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義妹の病を癒していたのは、私でした 〜離縁の翌日から、奇跡は止まりました〜  作者: 秋月 もみじ


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第5話 離縁の翌朝


 四年分の荷物は、思っていたよりずっと少なかった。


 持参してきた品々、嫁いでから揃えた小物、リリーシュ様にお渡しする予定だった首飾りの箱。すべて整理し終えると、馬車に積む木箱はたった六つで済んだ。私が四年余りかけて、この屋敷に持ち込んだものは、それだけだった。


 離縁手続きが完了したのは、申し入れから二週間後の朝だった。教会の正式な承認印が、書面に押された。その瞬間から、私は法的にロッシュフォール家の人間ではなくなっていた。


 屋敷を発つ朝、玄関広間に、使用人たちが二列に並んでくださっていた。


 執事、老侍女頭、調理場の主任、庭師、御者頭、その下の侍女たち。総勢二十名近く。全員、深く頭を下げておられた。


「皆さん」


 私は短く声をかけた。


「四年余り、お世話になりました」


 頭を下げ返してから、私は一人ずつ、お名前で礼を言った。料理を整えてくださった調理場の方には、季節の献立に何度助けられたかを伝えた。庭の手入れをしてくださった方には、薔薇の品種について教えてくださったことの礼を申し上げた。


 誰の前でも、私は涙を流さなかった。


 涙を流す権利を、私はもう、ここでは持っていなかった。


 最後に、姑のマルガレーテ様が、階段の上に立っておられた。


 お見送りには出ない、と申されていたはずだった。それなのに、マルガレーテ様は降りてこられて、玄関広間の中央で、深く頭を下げられた。


 私は驚いた。


 姑が、嫁いだ娘に頭を下げる場面ではなかった。爵位の高い方が、低い方に礼を尽くす場面でもなかった。けれどマルガレーテ様は、長く、その姿勢を崩されなかった。


「マルガレーテ様」


 私はお名前を呼んだ。


「奥方様」


 マルガレーテ様は、頭を上げないまま、低く仰った。


「私は、息子に伝えるべきことを、軽すぎる声で伝えてしまいました。私の罪でございます。お許しいただけるとは思っておりません。ただ、私の家にいてくださって、ありがとう存じました」


 その言葉を、私は最後まで聞いた。


 マルガレーテ様が、何のことを仰っているのかを、私はその時、半分しか理解していなかった。


「お顔を、お上げください」


 私は申し上げた。


 マルガレーテ様は、ゆっくりと頭を上げられた。私と目が合った時、初めて、その目が潤んでいるのが分かった。けれど涙はこぼれていなかった。流す前に止めるのは、長く奥方の地位にあった方の癖だった。


「お母様」


 私はもう一度、その呼び方で申し上げた。法的にはもう、私が「お母様」とお呼びする方ではなくなっていた。けれど、最後の一度だけ、そう呼ばせていただきたかった。


「お身体、お大事になさってください」


 マルガレーテ様は、頭を一度、頷かれた。


 夫の姿は、玄関広間にはなかった。


 離縁状の同意書を私に届けた朝以来、私は夫と顔を合わせていなかった。リリーシュ様の容態が急に思わしくなくなり、夫はリリーシュ様の枕元についておられる、と侍女から聞いていた。


 馬車に乗り込む前に、私はもう一度、屋敷の方を振り返った。


 北の庭の、五百年の古樹が見えた。


 枝先は、まだ青さを残していた。けれど、根元の土に盛り上がりがあり、その盛り上がりの脇に、新しい添え木が立てかけられていた。庭師の方が、根の傷を支えようとされた跡だった。


 その樹が、いつまで葉を保つのかは、誰にも分からなかった。



 馬車の中で、私は窓に額をつけて、外を見ていた。


 屋敷の門を出た時、私は不思議と、軽くなった気がしなかった。重さがなくなったのではなく、重さの種類が変わった。背負っていたものを置いてきたかわりに、置いてきた重さの輪郭が、はっきり見えるようになっていた。


 御者の方が、街道の角を曲がる前に、声をかけてくださった。


「お嬢様、もう一度だけお屋敷の方をご覧になりますか」


「結構です」


 私はそう答えた。


 お嬢様、と呼ばれたことが、不思議だった。四年余り、私は「奥方様」と呼ばれて生きてきた。それが、馬車に乗った瞬間から「お嬢様」に戻った。御者の方の中では、私はすでに、パッリーニ家の娘に戻っていた。


 角を曲がる時、馬車が一度、軽く揺れた。


 私はそれきり、窓の外を見るのをやめた。



 パッリーニ家の本邸は、王都の北西、古い貴族街の一角にあった。


 屋敷の正面には、銀の月の文様が彫られた、古い石の門があった。子どもの頃から見てきた門だった。けれど今日に限って、私はその石の文様を、しばらく見上げていた。


 神殿の銀の月と、同じ意匠だった。


 馬車から降りた私を、父アルベール・パッリーニが、玄関の階段の下で迎えてくださった。


「お帰り」


 父は、それだけ仰った。


 四年余りぶりに、私が父の家の敷地に足を踏み入れた朝の、最初の一言だった。


「ただいま戻りました」


 私はそう答えた。


 父は、私を抱き寄せたりはなさらなかった。手を取ることもなさらなかった。ただ、玄関の扉の方を一度、手で示してくださった。中に入りなさい、という意味だった。


 玄関広間に入ると、老執事のジルベール翁が、私の方に深く頭を下げてくださった。


「お嬢様、お帰りなさいませ」


 お嬢様、と呼ばれて、私は一瞬、答え方に詰まった。


 ジルベール翁の声には、躊躇がなかった。私が嫁いでから、ジルベール翁の中で、私は「奥方様」だったはずだった。けれど離縁の知らせを受けた瞬間から、ジルベール翁の中では、私はまた「お嬢様」に戻っていた。


 四年余りの時間を、ジルベール翁の声は、一晩で巻き戻していた。


「ジルベール、ありがとう」


 私はそう答えた。


 他の使用人たちは、玄関広間には並んでいなかった。父が、そう仰ったのだろう。お見送りはあちらの屋敷で済ませてきたはずだ、こちらでまた並ぶ必要はない、と。


 控えていたのは、ジルベール翁と、若い侍女が一人だけだった。


「エマ様、お荷物をお部屋にお運びいたします」


 若い侍女が、馬車の方を示しながら、そう仰った。


 エマ様。


 ジルベール翁とは別の呼び方だった。けれどそれも、間違いではなかった。父の屋敷では、ジルベール翁のような古参の方は「お嬢様」、若い使用人たちは「エマ様」と呼ぶ。子どもの頃からの取り決めだった。


 お嬢様、エマ様。


 二つの呼び方が、私を出迎えた。


 奥方様、ではなかった。


 その違いに、私は思いがけず、息をついた。



 昔の部屋は、出立した時のままで保たれていた。


 寝台の位置も、書き物机の向きも、本棚の本の並びも、何一つ変わっていなかった。鏡台の上の小さな硝子細工——銀の月の意匠の置物——も、同じ場所にあった。


 子どもの頃、私はその硝子細工を毎日見て育った。父が「お母様の家の紋章だ」と教えてくださった。けれど、その紋章が、神殿の紋章と同じ意匠であることは、当時の私は知らなかった。


 午後、私は寝台の縁に座って、長く窓の外を見ていた。


 窓からは、パッリーニ家の中庭が見えた。中庭の中央には、年月を経た楓の木が一本、立っていた。ロッシュフォール家の五百年の樹のような威厳はなかった。けれど、その楓の方が、私の子どもの頃の記憶には、よほど深く刻まれていた。


 寝台の隣の小卓に、若い侍女が紅茶を運んできてくれた。


「エマ様、夕食までお時間がございます。少しお休みになってくださいませ」


「ありがとう」


 私はそう答えた。


 侍女が下がってから、私は紅茶のカップに口をつけた。屋敷で淹れていた紅茶とは、葉の銘柄が違った。少しだけ、薔薇の実が強かった。けれどその味は、子どもの頃に飲んだ味と、ほとんど変わらなかった。


 四年余りの時間を、舌は覚えていた。



 翌朝、私は早くに目を覚ました。


 窓の外は、まだ夜明け前の薄暗さだった。中庭の楓は、影しか見えなかった。


 寝台から出て、私は窓辺に立った。空気は冷えていた。夏の終わりにしては、冷たすぎる朝だった。


 屋敷の方では、と私はふと考えた。


 北部の井戸は、どうなっただろうか。


 昨日の朝、私は屋敷を出た。今朝、屋敷では、リリーシュ様の容態が変わったかもしれなかった。あの方は、季節の変わり目に必ず熱を出される。今日は、出される時期ではなかった。けれど、私が屋敷を出た朝に、リリーシュ様の調子が崩れていなければ、おかしかった。


 なぜそんなことを考えるのか、自分でも分からなかった。私はもう、ロッシュフォール家の人間ではなかった。リリーシュ様の薬の手配も、引き継ぎの目処をつけて出てきていた。私が気にかけるべきことではなかった。


 それでも、考えた。


 風が一度、窓を叩いた。


 葉が揺れる音がした。庭の楓ではなかった。もっと遠く、屋敷の外の街路樹の方から聞こえた音だった。


 窓を閉めて、私は寝台に戻った。



 朝食の時間、ジルベール翁が父の食堂に私を呼びに来てくださった。


「お嬢様、お父様が朝食をご一緒にと」


 承知しました、と私は答えた。


 食堂に入ると、父はすでに席についておられた。長卓の上座に父、その向かい側に私の席が用意されていた。子どもの頃、私はいつも父の右隣の席に座っていた。けれど今朝は、対面の席だった。


 四年余り、私を一人の女性として扱ってくださる形だった。


「よく眠れたかね」


 父はそう仰った。


「はい、お父様」


 私はそう答えた。


 朝食は、簡素なものだった。トーストと、果物の薄切り、ハム、そして紅茶。父はあまり食べる方ではなかった。お一人で召し上がる時は、もっと少ない量で済ませておられるはずだった。


「お父様、私の帰宅のお知らせを、どなたかにお出ししましたか」


 私はそう問うた。


 父は、紅茶のカップを置かれた。


「神殿には、お知らせしたよ」


 私は手を止めた。


「神殿、ですか」


「お前が嫁ぐ前、私は神殿に一つ、お預けしていたものがあったんだ。離縁の知らせを受けた時、それをお返しいただく必要があると思ってね。神殿にはすでに、お前が戻ってきたことを伝えてある」


 父の声は穏やかだった。けれど、その「お預けしていたもの」が何であるのかは、お話しにならなかった。


「神官長様が、お会いしたいとのことだ。お前が会うかどうか、お前が決めなさい」


 神官長様が、私に。


 四年余りの間に三度、書状を送ってくださった方だった。あの三通は、夫の文箱の中で、開封されないまま私を待っていた。今度の四度目は、私の手元に、直接届く。


「お会いいたします」


 私はそう答えた。


「いつ、お越しになるのですか」


「お前が落ち着いたら、と仰っていた。日にちはお前から指定して構わない、とのことだ」


 承知しました、と私は答えた。


 その時、執事のジルベール翁が、食堂の入口で軽く咳をされた。


「お嬢様、神殿からの使者が、玄関にお越しでございます」


 父と私は、目を見合わせた。


「今、ですか」


「はい」


 父は、ナプキンを折り畳まれた。


「予定よりも早いね。お前が落ち着いてからで構わない、と私は申し上げておいたんだが」


 私は立ち上がった。


「お会いいたします」



 玄関広間に降りていくと、神殿の使者の方が、お一人でお立ちになっていた。中年の、神官の長衣を召された方だった。私を見ると、深く頭を下げられた。


「ロッシュフォール侯爵夫——」


 使者の方は、そこで言葉を止められた。


 失礼いたしました、と短く詫びて、もう一度、頭を下げ直された。


「奥方様……ではなく、エマ様。神官長より、ご都合の良い日時を伺いたく、参上いたしました」


 奥方様、ではなく、エマ様。


 その言い直しを、使者の方は丁寧にしてくださった。私の離縁を、神殿はすでに正式に把握しておられた。把握したうえで、正しい呼称を準備して、こちらに来てくださった。


「神官長様には、お忙しいところを、ありがとう存じます」


 私は深く礼をした。


「日にちは、神官長様のご都合に合わせていただければと存じます。私は、しばらくはこちらにおりますので」


「では、明後日の午後はいかがでしょうか。神官長より、その日でしたら、確実にお時間を取れる、と伺っております」


「承知いたしました。お待ち申し上げております」


 使者の方は、再び深く頭を下げて、馬車に戻っていかれた。


 玄関広間に、ジルベール翁が控えておられた。


「お嬢様、朝食の続きはいかがなさいますか」


「いただきます」


 私は食堂へ戻った。


 歩きながら、私はもう一度、使者の方の言葉を口の中で繰り返した。


 奥方様、ではなく、エマ様。


 四年余り、私を「奥方様」と呼んでくださった方々の声が、神殿の使者の一人の言い直しによって、すでに過去のものになっていた。


 不思議な気持ちだった。


 悲しいわけでもなく、清々しいわけでもなかった。ただ、自分の呼ばれ方が変わっていく、その途中にいるのだという感覚だけが、足元に積もっていた。


 食堂で、父が私を待っておられた。


「神官長様、いつお越しに」


「明後日の午後、お越しくださるそうでございます」


 父は、頷かれた。


「お前が、お会いするのだね」


「はい、お父様」


 父は、それきり、何も仰らなかった。ただ、紅茶を一口、ゆっくりと召し上がった。父が何かを言葉にする前に確かめる時の、長年の癖だった。


 明後日の午後。


 四年余り待たれた方と、初めて、夫を介さずにお会いする日だった。


 窓の外で、楓の葉が一枚、地面に落ちた。


 その音は、私の場所からは、聞こえなかった。

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