第2話 四年越しの訪問
神殿の神官長が、足音を立てずに屋敷の玄関を上がってこられた。
その日は、五日前から決まっていた訪問だった。寄進についての相談で、神官長ご自身がお越しになる。書斎の机に、夫が広げた書状の写しが置かれていた。そこには、神殿の銀の月の紋章が押されていた。
あの夜、文箱にしまわれた書状と、同じ紋章だった。
私は玄関広間で、神官長をお迎えした。
「ようこそお越しくださいました」
深く礼をした私の前で、神官長は静かに頭を下げ返された。年の頃は三十代半ば、肩までかからない黒髪を後ろに撫でつけている。神官の長衣は飾りが少なく、襟元に銀の月の刺繍が控えめにあるだけだった。
「ロッシュフォール侯爵夫人、お初にお目にかかります。セレディウス・ヴァローネと申します」
名乗りに余分な言葉はなかった。けれど、私の名を呼ばれた時、その「夫人」の発音に、ほんのわずかな間があった。気のせいかもしれない。
「夫はじきに参りますので、まずは客間へどうぞ」
神官長は頷かれた。歩き出される際、私の少し後ろに付き従う形で歩調を合わせてくださる。先を歩くべきは私だと、礼の通りに動かれた方だった。
客間に着くまでに、廊下を二度曲がる。その間、神官長は一度も足音を立てなかった。長い長衣で石床を歩く時、人は必ず衣擦れの音を立てる。それすら、私には聞き取れなかった。
客間では、貴婦人方が二名、すでにお茶を召し上がっていた。
社交の付き合いで、夫が神殿との寄進相談の場に同席を頼んだ方々だった。子爵夫人と、その妹君の伯爵夫人。二人とも、扇を膝に置いて、神官長の入室を待っておられた。
「神官長様、お待ち申し上げておりました」
子爵夫人がそう仰って、軽く頭を下げられる。神官長は静かに席についた。
「お待たせいたしました」
夫が遅れて入ってきた。神官長の前で礼を欠かない程度に、けれど忙しさを匂わせる入り方だった。
お茶が運ばれてくる。私は神官長のカップに、まず一口分を注いだ。神殿でお勤めの方には、紅茶よりも香草の茶を好まれる方が多いと聞いていた。だから、私は二種類の茶葉を用意していた。今日のものは、薔薇の実と林檎を混ぜた、口当たりの軽い方だった。
神官長はカップを手に取り、最初の一口を礼儀正しく口に含まれた。
「リアン家の薔薇の実ですね」
その一言で、私は手元のティーポットを置き損ねそうになった。
「お分かりになりますか」
「神殿の大祭で、毎年この銘柄を取り寄せております。十年ほど前から、リアン家の畑のものです」
茶葉の銘柄を、淹れ方ではなく、香りだけで言い当てる方は、そう多くない。神殿で長く茶を扱ってこられたのだろう。私は短く礼を返した。
「光栄に存じます」
神官長は静かに頷かれて、それきり、その話題に踏み込まれなかった。ただ、私の手元のティーポットを、一度だけ、長く見ておられた。注ぎ方ではなく、ポットの傾け方を見ておられる目だった。気づいて顔を上げた時には、神官長はすでに、ご自分の前の書類に目を戻されていた。
寄進の話を、神官長は手短に切り出された。
「秋の収穫祭に向け、ロッシュフォール家のご寄進について、改めてご相談に伺いました」
「ええ、毎年通り、銀貨二百枚を予定しております」
夫の答えは、書類を見なくても出てくる数字だった。実際には、書類を整え、神殿への送り状を書くのは私の仕事だった。夫はその数字を、知っているのではなく、覚えていた。
「ありがたく存じます」
神官長が頭を下げられる。けれど、そこで話は止まらなかった。
「侯爵閣下、本年は領内の収穫について、ご心配はございませんか」
夫は意外そうな顔をされた。
「収穫ですか」
「北部の井戸が、数か所、水位が下がっていると聞き及んでおります。神殿としても、祈祷のご依頼があれば、いつでも応じさせていただきます」
夫は少し笑われた。
「ああ、神官長様もご存知でしたか。あれは去年からの少雨のせいでしょう。今年は雨さえ降れば戻りますよ」
「そうでございますね」
神官長はそれ以上、踏み込まれなかった。
けれど、私の耳には、神官長が「戻ります」と仰らなかったことだけが残った。
夫の話はそこから、リリーシュ様の体調のことに逸れていった。
「実は、妹のことで、神殿に祈祷をお願いしたいと考えておりまして」
神官長は、頷きながら聞いておられた。子爵夫人と伯爵夫人は、扇の動きを止めていた。話題が私的すぎる方向に流れていることに、二人とも気づいていた。
「もう四年も、季節の変わり目になると寝込むのです。医師にも見せておりますが、これといった原因がなく」
「ご家族の方の祈祷は、いつでもお受けいたします」
「ありがとうございます。妹はとても繊細な子で、屋敷の者にも本人にも、無理をさせたくないのです。エマも、よくあの子を支えてくれています」
夫がそう言って、初めて私の方を見られた。
「君なら、分かってくれるだろう」
貴婦人二名が、視線を伏せられた。子爵夫人の扇が、ほんの少しだけ膝の上で動いた。伯爵夫人は、カップを置く前に、神官長の方を見られた。
神官長は、姿勢を変えずに夫を見ておられた。表情は変わっていなかった。けれど、私の方を見ようとはなさらなかった。それは、私を守るための視線の置き方だった。
私は、自分のカップに、口をつけられなかった。
目の前の神官長のカップから、紅茶の湯気が、まだ細く立ち上っていた。その湯気の動きを、私はしばらく、見つめていた。何かを考えていたわけではなかった。ただ、今、自分のカップに手を伸ばしてはならない、と体の方が分かっていた。
顔を上げた時、神官長と、ほんのわずかに目が合った。
神官長は、ゆっくりと視線を、ご自分の書類に戻された。けれど、書類に目が落ちる前に、その視線が、私の手元の方を、一度だけ、長く留まった。
私は短く頷いた。
「リリーシュ様のことは、心得ております」
貴婦人二名は、その後しばらく、お茶に口をつけなかった。
神官長は、長居をなさらなかった。
寄進の書類を確認し、神殿への送付の段取りを決められると、すぐに席を立たれた。私が玄関までお見送りに立つと、夫は「私はここで」と仰って、書斎へ戻っていかれた。客人を玄関まで送るのは、本来、家の主人の務めだった。
貴婦人二名も、見送りには立たれなかった。けれど、お二人が立たれなかったのは、夫が立たなかったからだった。社交の場ではよくあることだが、玄関まで来てくださっても良かったはずの距離だった。
玄関広間に立った時、神官長は一度、庭の方をご覧になった。
「立派な樹ですね」
窓越しに見える五百年の古樹に、目を向けておられた。
「ええ。我が家と共に生きてきた樹だと、夫が申しておりました」
「ロッシュフォール家の象徴の樹でございますね。神殿の文書にも記録がございます」
神殿の文書に、と仰った。私は少し驚いた。屋敷の樹が、神殿の文書に出てくるとは思わなかった。
「お屋敷の樹が無事であることは、領内の無事と繋がっております」
神官長は、それ以上の説明をなさらなかった。
従者が馬車の用意ができたと告げに来た。私は再び礼をした。神官長も、応じて頭を下げられた。
馬車に乗り込まれる前に、神官長は私の方に、ほんの少しだけ向き直られた。
「侯爵夫人」
「はい」
「奥方様は、パッリーニ家の方でいらっしゃいましたね」
その問いに、私はすぐに答えられなかった。
パッリーニ。
母の家の名を、私はもう何年も口にしていなかった。母が私を産んで間もなく亡くなって以降、その家とは姓のうえでの繋がりしか残っていなかった。けれど、私の旧姓は確かにパッリーニだった。
「……はい。母方の姓でございます」
「左様でございますか」
神官長はそれだけ仰って、馬車に乗り込まれた。確認のための問いだった。けれど、確認のために、わざわざ振り向いてまで問われるような名ではないはずだった。
馬車が動き出した。
車輪の音が遠ざかってから、私は玄関に戻った。
夜、客間の片付けを使用人と確認している時、子爵夫人からの書状が届いた。
「奥方様、お早いお返事でございますね」
執事が驚いた声を出した。確かに、午後の茶会から数刻も経たないうちに、礼状が届くのは早すぎた。
私は封を切った。
「本日は誠にありがとうございました。次回は、もう少しゆっくりとお話しできる機会を、改めて頂戴できれば幸いに存じます」
短い文だった。礼の言葉のあとに添えられた一文に、私は目を止めた。
「もう少しゆっくりと」。
今日の茶会は、忙しなく終わったわけではなかった。お茶も二杯はお出しした。話す時間も十分にあった。それなのに、子爵夫人は「もう少しゆっくりと」を、わざわざ次回の予告として書かれた。
書面の文字には、嘘がない。お二人にとって、今日の場は、ゆっくりと話すには相応しくない場だった。
私は書状をたたんで、机に置いた。
寝室に戻る前に、書斎の前を通った。扉は半分開いていた。夫はもう休んでおられたが、机の上の文箱が見えた。蓋の隅から、白い封筒の角が一つ、はみ出していた。
それが、いつから挟まっていたものなのか、私には分からなかった。
寝室の窓辺に立つと、夜の庭の中に、五百年の古樹が立っていた。
神官長の声が、不意に蘇った。
お屋敷の樹が無事であることは、領内の無事と繋がっております。
樹を見上げながら、私はもう一度、自分の旧姓を口の中で繰り返した。
パッリーニ。
母の家の名を、私はもう何年も口にしていなかった。




