第6話 パッリーニの娘
神官長は、私が淹れた紅茶の最初の一口を、礼儀正しく口に含んでから本題に入られた。
「先日、お屋敷でお目にかかった折と、同じ茶葉でございますね」
「はい。リアン家の薔薇の実でございます」
パッリーニ家の客間は、ロッシュフォール家の客間より、一回り小さかった。けれどその分、声はよく通った。客間の中央には、円卓が一つ。私と父、そして神官長セレディウス・ヴァローネ様の三人が、それを囲んで座っていた。
神官長の前には、革表紙の大判の書物が、一冊置かれていた。
使者がお越しになった日から、二日後の午後だった。神官長は、約束の時刻に正確に到着された。供は連れずに、お一人で馬車から降りてこられた。
「パッリーニ卿」
神官長は、父の方に向き直られた。
「ご無沙汰しております」
「ご足労をいただき、痛み入る」
父は短く答えられた。けれど、その短さは、よそよそしさではなかった。十一年前から続いている、お二人の間の何かを、私はその時、初めて感じ取った。
神官長は、円卓に置いた革表紙の書物に、軽く手を添えられた。
「本日は、エマ様にお話し申し上げたいことがあり、参上いたしました」
はい、と私は答えた。
神官長の指は、書物の表紙を、撫でられた。表紙の革は、縁が摩耗していた。何度も繙かれた書物だった。
「まず、お詫び申し上げなくてはなりません」
神官長は、私の目を見られた。
「私は、神殿として、エマ様にご挨拶を申し上げる機会を、四年余り、得られませんでした。書状を三度、お送りいたしました。いずれもお手元には届かなかったと、先日、伺っております」
はい、と私はもう一度、答えた。
「神殿として、その三度の書状は、ロッシュフォール家へ正式にお送りしたものでございます。当主様を介さず、直接奥方様にお届けする方法もございました。けれども、家門への礼を欠かないことを優先いたしました。結果として、エマ様には、四年余り、ご無理をおかけしてしまいました」
神官長は、深く頭を下げられた。
私は、すぐには返事ができなかった。
神殿が私を四年余り、見ていたのだという。三度の書状は、私の知らないところで、夫の文箱の中で、開かれずに重なっていた。神官長は、その三度を覚えておられた。
「神官長様」
私は、ようやく口を開いた。
「お顔をお上げください。お詫びをいただく筋合いは、私にはございません」
「いいえ、エマ様」
神官長は、頭を上げないまま仰った。
「これは、エマ様お一人のお話ではございません。神殿として、お詫び申し上げる必要のあることでございます」
その「神殿として」が、私には分からなかった。
神官長は、ようやく頭を上げられた。
「本日、お話しいたしたいのは、エマ様のお生まれについてでございます」
神官長は、革表紙の書物を、円卓の中央に開かれた。
頁が、ぱりりと小さな音を立てた。長く閉じられていた頁が、空気に触れる時の音だった。
書物の頁には、家系図が描かれていた。父祖の名と、その配偶者の名、子の名、孫の名。線で繋がれた人物の名前が、何十も並んでいた。
「パッリーニ家の家系図でございます」
私は息を呑んだ。
父が、机の縁を、わずかに撫でられた。
「お父様、これは……」
「神殿に、お預けしてあったものなのだよ」
父はそう仰った。
「お前が嫁ぐ前年、私が神殿にお預けしたものだ。離縁の知らせを受けて、お返しいただいた」
十一年前、と神官長が補足してくださった。
「正確には、エマ様がご婚約をされる、一年と少し前のことでございます。パッリーニ卿が、当時の大神官に、ご請願をなさいました」
請願、と私は繰り返した。
「パッリーニ家のご令嬢が、いずれ嫁がれる時に、神殿としてその先のお家を守ってほしい、というご請願でございました」
私は、父の方を見た。
父は、目を伏せておられた。
「お父様、私が嫁ぐ時に、神殿にそんなお話をしてくださっていたのですか」
「お前のお母様の家のことだ」
父は、ようやく顔を上げられた。
「お前のお母様の家——パッリーニ家のご令嬢が嫁いだ先には、長く伝えられてきたことがある。お前は、知らずに育った。私が知らせなかったからだ」
私は、家系図の上に視線を落とした。
書物の頁には、私の知らない名前が、何十も並んでいた。けれどその名前の一つ一つに、共通する印が押されていた。女性の名の脇に、銀の月の小さな印影。家系図の中で、その印は、嫁いでいった女性たちの名にだけ、押されていた。
その中に、私の母の名があった。
パッリーニ家の前当主の娘、サビーヌ・パッリーニ。
名前の脇に、銀の月の印が、確かに押されていた。
「パッリーニ家は、古い時代から、土地守りの聖女の血筋でございます」
神官長は、静かに仰った。
「土地守り、でございますか」
「はい。嫁いだ先の土地と、血の契約を結び、その土地の繁栄を支える役目でございます」
血の契約、と私は心の中で繰り返した。
「契約は、ご本人が結ぶものではございません。嫁ぐ、というその行為そのものが、契約の成立でございます。それが古い時代から続いてきた、パッリーニ家のご令嬢の役目でございました」
「私には……」
私は声を出した。
「私には、その自覚は、ございませんでした」
「自覚を必要とするものではございません」
神官長は、優しく仰った。
「むしろ、自覚せずに嫁がれる方が、契約は穏やかに成立いたします。古い時代から、そうでございました」
私は、家系図の上の、母の名を、もう一度見た。
サビーヌ・パッリーニ。
母は、私を産んで間もなく亡くなった。私には、母の記憶はない。父の屋敷の階段の踊り場に、母の肖像画が一枚だけ飾られていた。子どもの頃、私はその絵の前を通るたびに、母の顔をじっと見ていた。
「お母様も、嫁がれた先で、契約を、結ばれていたのですか」
「はい」
父が答えられた。
「お前のお母様も、ご自分の血の意味を、ご存じではなかった。お母様は、二十二歳でお前を産んで、二十四歳で亡くなった。聖女の血を持つご令嬢は、土地を癒すことに、ご自身の生命力を使う。お母様は、若くして、力を使い果たされたんだ」
私は、息が止まりそうになった。
「お父様、では、私も……」
言いかけて、私は口を閉じた。
父が、首を振られた。
「お前は、もう契約を解いている。離縁の手続きが成立した瞬間に、ロッシュフォール家との血の契約は、お前から離れた。お前自身の生命力は、もう、お前のものに戻っている」
父の声は、低かった。
「お母様は、契約を解く前に、亡くなった。私は、お前にだけは、同じことを繰り返させたくなかったんだ」
私は、家系図の頁から、目を上げられなかった。
母の名の脇の、銀の月の印が、霞んで見えた。
「お父様」
はい、と父はお答えになった。
「お母様の家のことを、お話しくださらなかったのは……」
「私が、お前に話す勇気が、なかったからだ」
父は、はっきりと仰った。
「お前のお母様が亡くなった時、私は、お母様の家の伝承を、呪わしく思った。聖女の血など、知らないままでいる方が、お前のためになると思ったんだ。お前が嫁ぐ前に、神殿にお預けしたのは、その伝承を、私が一人で抱えきれなくなったからだ」
父の手が、円卓の縁を握っておられた。
「すまなかった」
その短い詫びを、父は、口の中で言われた。
私は、頭を振った。
「お父様が、お謝りになることでは、ございません」
声は、思ったよりも、震えなかった。
神官長が、紅茶のカップに口をつけられた。
私と父の間の沈黙に、無理に踏み込まれなかった。けれど、私たちが落ち着いてくることを、静かに待ってくださっていた。
書物の頁が、開かれたままになっていた。神官長はゆっくりと、次の頁をめくられた。次の頁には、別の家系図が描かれていた。
「ロッシュフォール家の家系図でございます」
頁の上に、四十年ほど前に嫁がれた方のお名前があった。私は知らない名前だった。けれど、お名前の脇には、銀の月の印が押されていた。
「先代侯爵様のお母様でいらっしゃいます。パッリーニ家から嫁がれました」
現当主の名は、頁の下の方にあった。
ウィルフリード・ロッシュフォール。
お名前の脇には、印は押されていなかった。けれど、その脇に、線で繋がれた私の名があった。エマ・ロッシュフォール。私の名前の脇に、銀の月の印が、新しい印影で押されていた。
「現当主様も、契約のことをご存じでいらっしゃるのですか」
私は問うた。
神官長は、すぐにはお答えにならなかった。書物の頁に、もう一度、視線を落とされた。
「神殿として、現当主様のご認識については、本日のお話の本筋から、外れます。それは、ロッシュフォール家のお話でございます」
神官長は、ゆっくりと頭を振られた。
「神殿として、エマ様にお話し申し上げるべきは、エマ様ご自身のお話のみでございます」
神官長は、私の感情に、無理に踏み込まれなかった。
私は頷いた。今、神官長から伺うべきお話ではない、ということだけが分かった。
神官長は、頁を一枚戻された。家系図の頁に、再びお戻しになった。
「エマ様」
はい、と私は答えた。
「エマ様が嫁がれた四年余りの間、ロッシュフォール家の領内では、井戸が枯れることがございませんでした。前年までは、北部の井戸に、すでに小さな水位の低下が見られておりました」
私は、息を整えた。
「リリーシュ様のご体調も、四年余りの間、安定しておられたはずでございます。リリーシュ様は、ご幼少の頃より、契約の効力の影響を強く受けるお体でいらっしゃいました。元来の虚弱体質に、契約の解けかけている時期が重なって、ご体調が崩れておられたのでございます」
「リリーシュ様の、ご病気は……」
「ご本来の虚弱体質でいらっしゃいます。契約の効力が及んでいる間は、その虚弱さが、穏やかな範囲に収まります。エマ様が嫁がれた年から、リリーシュ様の咳が止んだ、と先代侯爵夫人様も、書状で申されておりました」
マルガレーテ様の声が、不意に蘇った。
リリーシュの咳が止まったこと。北部の井戸が枯れずに済んだこと。私の手の節々が、冬でも痛まなくなったこと。
マルガレーテ様は、ご存じだった。私が嫁いだ年から、屋敷で起こっていたことを、お一人で見ておられた。けれど、ご自分から、私にはお話しにならなかった。それは、夫が知っているはずのことだったからだ。
夫が知っているはずのこと。
神官長は先ほど、現当主の認識については「本日のお話の本筋から外れる」と仰った。けれど、その仰り方には、確かに、何かがあった。
私は、その問いを、心の奥にしまった。今ではない、と思った。
神官長は、紅茶のカップを、ゆっくりと置かれた。
「エマ様」
はい、と私は答えた。
「神殿として、エマ様にお願いがございます」
「お聞きいたします」
「パッリーニ家のご令嬢の血は、神殿として、長くお守りしてまいりました。お預かりしている家系図も、お引き継ぎした書状も、すべてはエマ様の血をお守りするためのものでございます。エマ様の生命力が、ご自身のものとしてお手元に戻った今、神殿として、エマ様を、本来お居りになるべき場所にお迎えしたく存じます」
「本来、居るべき場所、でございますか」
「はい。神殿でございます」
神官長は、深く頭を下げられた。
「これは、ご庇護のお話ではございません。エマ様の血を、神殿としてお守りするための、お迎えのお話でございます。ご庇護として、ではなく、お迎えとして、お願い申し上げます」
神殿への、お迎え。
その意味を、私はその時、半分しか理解していなかった。聖女の血を持つ者として、神殿に身を寄せる、という意味だろうか。けれど、神官長の仰り方には、それ以上の何かが、含まれていた。
父が、口を開かれた。
「セレディウス殿」
「はい」
「エマには、考える時間が必要だ」
承知しております、と神官長はお答えになった。
「ご返事は、いつでも構いません。ご決断のための時間は、お取りください」
私は、家系図の頁に、もう一度目を落とした。
母の名の脇の、銀の月の印。
私の名の脇の、新しい印影。
二つの印が、線で結ばれているように見えた。
「神官長様」
はい、と神官長はお答えになった。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「何なりと」
「私は、ずっと、誰かを、癒していたのですか」
私は、家系図の頁から目を上げた。
神官長の目と、私の目が合った。
神官長は、ゆっくりと頷かれた。
「エマ様が嫁がれた日から、ロッシュフォール侯爵領は、枯れずに済んでおりました」
その一言の重さを、私は、頭の中で受け止めるのに、時間がかかった。
四年余り。
私は、自分でも気づかないうちに、義妹を癒し、井戸を守り、姑の手の節々を癒し、五百年の樹を保ち、領地全体の繁栄を支えていた。私が屋敷で務めていたのは、奥方の役目だけではなかった。
その上で、夫が何を知っていたのかは、神官長は語られなかった。
けれど、神官長が語られなかったということ自体が、答えの一部のように、私の中に残った。
神官長は、その日のうちに、お帰りになった。
革表紙の書物は、円卓の上に置いていかれた。
「お預かりください」
神官長はそう仰った。
「ご自分の血の証として、エマ様のお手元に置いていただくものでございます。神殿に戻すのは、エマ様のご決断を伺ってから、で構いません」
承知しました、と私は答えた。
玄関広間まで、私はお見送りに立った。父も同行された。神官長は、馬車に乗り込まれる前に、もう一度、私の方に向き直られた。
「エマ様」
はい、と私は答えた。
「四年余り、お会いできず、申し訳ございませんでした」
神官長は、深く頭を下げられた。
その頭の下げ方を、私は最後まで見届けた。社交辞令ではない、一人の方が、もう一人の方に対して、長く保留にしてきた何かを、ようやく口にする時の頭の下げ方だった。
「神官長様、お顔をお上げください」
神官長は、ゆっくりと頭を上げられた。
「お会いできたことを、感謝いたします」
私はそう申し上げた。
神官長は、頷かれた。それから、馬車に乗り込まれた。
馬車が動き出すのを、私は門のところまで出てお見送りした。父も隣に立ってくださっていた。馬車が街路の角を曲がるまで、私は見ていた。
馬車が見えなくなってから、父が、静かに仰った。
「お母様の肖像画を、書斎にお持ちしようと思ってね」
「はい」
「お前と一緒に、もう一度、見たいんだ」
「はい、お父様」
私たちは、屋敷に戻った。
その日の夕方、書斎で、父と私は、母の肖像画を見ていた。
絵の中の母は、二十二歳の若さで、銀の月の意匠の襟元を、レースで飾っていた。
子どもの頃から見てきた絵だった。けれど、その日初めて、私は母の襟元の意匠を、ちゃんと見た。
銀の月。
パッリーニ家の紋章であり、神殿の紋章でもあり、私が嫁いだ朝に、屋敷の門で見上げた印影でもあった。
すべては、繋がっていた。
私一人が、繋がっていることを、知らずに生きていた。
その夜遅く、神殿の使者がもう一度、屋敷を訪れた。
ジルベール翁が、玄関広間で短い書状を受け取った。
「お嬢様、神官長様より、お急ぎの書状でございます」
封を切ると、短い一行だけが書かれていた。
「北部の井戸の、二つ目が涸れたとの報せが届きました。お知らせまで」
神官長の筆跡だった。
書状の上に、署名は、なかった。




