」


 マルガレーテ様は、目を伏せられた。


 言いにくいお話だった。けれど、その言いにくさを、マルガレーテ様は、ご自分の声で、お話しになることを、選ばれていた。


「息子は、私に、こう申しました」


 マルガレーテ様の声が、わずかに揺れた。


「『母上、迷信ですよ。妹を諦めるくらいなら、迷信ということにしてください』」


 応接間に、沈黙が落ちた。


 私は、自分の手が、膝の上で握られていることに気づいた。気づいてから、握る力を緩めた。声を出そうとして、声がすぐには出なかった。


「ご嫡男様は、ご存知だったのでございますね」


 ようやく出た私の声は、私のものではないようだった。


「はい」


 マルガレーテ様は、頷かれた。


「息子は、お父様から契約のことを口頭でお聞きしておりました。私からも、改めてお伝えいたしました。先代侯爵の自筆の傍書も、息子の目の前でお見せいたしました。息子は、それでも、こう申しました。妹を諦めるくらいなら、迷信ということにしてください、と」


 マルガレーテ様は、ようやく顔を上げられた。


「エマ様」


 はい、と私は答えた。


「私は、息子に、契約の重みを、軽すぎる声で伝えてしまいました。お父様がお亡くなりになった後、私は息子に、お父様のお言葉をお伝えすべきでございました。けれど私は、息子が結婚する時に、改めてお伝えすればよいと、長く先延ばしにしてしまいました。先代侯爵が傍書に遺しておられた事実を、私は、先月、ようやく知ったのでございます」


 マルガレーテ様の声は、低いままだった。


「夫が、お亡くなりになった時、私は、夫の書斎を片付けることができませんでした。辛うございました。だから、契約の傍書も、十二年間、見つけられないままでおりました。私が、辛さに負けて、書斎を放置していなければ——」


「マルガレーテ様」


 私は、その先を聞きたくなかった。


 マルガレーテ様の、ご自分を責める声を、これ以上、お聞きするのは、私にも堪えられなかった。


「お母様が、お謝りになることでは、ございません」


 私は、もう一度、その呼び方をした。


 マルガレーテ様は、目を、わずかに見開かれた。


「お母様、ではなくて……」


「私は、ロッシュフォール家を、離れました。けれど、お母様が、私に、お母様、と呼ばせてくださった四年余りは、消えません。今日のお話を、お一人で抱えておられた苦しさを、私は、お母様、と呼ばせていただいたままで、お伺いしたいのでございます」


 マルガレーテ様は、しばらくの間、何も仰らなかった。


 頬の上を、涙が一筋、流れていった。


 長く奥方の地位にあった方の癖で、涙を流す前に止めるはずだった涙が、その日に限って、お止めにならなかった。



 神官長が、円卓の上に手を伸ばされた。


 私の前のカップに目を留められて、神官長は、お一人で立たれた。出入口の方に控えていた神殿の侍女に、視線で何かを伝えられた。それから、ご自分の席に戻られた。


 まもなく、新しい紅茶のカップが、私の前に置かれた。


 元のカップは、いつの間にか、半分以上、冷めていた。私自身は、そのことに気づいていなかった。けれど神官長は、ずっと前から気づいておられた。マルガレーテ様のお話の途中で、私のカップの紅茶が冷めていくのを、見ておられたのだ。


「エマ様」


「はい」


「お続けになる前に、一口、召し上がってください」


 承知しました、と私は答えた。


 新しい紅茶は、温かかった。一口含んで、私は息を整えた。


 その間、マルガレーテ様は、ご自分のショールの縁を、指の腹で撫でておられた。涙はすでに止まっていた。けれど、声を出し続けることに、力を使っておられたことが、私にも分かった。



「神官長様」


 マルガレーテ様が、ようやく口を開かれた。


「本日、私がこちらに参りましたのは、もう一つ、お話し申し上げたいことがあったからでございます」


「お聞きいたします」


「ロッシュフォール家の領内のことでございます」


 神官長は、頷かれた。


「先月の半ばから、領内の北部と東部の井戸が、次々と水位を下げております。すでに、五つの井戸で、水が汲めなくなっております」


 五つ、と私は心の中で繰り返した。


「子どもたちの間に、熱と咳の症状が広がり始めております。先週、領内の村医から、神殿の方に正式なお問い合わせがあったと、私は侍女を通じて伺っております」


 マルガレーテ様は、ショールの縁から、ようやく手を離された。


「王都の商人組合が、ロッシュフォール領との取引を、当面控える、と内部通達を出したと、私の古い友人から伺いました。先週末のことでございます」


「ご友人と申されますのは」


「ル・ブラン伯爵夫人でございます」


 神官長は、頷かれた。


 ル・ブラン伯爵夫人。私が嫁いだ年に、茶会で隣の席についてくださった方だった。社交界で、長く取引筋に明るい方だった。その方が、ロッシュフォール家から距離を置く商人組合の動きを、マルガレーテ様にお伝えになっていた。


「義妹は、五日前から、また熱を出しております」


 マルガレーテ様は、淡々と続けられた。


「医師は、原因が分からないと申しております。屋敷の中の、井戸の水も、味が変わっていると、料理長が申しております。これまで使っていた紅茶の銘柄が、同じ淹れ方では出なくなったのだそうでございます」


 私は、紅茶のカップを、両手で包んだ。


 屋敷の井戸の水まで、変わっていた。


 四年余り、ロッシュフォール家の井戸の水で淹れていた紅茶を、私はもう、淹れることがなかった。けれど、その水が変わっていた、と聞いた瞬間、私は、自分の手の中に、屋敷の朝の紅茶の匂いを思い出していた。


 私が屋敷を出てから、二週間半。


 その間に、領内では、目に見えるところで、変化が始まっていた。



 神官長が、円卓の縁に、両手を置かれた。


「マルガレーテ様」


「はい」


「先代侯爵様の傍書のことは、神殿として、正式にお預かりしてよろしいでしょうか」


「お願い申し上げます」


 マルガレーテ様は、頭を下げられた。


「神殿としてお預かりした文書は、王宮監察使様への正式な書類として、神殿が責任を持って取り扱います。マルガレーテ様、その先のお話は、ロッシュフォール家にとって、辛いことになる可能性がございます」


「承知しております」


 マルガレーテ様の声は、震えなかった。


「私が今日こちらに参りましたのは、その先の辛いことを、承知のうえで、神殿にお預けするためでございます」


 神官長は、深く頷かれた。


「神殿の書記をお呼びいたします」


 神官長は、出入口の方に、視線を向けられた。神殿の書記が、すでに入口の外に控えておられた。神官長が呼ぶ前から、書面を作る準備がなされていた。


 書記が、応接間に入ってこられた。


 羊皮紙と、ペンと、インクを持っておられた。マルガレーテ様の証言を、その場で、文書に書き取る準備だった。


「マルガレーテ様、ご証言を、書面で取らせていただいてもよろしいでしょうか」


「はい」


「では、お話しください」


 マルガレーテ様は、ゆっくりとお話を始められた。


 先月、亡き夫の遺品を整理していた時、契約書の傍書を発見した経緯。傍書の文言を、息子のウィルフリードに見せた経緯。息子が、傍書を見ても、契約を「迷信」と退けた経緯。その時の息子の言葉、一字一句。


 書記の方は、ペンを止めることなく、書き取られた。


 マルガレーテ様の証言は、長くはなかった。けれど、その短さに、四十年の家門の重みが凝縮されていた。


 書記が、ペンを置かれた。


「ご証言は、これで終わりでございますか」


「はい」


 マルガレーテ様は、頷かれた。


「神殿の責任において、書面にいたしました」


 神官長が、書面の最後に、ご自分の名前を、署名された。マルガレーテ様も、署名をされた。父も、立会人として、署名をされた。


 私も、署名を求められた。


 書面の証人として、お名前をいただけませんか、と神官長が、丁寧におっしゃった。


 私は、ペンを取った。


 書面の最後の余白に、自分の名前を書いた。エマ・パッリーニ、と書いた。ロッシュフォール、と書きそうになって、止めた。私はもう、ロッシュフォール家の人間ではなかった。


 書いた後、ペンを、机に置いた。


 ペンを置く音が、応接間に小さく響いた。



 マルガレーテ様が、ようやく立ち上がられた。


 私も立ち上がった。神官長と父も、立たれた。


「エマ様」


 マルガレーテ様が、私の方に向き直られた。


「奥方様……いいえ、エマ様。あの子は、知っていたのです。それでも、妹を選んだのです」


 その一言で、私の中で、何かが、ようやく動いた。


 四年余り、夫が「君なら分かってくれる」と仰ったのは、無自覚な甘えではなかった。


 夫は、ご存じだった。


 契約のことも、私の血のことも、領地の繁栄が私の血の上に立っていたことも、すべて、ご存じだった。


 知っておられたうえで、夫は、リリーシュ様を選ばれた。


 知っておられたうえで、夫は、私の名宛ての神殿の書状を、文箱に伏せておられた。


 知っておられたうえで、夫は、私に「君なら分かってくれる」と仰った。


 私の中の、夫への怒りの輪郭が、その瞬間に、初めて、はっきりと見えた。


 怒りは、声にはならなかった。


 ただ、両手の指先が、わずかに冷たくなった。私は、それを、自分の手の中で、握り直した。


 神官長は、私の方を、見ておられた。


 見ておられて、何も仰らなかった。けれど、神官長の手が、応接間の私の椅子の背に、軽く添えられていた。私が座っていた椅子の背を、神官長は、無意識に、支えておられた。


 その手を、私は見た。


 神官長は、ご自分の手に気づかれて、ゆっくりと、引かれた。けれど、引かれる前に、低く仰った。


「エマ様が背負う罪では、ございません」


 その一言を、私は、最後まで聞いた。



 マルガレーテ様が、神殿を辞される時、私は玄関までお見送りに出た。


 馬車の前で、マルガレーテ様は、もう一度、私の方に向き直られた。


「エマ様」


 はい、と私は答えた。


「お元気で」


 その別れの一言は、もう一度お会いする予定のない方の挨拶だった。マルガレーテ様は、ご自分の家門にとって、これから訪れる長い辛さを、すでに見越しておられた。神殿に証言を預けた瞬間から、ロッシュフォール家は、別の道を歩み始めていた。マルガレーテ様は、その道の中で、私とお会いする機会はもう、お持ちにならないつもりだった。


「お母様も、お元気で」


 私はそう申し上げた。


 最後の「お母様」だった。


 マルガレーテ様は、馬車に乗り込まれる前に、もう一度だけ、私の方を、ご覧になった。


 その目には、もう、涙はなかった。


 馬車が動き出すのを、私は門のところまで出て、見送った。


 馬車が街路の角を曲がるまで、私はそこに立っていた。


 角を曲がる時、馬車が一度、軽く揺れた。


 その揺れを、私は、最後まで見届けた。



 応接間に戻ると、神官長は、書面を整理しておられた。


 マルガレーテ様の証言書、傍書のある契約書、神殿に保管されていた契約の写し。それらを順に、革張りの書類入れに、納められていた。


「神官長様」


 はい、と神官長はお答えになった。


「これからは、どうなりますでしょうか」


 神官長は、書類入れを、ゆっくりと閉じられた。


「マルガレーテ様の証言をもとに、神殿として、王宮監察使様に、正式な上奏を申し上げます。先代侯爵様の傍書も、合わせて提出いたします。王宮監察使様は、ロッシュフォール家の領内の調査を、始められるはずでございます」


「ご嫡男様は」


「神殿としては、現当主様への直接の処分を、決める立場にはございません。それは、王宮の判断にゆだねられます」


 承知しました、と私は答えた。


 神官長は、書類入れを、円卓の上に置かれた。


「エマ様」


「はい」


「神殿として、ご当家に伺いたく存じます。今日、お預かりした書面と、これからの段取りについて、改めて、パッリーニ卿にもお話し申し上げたく」


「もちろんでございます。お父様、よろしいですか」


 父は、頷かれた。


「セレディウス殿、いつでもお越しください」


 神官長は、深く頭を下げられた。


 その日のうちに、神官長は、王宮監察使への正式な書面の準備に入られると、お話しになった。書面の準備が整い次第、王宮へ正式に上奏される。王宮監察使は、その上奏を受けて、ロッシュフォール領への調査使者の派遣を決定する。


 調査の正式な決定は、神殿の上奏から、数日のうちに下る、と神官長は仰った。



 神殿を辞して、馬車に乗り込む時、父が私の肩に、軽く手を置かれた。


「エマ」


「はい、お父様」


「マルガレーテ様の証言を、神殿に預けたことで、お前の元のご夫君が、これから受けることは、社交界では生き残れないほどの重さになる」


 承知しております、と私は答えた。


「お前は、それを、神殿に止めることもできた」


 父はそう仰った。


「マルガレーテ様の証言を、神殿に書面化しないでほしい、とお前が申し出れば、神官長殿はその通りになさったはずだ」


 はい、と私は答えた。


「申し出ようとは、思わなかったかね」


 私は、しばらく考えた。


「申し出ようとは、思いませんでした」


「なぜだね」


「私が申し出るべきお話では、なかったからでございます」


 父は、頷かれた。


「お前の判断を、私は尊重するよ」


 馬車の窓から、神殿の建物が、ゆっくりと遠ざかっていった。


 夕方の光が、神殿の銀の月の紋章を、淡く照らしていた。


 その光を、私は、馬車が角を曲がるまで、見ていた。


 パッリーニ家に戻る街路で、私は窓の外を見ていた。街路樹の葉が、いつもより少し早く、色づき始めていた。秋が、思っていたよりも、早く来ようとしていた。


 屋敷から発って、十日。


 ロッシュフォール領では、井戸が五つ涸れ、子どもたちが熱を出し、商人たちが取引を控えている。私が屋敷を出てから、すべては、少しずつ、けれど確実に、形を変え始めていた。


 その変化は、これからもっと、速くなる。


 神殿が王宮監察使に上奏すれば、変化は、領内の話だけでは収まらなくなる。


 馬車の振動を、私は黙って受け止めていた。


 パッリーニ家に着く頃には、空が薄く茜色に染まっていた。


 玄関の前で、ジルベール翁が、いつも通り、頭を下げてくださった。


「お嬢様、お帰りなさいませ」


 お嬢様、と呼ばれた声が、その日は、いつもより、私の中に深く落ちた。


 私はもう、奥方様ではなかった。


 パッリーニ家の娘として、私は、これからを生きる。


 その「これから」が、どんな形をしているのかは、まだ、私には見えなかった。

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