第3話 隣席は埋まっていた
席次表には、確かに私の名前が、夫の隣に書かれていた。
その紙を私は、馬車の中で一度だけ確かめていた。隣家の伯爵夫人主催の茶会の招待状に同封されていた、簡素な席次の写し。中央の長卓の上座にウィルフリード様、その隣に私、向かいに伯爵夫人ご夫妻。そして、招待客一覧の最後に、リリーシュ・ロッシュフォール様のお名前があった。
義妹の名は確かにあった。けれど、席次の図には書かれていなかった。当然、書かれない。今日の茶会は、伯爵家とロッシュフォール家の、当主夫婦同士の親交を深める場だった。
「リリーシュも連れていく」
屋敷を出る直前、夫はそう仰った。
「あの子も久しぶりに外の空気を吸いたいと言っているんだ。エマ、構わないだろう」
構わないかどうかを問われたのは、私だった。けれど、答える時間は与えられなかった。リリーシュ様はすでに馬車に乗り込んでおられた。
「お姉様、ご一緒させてくださいませ」
その呼び方も、いつもの通りだった。「お姉様」と呼んでいただけたのは、嫁いだ最初の月だけだった。
「ええ、もちろん」
私は短く答えた。
席次表を畳んで、膝の上に置いた。三人で行く茶会の席次がどうなるのか、考えるまでもなかった。
伯爵家の客間は、白い柱に薔薇のレリーフが彫られた、上品な造りだった。
「ようこそお越しくださいました」
伯爵夫人が玄関広間まで降りてきて、お出迎えくださった。私が深く礼をすると、伯爵夫人は微笑まれた。けれどその微笑みは、夫とリリーシュ様の方を一瞥された瞬間、ほんのわずかに固まった。
「あら、リリーシュ様もご一緒でしたのね」
予定外の同行者がいる時の、伯爵夫人の正しい応対だった。
「妹がどうしてもと申しまして」
夫が、リリーシュ様の肩に手を置きながら答えられた。
「久しぶりに、奥方様と義姉君の集まりに加わりたいそうで」
「まあ、それは何より」
伯爵夫人は頷かれて、案内係の方を一瞥された。案内係の若い令嬢が、慌てて長卓の方へ走っていった。椅子を一つ、追加しなければならなかった。
私は、伯爵夫人の視線の動きを見ていた。
目の動きだけで、夫人は案内係に、誰の席の隣に椅子を追加するかを指示しておられた。けれど、その指示は、夫が決めた配置とは違っていた。
客間に通されると、長卓の前で、夫が一歩前に出られた。
「エマ」
はい、と私は答えた。
「リリーシュは、長く椅子に座っていると疲れるんだ。途中で席を離れることもあるだろう。私の隣にいさせてやってくれないか。君は、伯爵夫人と話す時間が多くなるだろうから、向かいの方が話しやすいだろう」
夫の言葉は、礼儀正しかった。理にかなっているようにも聞こえた。けれど、それは席次表を無視するという意味だった。
伯爵夫人の扇が、膝の上で静かに動いた。閉じたまま、扇の縁を指でなぞる動き。私はその動きを、二日前にも見ていた。
「いつものことだろう、エマ。君なら分かってくれる」
夫がそう仰った。
承知いたしました、と私は言うつもりだった。けれど、声を出す前に、伯爵夫人が短く咳をされた。
「ウィルフリード様、本日の席次は私どもでご用意したものでございます」
伯爵夫人の声は、低く、けれど明瞭だった。
「リリーシュ様のお席は、奥方様のお隣にご用意いたしました。リリーシュ様がお疲れになった際は、隣の控えの間でお休みになれるよう、こちらで手配いたしますわ」
伯爵夫人は微笑んでおられた。社交の場で身分の差を意識させずに、自分の家の主導権を取り戻す微笑みだった。
夫は一瞬、何かを言おうとされて、結局頷かれた。
「お気遣い、痛み入ります」
席につく時、リリーシュ様が小さな声で私の方を見られた。
「お姉様……ごめんなさい」
私は首を振った。
「リリーシュ様が謝るようなことは、何もございません」
その通りだった。リリーシュ様には、悪意はなかった。
ただ、ここで「ごめんなさい」と仰る方は、本来、隣に立っておられたはずだった。
茶会の間、伯爵夫人は、私と長く話してくださった。
季節の蘭の話、王都の刺繍工房の話、新しく出版された詩集の話。話題はいずれも穏やかで、政治にも家庭にも踏み込まないものだった。けれど、伯爵夫人が私に向ける視線には、いつもより少しだけ長い間があった。
夫は、リリーシュ様にお茶のおかわりを注ぐ案内係に、何度か声をかけられていた。
「もう少し冷ましてからにしてくれないか。妹は熱いのが苦手なんだ」
案内係の若い令嬢は、その都度、頭を下げて応じておられた。けれど、四度目に同じ指示を受けた時、その方の指先が震えた。私の席からも見えた。
伯爵夫人は、その様子を見ておられた。見ておられて、何も仰らなかった。
話題が、ふと途切れた時のことだった。
伯爵夫人が、扇を一度だけ開いて、また閉じられた。
「奥方様」
はい、と私は答えた。
「お屋敷の北の庭には、まだ五百年の樹がございますか」
突然の問いに、私は一瞬戸惑った。
「ええ、ございます」
「あれは、ロッシュフォール家のお家の樹ですわね。私の祖母が、若い頃に拝見したと申しておりました」
拝見した、と伯爵夫人は仰った。樹を、お祖母様が、拝見した、という言い方だった。
「ええ。今年も葉を青く茂らせております」
伯爵夫人は、それを聞いて、ゆっくりと頷かれた。
「それは何よりですわ」
そこから話題は変わった。けれど、私の頭の中には、伯爵夫人がなぜその樹のことを問われたのかが、引っかかったまま残った。
神官長も、樹のことを仰った。
神殿の文書に、屋敷の樹が記録されている。お屋敷の樹が無事であることは、領内の無事と繋がっている、と。
伯爵夫人のお祖母様は、その樹を拝見しに来られたことがあった。
私の知らないところで、誰かがあの樹のことを、よく知っていた。
帰り際、玄関広間で、伯爵夫人は私一人を、扉の外まで送ってくださった。
夫とリリーシュ様は、先に馬車の方へ向かっておられた。伯爵夫人は、その背中を一度確かめてから、少しだけ私の方に身を寄せられた。
「奥方様、お身体だけは、お大切に」
お身体だけは、と伯爵夫人は仰った。
他のものはともかく、お身体だけは、という言い方だった。それは、別れの挨拶としては、少し重すぎる言葉だった。
「ありがとう存じます」
私は深く礼をした。
伯爵夫人は、それきり、私を見送ってくださった。
馬車に戻ると、リリーシュ様が窓の外を見ておられた。
「お姉様、楽しい茶会でしたね」
「ええ」
私は短く頷いた。本心では、楽しかったとは言えなかった。けれど、リリーシュ様に分かってもらう必要はなかった。
帰路の馬車の中で、夫は手帳を開いて、何やら書き込んでおられた。私の隣で、リリーシュ様は途中で眠ってしまわれた。私はその二人を見ながら、伯爵夫人の最後の言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
お身体だけは、お大切に。
屋敷に戻った夜、夫が私に書類整理を頼んでこられた。
「明日の朝までに、領地の収支報告書をまとめておいてほしいんだ。北部の井戸の修繕費の項目だけ、私が後で目を通す」
承知いたしました、と私は答えた。
書斎に入って、私は机の前に座った。机の右手に、夫の文箱が置かれている。蓋の隅から、白い封筒の角が一つ、はみ出していた。神官長がお越しになった夜に見た、あの封筒だった。
夫はもう寝室に上がられていた。
文箱に触れるべきではなかった。けれど、私は手を止めなかった。蓋を持ち上げると、中には書状が、整理されないまま積まれていた。
その中に、銀の月の封蝋が押された書状が、三通あった。
いずれも、まだ封が切られていなかった。
宛名は、すべて「ロッシュフォール侯爵夫人 エマ・ロッシュフォール様」と書かれていた。
差出人は、神殿。
神官長・セレディウス・ヴァローネの名で、封蝋が押されていた。
三通の封蝋を、私は順番に持ち上げた。一通目の封蝋には、ほんのわずかに、指で押したような跡があった。一度開けようとして、ためらった指の跡。残りの二通には、その跡もなかった。
いつ届いた書状なのか、確かめる方法はなかった。
けれど、夫の口から、神殿から私宛ての書状が届いたという話を、私は一度も聞いていなかった。
書斎の窓から、夜の庭が見えた。
五百年の古樹が、月光を受けて、いつもと同じ場所に立っていた。葉の一枚が落ちる音もしなかった。
私は文箱を、もとの通りに閉じた。
三通の書状は、文箱の中にそのまま残した。
寝室に戻る途中で、廊下の角に、姑のマルガレーテ様の侍女がお立ちになっていた。私を見ると、軽く頭を下げられた。
「奥方様」
はい、と私は答えた。
「マルガレーテ様が、明朝、奥方様のご朝食にご一緒したいとのことでございます」
承知いたしました、と私は答えた。
マルガレーテ様が、息子の妻と朝食を共にされるのは、今年に入って初めてのことだった。
寝室の窓辺に立つと、夜の庭の奥に、五百年の古樹が立っていた。
その樹のことを、神官長も、伯爵夫人のお祖母様も、そして恐らくは、姑のマルガレーテ様も、知っておられた。
知らなかったのは、私一人だった。
銀の月の紋章。三通とも、神殿からの正式な書状だった。




