第4話 君なら分かってくれる、ですか
三通の封蝋を、私は朝の光の下でもう一度確かめた。
夜の蝋燭の灯りでは、模様の細部までは見えなかった。けれど、朝の窓辺に並べてみると、銀の月の紋章は、いずれも同じ印影で押されていた。神殿が公文書に用いる、正式な封蝋だった。
私は三通を、机の上に並べた。
封の蝋は、いずれもまだ無傷だった。一通目に、ほんのわずかな指の跡があるだけで、誰の手にも開かれていない。
寝室の机に運んだのは、本来してはならないことだった。夫の文箱から、夫が処理していない書状を持ち出した。それは妻として、屋敷の女主人として、礼を欠いた行為だった。
けれど、宛名は私の名だった。
ロッシュフォール侯爵夫人 エマ・ロッシュフォール様。
差出人の名は、セレディウス・ヴァローネ。
封を切るのに、私は震えなかった。指は思っていたよりも落ち着いて動いた。一通目から順に、刃で封蝋を切り離していった。
一通目は、嫁いで間もない頃の日付だった。
四年と数か月前。私が嫁いだ年の、晩秋のことだった。神殿として、新たにロッシュフォール家へ嫁がれた奥方様にご挨拶を申し上げたく、訪問の許可を願う書面だった。
二通目は、三年前の夏。
領内の収穫祭に合わせ、神殿として奥方様への正式な来訪を願う書面。
三通目は、昨年の春。
領内北部の井戸の水位低下について、奥方様に直接ご相談申し上げたい旨の書面。
いずれも、神官長セレディウス・ヴァローネの自筆だった。文面の運びは静かで、押しつけがましさのない、けれど確かに「奥方様にお会いしたい」と書かれた書状だった。
四年余りの間に、三度。
私の知らないところで、神官長は私に会おうとされていた。そしてその三度の書状は、いずれも夫の文箱に届いてから、開かれることなく放置されていた。
昨夜の文箱には、開けかけて止めた跡が、一通目にだけ残っていた。
夫は一度だけ、開けようとしたのだ。
開けて、止めた。
そしてそれ以来、二通目も三通目も、開けなかった。
朝食の前に、姑のマルガレーテ様がお越しになった。
私の私室の応接間に、お一人で入ってこられた。侍女は廊下に控えさせておられた。
「奥方様」
「マルガレーテ様、おはようございます」
私は深く礼をした。マルガレーテ様は、椅子の前に立たれたまま、すぐにお座りにはならなかった。
「奥方様、お顔の色が優れませんね」
その一言で、私はマルガレーテ様の目を真っ直ぐに見られなかった。
「眠りが浅うございました」
「夜中に何かお書きでしたか」
マルガレーテ様の目は、私の机の方を一度だけ、ご覧になった。
机の上は、私が朝のうちに片付けていた。けれど、三通の書状を読んだ気配は、私自身に残っていた。マルガレーテ様は、それを見抜いておられた。
「マルガレーテ様」
「はい」
「お母様は、いつから、ご存知でしたか」
私は問いの主語を抜いた。何のことかを、私は具体的には言えなかった。けれど、マルガレーテ様には伝わると思った。
マルガレーテ様は、ようやくお座りになった。
「私が知っているのは、ご令嬢が嫁いでこられた時から、この家が穏やかになった、ということだけです」
マルガレーテ様の声は、低く、けれど揺るぎなかった。
「リリーシュの咳が止まったこと。北部の井戸が枯れずに済んだこと。私の手の節々が、冬でも痛まなくなったこと。そして、五百年の樹が、嫁ぎ初年に花をつけたこと」
花、と私は繰り返した。
「あの樹が、花をつけたのですか」
「百年に一度しか咲かないと言われていた花でございます。私もこの目で見たのは、初めてでございました」
私は知らなかった。嫁いだ初年に、屋敷の樹が花をつけたことを、誰も私に伝えていなかった。
「夫は、ご存じでしたか」
マルガレーテ様は、目を伏せられた。
「あの子は、見ました。けれど、その意味を確かめようとはしませんでした」
その言い方で、私は分かってしまった。
マルガレーテ様は、夫に、何かを伝えようとされていた。何度か、伝えようとされていた。そしてそのたびに、夫は確かめようとしなかった。
「奥方様」
マルガレーテ様が、私の手を、ほんのわずかにご覧になった。机の縁を、指の腹で押していた手だった。私はその手を引いた。
「お話の続きは、また改めて」
私はそう申し上げた。
マルガレーテ様は、それ以上、踏み込まれなかった。立ち上がる時、椅子の縁を一度、軽く撫でて行かれた。
扉が閉まった後、私は窓の外の樹を見た。
花の咲いた年があったのだという。
私は、自分が嫁いだ年に、屋敷の庭で咲いたものを、知らないままここまで来ていた。
朝食の後、私は夫の書斎を訪ねた。
夫は机に向かい、リリーシュ様への手紙を書いておられた。長卓に座って、お茶を召し上がるリリーシュ様の様子を、医師に報告するための手紙だった。
「エマ、丁度良かった。今夜の茶会の件で——」
「ウィルフリード様」
私は夫の言葉を遮った。
夫が、初めて、私の顔をご覧になった。
私は、三通の書状を、夫の机の上に置いた。封の蝋は、すでに切ってあった。差出人の名を、夫はすぐに見抜かれた。
「これは……」
夫の声は、わずかに揺れた。
「神殿からの、私宛ての書状でございます」
夫の目が、書状から、私の顔へ動いた。
「君が、なぜ持っているんだ」
「昨夜、書斎で書類整理をしている時に、見つけました。文箱の中に、三通とも、開けられないまま入っておりました」
夫の手が、机の縁を一度、軽く握られた。
「エマ、あれは——」
「四年余り前から、神官長様は、私に正式な来訪を、三度申し入れてくださっておりました」
夫の口が、何かを言いかけて、止まった。
その止まり方を、私は確かめた。
夫は、知っておられた。
今、初めてご覧になった、というご様子ではなかった。三通の書状を、目にしたことがある、という反応だった。一通目に残っていた指の跡を思い出した。あれは、夫の指の跡だった。
「エマ、誤解しないでくれ。神殿の書状は、形式的なものが多い。新しく嫁いだ夫人へのご挨拶など、必ずしも本人に直接お会いする必要はないんだ。神殿への返事は、私が当主として書いておいた」
「三度とも、ですか」
「……ああ」
「そして、私には、お知らせにならなかった」
夫は、机の縁から手を離した。
「君を煩わせたくなかったんだ」
「煩わせる」
私はその言葉を、口の中で繰り返した。
「私の名宛ての書状を、私が読むことを、煩わせると仰るのですか」
「エマ、そういうことではなくて」
夫は、椅子から立ち上がられた。机を回って、私の方に近づこうとされた。
私は一歩、退いた。
その一歩で、夫は止まった。
「あの頃は、リリーシュの体調が悪い時期と重なっていたんだ。君は新婚で、屋敷に慣れることだけでも大変だった。神殿との儀礼は、当主の私が処理するのが筋だ。君に余計な気苦労を負わせたくなかった」
夫の言葉は、いつもと同じだった。
優しい理由が、いつでも用意されていた。
「君なら、分かってくれると思っていた」
その一言を聞いた時、私はゆっくりと息を吐いた。
怒りではなかった。声を荒げる衝動も、扇を握りしめる動きも、私の中には起こらなかった。
ただ、ひどく疲れた。
四年余り。新婚の私を煩わせまいとしてくださった理由が、四年後の今も、同じ言葉で繰り返されていた。一年目に書状が来た時、夫はそう判断された。二年目も、三年目も、同じ判断を繰り返された。
そして今、四年目の私の前で、夫はその判断を、間違っていないとお考えだった。
「ウィルフリード様」
はい、と夫はお答えになった。
「あなたが、優しい方であることを、私は信じておりました」
夫の表情が、緩んだ。
その緩み方を、私は最後まで見届けた。
「ただ、分かりたくありません。もう」
夫の顔が、ゆっくりと変わった。
怪訝な顔だった。聞き間違いだと思っておられる顔だった。
「エマ、何を言って——」
「ウィルフリード様、妻として、お側におりますことに、限界を覚えております。離縁の申し入れを、近日中に、正式に書面でお出しいたします」
夫は、机に両手をついた。
「待ってくれ。落ち着いて、話を——」
「落ち着いてございます」
私はそう申し上げた。
「お話を、聞いていただけませんか」
夫は、口を開けて、何も仰らなかった。
その表情を、私は記憶した。
屋敷に嫁いで四年余り、夫が初めて、言葉に詰まった瞬間だった。
書斎を辞して、自分の私室に戻る途中で、執事と老侍女頭が、廊下の角でお待ちになっていた。
二人とも、深く頭を下げられた。
「奥方様」
執事が、先に口を開かれた。
「お話、お聞きしてしまいました。出過ぎたことを、お許しください」
私は首を振った。
「廊下でお話をしたのは、こちらでございます」
「奥方様」
老侍女頭が、続けて頭を下げられた。
「奥方様がこの屋敷でなさってきたお仕事を、私どもは見ておりました。奥方様のご決断を、私どもはお支えいたします」
その言葉は、ひどく静かだった。
大声でお支えします、と仰る方ではなかった。けれど、四年間、奥方様の働きを見ておりました、と仰る声には、四年分の重みがあった。
「ありがとう存じます」
私は頭を下げた。
二人とも、私の方が頭を下げ終わるまで、頭を上げられなかった。
私室の机に戻って、私は離縁状の草案を書き始めた。
筆は、思っていたよりも進んだ。屋敷の差配の引き継ぎについて、必要な日数のこと、私の持参品の取り扱いのこと、リリーシュ様のお薬の手配について、誰に引き継ぐべきか。書きながら、私は何度か、ペンを止めた。止めたのは、感情が溢れたからではなかった。引き継ぎ事項が、思っていた以上に多かったからだった。
書き終わるのに、三日かかった。
書き上げた離縁状を、私は夫の書斎に届けた。夫は、その日のうちには、お返事をくださらなかった。翌日も、その翌日も、お返事はなかった。
四日目の朝、夫からの同意の書面が、私の私室に届いた。
文面は短かった。離縁に同意する旨が、簡潔に書かれていた。末尾に、リリーシュ様の体調を案じる言葉が一行、添えられていた。私の体調を案じる言葉は、なかった。
その夕方、近くで何かが裂ける音がした。
窓の外に目をやると、庭師の方が、五百年の古樹の前に駆け寄っていくのが見えた。
私は、同意書を文箱に置いた。
階下に降りて、玄関から庭に出た。古樹の前には、すでに執事もお立ちになっていた。
樹の幹の根元から、太い根が一本、地面の中で裂けていた。地表に持ち上がった土の塊から、根の断面が見えた。色は、まだ青みを残しているが、断面の中心が、わずかに黒ずんでいた。
「五百年の樹が」
庭師の方の声が震えていた。
「根元から、内側で枯れておりました」
私は何も言えなかった。
今朝、私は窓辺で、この樹を見た。葉は青く茂っていた。枯れる気配など、外からは見えなかった。
けれど、樹の内側では、すでに何かが始まっていたのだ。
夫が、書斎の窓から、こちらをご覧になっていた。
私は振り返らなかった。
離縁状の正式な受理を待つ夜が、まだ続いていた。




