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義妹の病を癒していたのは、私でした 〜離縁の翌日から、奇跡は止まりました〜  作者: 秋月 もみじ


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10/10

第10話 私が選んだ場所


 合一儀礼の朝、神殿の庭の五百年の樹に、銀の月のような小さな新芽が一つ、ついていた。


 神殿の庭の樹は、ロッシュフォール家の屋敷の樹と、対をなす樹だった。神殿の文書では、両方の樹を合わせて「対の樹」と呼ぶ、と神官長が、いつかの話で教えてくださっていた。屋敷の樹が花をつけた年に、神殿の樹も花をつけた、と古い記録に残っている、とのことだった。


 神殿の樹は、私が嫁いだ年の春、屋敷の樹が花をつけたあの年から、葉を一枚も落とさないまま、立ち続けてきていた。


 その樹に、一つ、新芽がついた。


 私は、聖女の支度部屋の窓辺から、その新芽を見上げた。空はまだ薄い水色で、夜明けの色が、地平の方にだけ、残っていた。


 支度を、ジルベール翁が手伝ってくださっていた。


「お嬢様、お衣装を整え申し上げます」


 ジルベール翁は、神殿の支度部屋にも、入ってくださっていた。聖女の装束は、神殿の侍女が整えてくださる。けれどジルベール翁は、お嬢様の装束を、一度だけでも自分の手で整え申し上げたい、と父にお願いされていた。


 神殿の侍女が、横でジルベール翁に、衣装の留め金の場所を、教えてくれていた。


「ジルベール、ありがとう」


 私はそう申し上げた。


 ジルベール翁は、頭を下げた。


「お嬢様、本日、お席に座られるお姿を、私は、ずっと、お待ちしておりました」


 ジルベール翁が「お嬢様」と呼んでくださるのは、今朝が、最後だった。


 今夜から、私は「聖女様」と、ジルベール翁に呼ばれる立場になる。けれど、子どもの頃から私を「お嬢様」と呼んでくださっていたジルベール翁の声は、その朝の支度の間、ずっと「お嬢様」のままだった。


 衣装が、整った。


 白地に、銀の月の刺繍が、襟元と袖口に控えめに入っている。胸元のレースは、母の肖像画の襟元のものと、同じ意匠だった。父が、神殿に、母の意匠の写しを、預けてくださっていた。


 鏡の前に立つと、母に、似ていた。


 私の中で、初めて、母と私が、同じ服装をする日が来たのだった。



 支度部屋を出て、神殿の回廊を歩く時、神官長セレディウス様が、回廊の端で、待ってくださっていた。


 神官長も、儀礼の装束を、召しておられた。普段の長衣より、襟元に銀の月の刺繍が、深く入った装束だった。それでも、神官長の姿は、屋敷の客間で初めてお目にかかった時と、同じ静けさだった。


「エマ様」


 神官長は、深く頭を下げられた。


「神官長様」


 私も頭を下げた。


 神官長は、ゆっくりと、顔を上げられた。


「お加減は、いかがでしょうか」


 その問い方を、私は、覚えていた。


 ロッシュフォール家の客間で、神官長が初めて、私に尋ねてくださった、最初の言葉だった。あの時の私は、お加減を、尋ねていただけるとは、思っていなかった。


「整っております」


 私はそう答えた。


 神官長は、頷かれた。


「では、聖堂へ、参りましょう」


 二人で、回廊を歩いた。


 歩調を、神官長は、私に合わせてくださった。先を歩かれることもなく、後ろに下がられることもなく、ちょうど半歩、横に、並ばれていた。


 並ぶことが、これからの私と神官長の歩き方になる、と私は、初めて、頭の中で、確かめた。



 聖堂の扉が、ゆっくりと開いた。


 白い石造りの聖堂の、長い列席席に、列席者の方々が、並んでおられた。


 最前列に、父アルベール・パッリーニ。その隣に、マルガレーテ・ロッシュフォール先代侯爵夫人。お二人の間に、空席が一つ、用意されていた。それは、亡くなられた先代侯爵様の席だった。神殿の取り計らいで、儀礼の間、その場所は、空席として残された。


 マルガレーテ様は、貴族院の議場の時よりも、ずっと、痩せておられた。けれど、顔の色は、貴族院の時より、戻っておられた。


 席につく前に、マルガレーテ様は、ご自分の席から、立ち上がられた。


 通路の中央に、進まれて、深く頭を下げられた。


「奥方様……いいえ、聖女様」


 マルガレーテ様は、はっきりと仰った。


「ありがとう存じました」


 その「ありがとう存じました」は、儀礼の場の挨拶ではなかった。四年余り、屋敷で過ごした時間と、神殿に証言を預けた時間と、貴族院で息子を見つめた時間と、そのすべての気持ちが、込められた、長い長い感謝の言葉だった。


「お母様」


 私は、もう一度、その呼び方をした。


 マルガレーテ様の目が、わずかに、揺れた。


 もう、お母様、とは呼ばないつもりだったお互いの間で、私の方から、声を、かけた。


「お元気で」


 私はそう申し上げた。


 マルガレーテ様は、深く頷かれた。


 それから、席に、戻られた。


 通路を、私はゆっくりと、進んだ。


 神官長は、私の半歩、横に、並んでおられた。


 列席席の方々が、私たちの通る通路を、見ておられた。神殿の高位の方々、王宮の使者の方々、神殿の修練者の方々。傍聴の貴族の方々の中には、ル・ブラン伯爵夫人もおられた。


 通路の中央、私たちの五歩ほど前のところに、神殿の修練者となったリリーシュ嬢が、立っておられた。


 修練者の装束は、灰色の生地に、紐の帯を一本巻いただけの、簡素なものだった。襟元には、銀の月の小さな刺繍が一つ。リリーシュ嬢は、その装束を、まだ、慣れていない様子だった。けれど、顔の色は、貴族院の時より、また少し、戻られていた。


 私たちが通ろうとすると、リリーシュ嬢は、深く頭を下げられた。


「聖女様」


 その呼び方を、リリーシュ嬢は、選ばれた。


「お姉様」では、なかった。


 私は、頷きで、応えた。


 通り過ぎる時、リリーシュ嬢が、小さな声で、おっしゃった。


「お元気で」


 その短い言葉を、私は聞いた。


 屋敷で「お姉様」と呼んでくださっていた声と、同じ声だった。けれどその声には、もう、屋敷の頃の甘さは、なかった。


 私たちは、その声を、聞きながら、聖堂の中央へ、進んだ。



 聖堂の中央に、祭壇があった。


 祭壇の上には、銀の月の意匠の燭台が、二つ並んでいた。その間に、白い布の上に、私が今朝、持参した硝子細工が、置かれていた。


 パッリーニ家の玄関の鏡台に、子どもの頃からあった、銀の月の硝子細工。


 今朝、支度部屋に出る前に、私は自分で、その硝子細工を、布で磨いた。父にも、ジルベール翁にも、手伝ってもらわなかった。母の遺品でもなく、父の家の宝でもなく、私が、自分の意志で、神殿の祭壇に持参したものだった。


 神官長と、私が、祭壇の前に、並んだ。


 大神官様が、祭壇の向かい側に、立っておられた。


 大神官様の手の中には、古い羊皮紙の巻物が、一つあった。古式の合一儀礼の、祈祷文だった。神殿創建期からのもの、と神官長が、前日の夜に、教えてくださっていた。


 巻物が、ゆっくりと、開かれた。


 大神官様の声が、聖堂に、低く響いた。


「聖女エマ・パッリーニ。神官長セレディウス・ヴァローネ」


 はい、と私たちは、答えた。


「古式の合一儀礼を、執り行います」


 大神官様の声は、長い祈祷文を、ゆっくりと、読まれていった。


 言葉の半分は、古い神殿語だった。私には、意味の取れない言葉も、いくつか、あった。けれど、その響きは、子どもの頃に、母の肖像画の前で、父が口の中で繰り返しておられたお祈りと、似ていた。


 父も、お祈りの言葉を、ご存知だったのだ。


 お祈りの中盤で、神官長が、私の手を、ゆっくりと取られた。


 神官長の指は、私の指よりも、ずっと、温かかった。屋敷で四年余り、夫の手を取った時、夫の指はいつも、礼儀正しく冷たかった。それは、礼儀正しい方の手だった、と私は、その時、ようやく、思い出した。


 神官長の手は、礼儀正しく、けれど、温かかった。


 お祈りの最後の言葉が、読み上げられた。


 大神官様が、巻物を、ゆっくりと閉じられた。


「合一の儀礼を、ここに、承認いたします」


 大神官様の声で、聖堂の中の方々が、深く頭を下げられた。


 父が、席で、ハンカチを、目元に、当てておられた。


 マルガレーテ様は、席で、深く、頷いておられた。


 ル・ブラン伯爵夫人は、扇を、ゆっくりと、開かれた。社交の場で、賛同を示す、扇の動きだった。伯爵夫人の周りの貴婦人の方々も、それに合わせて、扇を、開かれた。


 席の通路に、白い羽根のような扇が、いくつも、ゆっくりと開いた。


 聖堂の中央で、私と神官長は、まだ、手を取り合ったまま、立っていた。


 神官長が、ゆっくりと、私の方を向かれた。


「四年余り、辿り着けませんでした」


 神官長の声は、低かった。


 お祈りの場でなく、一人の人として、私に、言葉を向けてくださっていた。


「お待たせいたしました」


 私はそう申し上げた。


 神官長は、深く頷かれた。


 大神官様が、神官長の方に、銀の小箱を、差し出された。


 箱の中に、銀の月の意匠の指輪が、一つ、入っていた。


 神官長が、私の指に、ゆっくりと、通してくださった。


 指輪は、私の指に、ぴったりだった。神殿で、長く、私の指の寸法を、調べてくださっていたのだ、と私は、その時、初めて、思い至った。



 儀礼の後、神殿の中庭で、私と神官長は、二人で、歩いた。


 列席の方々は、聖堂の脇の部屋で、軽い食事を召し上がっておられた。父も、マルガレーテ様も、ル・ブラン伯爵夫人も、そちらに、進んでおられた。


 神官長は、私の手を、引かれなかった。


 ご自分の手を、私の指輪のはまった手の、近くに、置いておられた。けれど、握りには、ならなかった。私が、握りたい時にだけ、握れる距離で、ご自分の手を、置いておられた。


 中庭の中央に、五百年の樹があった。


 その新芽の前で、私たちは、立ち止まった。


「対の樹に、新芽がついたのは、九十年ぶり、と聞いております」


 神官長は、低く仰った。


「九十年前の話と、本日の話が、何かを、繋いでいるのかもしれませんね」


 はい、と私は答えた。


 九十年前の合一儀礼を、私は、神官長から、聞いていた。当時の聖女様は、夫君に先立たれて神殿に戻られた方で、神官長は、長くその方を慕われていた方だった。お二人の合一は、神殿の歴史の中で、最も静かな結びつきだった、と記録に残っている。


 その記録の続きを、私たちは、これから、書いていく。



 その時だった。


 中庭の塀の向こう、神殿の坂の上の方から、馬の蹄の音が、一頭、聞こえてきた。


 神官長が、顔を、わずかに、上げられた。


「坂の上に、お見えになっておられた方が、いらしたようでございます」


 神官長は、低く仰った。


「坂の上から、神殿の正門の方を、見渡せる場所がございます。本日の儀礼の間、その場所に、お一人、馬でお見えになっておられた方が、おられました」


 私は、聞きながら、振り返らなかった。


 誰のことかは、神官長が、続けられなくても、分かった。


「お通しになりますか」


 神官長は、尋ねてくださった。


「結構でございます」


 私はそう答えた。


 神官長は、頷かれた。


「では、神殿の正門の守りに、そのままにしておくよう、伝えます」


「お願いいたします」


 神官長が、神殿の修練者に、目で合図をされた。修練者の方が、頷かれて、回廊の方へ、進まれた。


 馬の蹄の音は、それから、まもなく、坂の下の方へ、遠ざかっていった。


 私は、その音を、聞きながら、神官長の隣で、新芽の前に、立ち続けていた。


 神官長が、私の方を、見ておられた。


「エマ」


 神官長が、私の名を、呼んでくださった。


 初めての、役割の外からの、呼び方だった。


「振り返られても、構いませんよ」


「いえ」


 私はそう答えた。


「振り返るのは、もう、いたしません」


 神官長は、深く頷かれた。


 その頷きを、私は、最後まで見届けた。



 夕方、私は、神殿の応接間で、父と茶を飲んでいた。


 父は、神殿の食事の席を辞して、応接間に、お一人で来ておられた。話があったわけではなかった。ただ、儀礼を終えた娘と、二人で、紅茶を一杯、飲みたい、と父は仰った。


「エマ」


 はい、と私は答えた。


「お前のお母様も、こんなふうに、紅茶を、お一人で飲んでおられた朝が、何度かあった」


 父はそう仰った。


「お母様は、ご自分の血のことを、ご存知でなかった。けれど、嫁いだ家のことを、毎朝、お一人で祈られる癖を、持っておられた。私が、部屋に入っていくと、お祈りを、止められて、紅茶を、注いでくださったよ」


 私は、頷いた。


 子どもの頃の私は、母の朝の習慣を、知らなかった。けれど、父の話を聞きながら、母が、朝の窓辺で紅茶を飲んでおられた姿を、私の中で、初めて、思い描いた。


「お父様」


 はい、と父はお答えになった。


「お母様の肖像画を、神殿の私の部屋に、運んでもよろしいですか」


 父は、ゆっくりと、頷かれた。


「明日、ジルベールに、運ばせるよ」


「ありがとう存じます」


 父は、紅茶を、ゆっくりと、召し上がった。


 父の席の窓から、神殿の中庭の、五百年の樹が見えた。


 樹の枝先に、朝についていた新芽の隣に、もう一つ、新芽がついていた。私たちが応接間で紅茶を飲んでいる間に、新しい芽が、もう一つ、開いていた。


 私は、それを、父にも見せた。


 父は、しばらくの間、黙って、見ておられた。


「お母様の年に、こちらの樹も、芽吹いていたのだろう」


 父はそう仰った。


「お父様、ご存知だったのですか」


「ロッシュフォール家の樹が花をつけた年、神殿の樹も花をつけた、と記録があるそうだ。当時の神官長殿から、私は、伺っていた」


「お父様も、神殿に、長く通っておられたのでございますね」


「お前のお母様の家のことを、私は、お母様を亡くした後、神殿に、長く、伺っていたよ」


 父の声は、低かった。


「お前を嫁がせる前に、神殿に預ける決心がついたのは、長く伺った末のことだったんだ」


 私は、頷いた。


 父の十一年は、私の知らないところで、神殿と、繋がっていた。神官長セレディウス様が、若い神官として、大神官への請願の場に同席されていたのも、その十一年の中の、ある日のことだった。


 私が知らないところで、長く動いていた方々が、たくさん、おられた。


 そのことに、私は、儀礼を終えた夕方の応接間で、ゆっくりと、頭を下げた。



 夜、神殿の私の部屋から、中庭の樹が、見えた。


 夜の樹は、月光を、淡く受けて、枝先の新芽を、薄く浮かべていた。


 神官長セレディウス様が、部屋に、お一人で来られた。


 部屋の戸口で、神官長は、深く頭を下げられた。


「エマ」


「セレディウス様」


 私は、神官長の名前を、初めて、肩書きの外で、呼んだ。


 神官長は、ゆっくりと、顔を上げられた。


「お疲れでしょう」


 神官長はそう仰った。


「明日からは、聖女としての務めが、始まります。務めの内容は、明朝、改めて、ご説明申し上げます。本日の話は、務めのこととは、別の話でございます」


 はい、と私は答えた。


 神官長が、部屋の中に、入ってこられた。


 窓辺の椅子に、座られた。私は、その向かいの椅子に、座った。間には、低い卓子が一つ。卓子の上に、神殿の銀の月の意匠の燭台が、一つ、置かれていた。


「エマ」


「はい」


「お屋敷で、四年余り、辛い思いをされたこと、神殿として、止め申し上げることができませんでした」


 神官長は、ゆっくりと話された。


「神殿の書状が、届かないと判明した時、神殿として、別の方法で会い申し上げる手段は、いくつか、ございました。例えば、お屋敷の訪問の際に、強引にエマ様に声をかける、ですとか。あるいは、神殿の使者を、お屋敷の使用人を介して、エマ様にだけ、直接お届けする、ですとか」


 神官長の声は、低かった。


「けれど、神殿として、そのいずれも、選びませんでした。ロッシュフォール家の家門への礼を、神殿として、崩すわけには、参りませんでした。それが、神殿の判断でございました。私個人としても、神殿の判断に、長く、従ってまいりました」


 はい、と私は聞いた。


「四年余り、私は、神殿の窓辺から、ロッシュフォール家のお屋敷のある方向を、何度も見つめておりました。お屋敷の樹が、まだ葉を保っていることを、確かめておりました。樹が葉を保っている間は、エマ様も、ご無事でいらっしゃると、考えておりました」


 神官長の顔が、わずかに、俯かれた。


「私の選び方が、エマ様の苦しみを、長く続けることに、繋がっていたのではないかと、四年余り、私は、悩み続けておりました」


 私は、ゆっくりと、神官長の顔を、見た。


「セレディウス様」


「はい」


「選び方は、正しゅうございました」


 私はそう申し上げた。


「神殿が、ロッシュフォール家の家門への礼を、崩しておられたら、夫は、神殿の訪問を、別の理由で、止める方法を、持っていたはずでございます。お母上も、お屋敷の使用人も、神殿の訪問を、自由に迎えられなかったはずでございます。神殿の選び方が、正しかったから、四年余りの終わりに、こうして、辿り着いていただくことが、できたのでございます」


 神官長は、ゆっくりと、顔を、上げられた。


「辿り着いていただくことが、できた、と」


 その言葉を、神官長は、口の中で、繰り返された。


「エマ様が、先に辿り着いてくださった、と申し上げるべきでございました」


 神官長はそう仰った。


「お屋敷を、出られた日。あの日に、エマ様は、ご自分の足で、神殿の方へ、進まれました。私は、迎えに行く用意を、長くしておりました。けれど、進まれ始めたのは、エマ様の方でございました」


 はい、と私は答えた。


 神官長は、深く頭を下げられた。


「お屋敷を、出てくださって、ありがとう存じました」


 その一言を、神官長は、お一人の方として、私に、伝えてくださった。


 私は、神官長の頭を、最後まで、見ていた。


 頭を上げられた神官長の顔に、月明かりが、薄く、当たっていた。


 窓辺の椅子から、神官長が、ゆっくりと、私の方に、手を、伸ばされた。


 私は、自分の手を、神官長の手に、重ねた。


 神官長の指は、儀礼の時より、温かかった。


「部屋の灯りを、消す前に、顔を、もう一度、見せてくれますか」


 神官長は、低く仰った。


「はい」


 私は、顔を、上げた。


 神官長の目の中に、月明かりが、入っていた。


 私の手を、ゆっくりと、持ち上げられて、神官長は、ご自分の額に、当ててくださった。それは、神殿の古式の、最も静かな、親愛の作法だった。


 その作法を、私は、受けた。


 窓の外で、五百年の樹の新芽の影が、月明かりを、わずかに、ゆらした。



 その夜、神殿の部屋から、私は、もう一度、中庭の樹を、見上げた。


 明日からは、聖女としての務めが、始まる。


 領内の井戸の様子を、神殿として、確かめる。子どもたちの熱が、引くまで、祈り続ける。商人組合と、王家信託の方々との、話し合いが、始まる。リリーシュ嬢の神殿での修行を、神官長と一緒に、見守る。


 父の屋敷へ、月に一度は、戻る。


 ジルベール翁に、季節の茶を、淹れてもらう。


 マルガレーテ様にも、時間が整った頃に、手紙を、書く。


 たくさんの務めが、これから、私を、待っている。


 務めのいずれにも、神官長セレディウス様が、横に、並ぶ。


 並ぶことが、私と神官長の歩き方だった。


 窓辺の月の光に、私の指輪の、銀の月の意匠が、わずかに、光った。


 五百年の樹に芽が吹いた朝、私はようやく、自分が「お帰りなさい」と言える場所に、立っていた。


 明日からの務めの中で、私は、「お帰りなさい」と言っていただく側にも、なる。神殿に来られる参拝者の方々を、聖堂の入口で、迎える。その務めも、務めの一つとして、神官長から、聞いていた。


 お帰りなさい、と私は、誰かに、声をかける。


 お帰りなさい、と私も、神官長の声で、かけていただく。


 四年余り、神官長は、辿り着こうとされていた。


 辿り着いてくださって、ありがとう存じます、と私は、明日、朝食の席で、もう一度、神官長に、伝えよう、と思った。


 窓の外の樹の新芽は、月明かりの下で、静かに、揺れていた。


 風はなかった。


 子どもの頃に見た、母の肖像画の襟元の、銀の月の意匠が、今宵、私の指の上で、光っていた。


 私は、燭台の灯りを、ゆっくりと、消した。

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