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孤児院の粥粉荷車

東孤児院の鍋底が、朝の鐘より先に見えていた。


 薄くのばした粥を、院長が小さな椀へ順に注いでいく。年長の子は自分の椀を半分だけ受け取り、まだ眠そうな幼い子の前へそっと押した。


「今日だけ、少し薄いの。薬を飲む子から先にね」


 院長は笑っていた。けれど、湯気の向こうで手が一度だけ止まった。


 セオ・ランベルトは、その手元ではなく、鍋の横に立てかけられた小さな標識灯を見た。


 青く灯るはずの配送確認灯が、白く冷えている。


 白は、王宮の倉庫台帳では『受領済み』を意味する。荷物が届いた。責任は移った。手続きは閉じた。そういう綺麗な色だ。


 だが、鍋底は見えている。


「粥粉の荷車は、いつ来る予定でしたか」


「夜明け前です。パン屋通りを抜けて、東門側から。毎週、同じ子たちの朝食分を運んでもらっています」


 院長が棚から受領札を出す。そこには、王宮倉庫の丸印と、配送完了を示す白灯の写しがあった。


 セオの後ろで、薬師見習いのミナが息を呑む。


「受領済み、ですか。じゃあ倉庫は動かないってことですか」


「動かないでしょうね」


 門番詰所から来た若い記録係が、申し訳なさそうに答えた。


「受領済みなら、あとは孤児院側の管理になります。余り粉の申請を出せば、夕方までには――」


「余り粉ではありません」


 セオは、静かに遮った。


 記録係が目を瞬かせる。


「はい?」


「これは余りではなく、未配送の朝食予約分です。粉袋は、倉庫の数字で止まっている物ではありません。荷車に積まれ、標識灯を渡り、孤児院の鍋に落ち、薬を飲む子の腹を温め、年長の子が昼まで働けるところまで、最初から席が決まっている」


 セオは鍋の横に置かれた木札を見た。


 今日の名簿は三十六人。薬前に一口必要な子が四人。朝の水汲みに出る年長が二人。縫い物仕事へ向かう子が一人。


 粉袋は、袋ではなく三十六の席だった。


 その席が、書類の中でだけ食べ終わったことにされている。


「でも、白灯の写しが……」


「見ます」


 セオは受領札を両手で受け取った。紙の端に押された灯火写しは、たしかに白い。だが、白へ変わる前に一瞬だけ挟まるはずの赤い配送灯がない。


 荷車が門を越えたなら、赤。


 荷車から孤児院の標識へ移ったなら、青。


 院長か担当者が数を読んだなら、白。


 順番は、赤、青、白だ。


 この札は、白だけが先に閉じていた。


「実際の荷車を通さずに、受領だけを閉じています」


「そんなこと、できるんですか」


「普通はできません。配送灯の赤がないまま白へ飛ばすには、用途変更権限か、標識灯の古い管理印が必要です」


 セオは札の隅を指でなぞった。


 白灯の輪郭に、小さな欠けがある。灯火台帳を読む者でなければ見逃すほどの、針先ほどの欠け。


 北帰還路の足元灯にも、同じ欠けがあった。


 パン窯の赤灯を儀礼用飾り火へ付け替えた写しにも、同じ欠けがあった。


 そして、王都北門結界灯の責任者欄を空白にした処理にも。


「同じ癖です」


 セオの声に、ミナが顔を上げる。


「北門の空白と?」


「はい。先に閉じる。現場の灯りを見ずに、上の白だけを作る。生活の側の青を飛ばして、王宮の棚に都合のよい完了だけを置く」


 若い記録係の顔から血の気が引いた。


「待ってください。私は、写しを運んだだけで――」


「責めていません。だから、ここで札を埋めないでください」


 セオは受領札の裏を返した。


 そこには、荷車担当者の名を書く欄がある。だが、欄には『臨時扱い』とだけ薄く記されていた。


 誰が運ぶはずだったのか。


 誰が門を通すはずだったのか。


 誰が孤児院の鍋の前で数を読むはずだったのか。


 すべてが、臨時扱いという一語でまとめて消されている。


「荷物だけではありません。運ぶ人の名前も消されています」


 ミナが小さく言った。


「それだと、荷車が来なかった責任も、運んだはずの人の賃金も、帰ってきたかどうかも……」


「閉じられません。だから、閉じたことにした」


 セオは孤児院の机を借り、受領札の横に新しい青い紙片を置いた。


 青は、まだ生活側で確認している途中の色。


 未完了を責める色ではない。閉じてはいけないものを守る色だ。


「この荷車は、本日朝食分の未配送予約分として保全します。白灯写しは無効にしません。証拠として封じます。荷車担当者欄は、空白のまま保護。誰かの名を勝手に入れて、責任を押しつけてはいけません」


「でも、朝食は」


 院長が、そこで初めて不安そうな声を出した。


「西薬房に、夜間用の冷棚を戻した時の予備穀粉があります」


 ミナがすぐに頷いた。


「薬用の粥に使う分です。三十六人全員は無理でも、朝の一椀分なら。パン屋さんにも聞けます。昨日の赤灯、セオさんが戻したから、窯は動いてます」


「借りるのではなく、予約分の仮払いにします」


 セオは記録係へ向き直った。


「あなたの名で、門番詰所の証人欄に書けますか。『受領済みだが現物未着。生活側青灯未確認。朝食予約分として仮払い』と」


 記録係は唇を噛んだ。


「……書きます。私、エリス・ノートンです。写しを運んだだけで済ませるところでした」


「済ませないための名前です」


 セオがそう言うと、エリスは背筋を伸ばして自分の名を書いた。


 孤児院の年長の子たちが、鍋を洗い直す。ミナが西薬房へ走り、ほどなく小さな粉袋を抱えて戻った。パン屋通りからは、焼き台の少年が腕いっぱいの硬いパン耳を持ってきた。


 院長は、それらを少しずつ鍋へ入れた。


 粥は濃くはない。


 けれど、さっきより湯気が白く立った。


 薬を飲む子が、今度は顔をしかめずに匙を口へ運ぶ。年長の子は自分の椀を最後まで持っていた。


「朝まで、間に合いましたね」


 ミナが小さく笑う。


「朝食は、まだ正式には届いていません」


 セオは青い紙片を受領札に添え、標識灯の足元に結んだ。


「だから、届くまで閉じません」


 その時、冷えていた標識灯が一度だけ揺れた。


 白ではない。


 青の奥に、黒い線が混じっている。


 セオは眉を寄せた。


 灯火台帳の写しが、もう一枚だけ重なっている。粥粉荷車の下に、同じ処理で閉じられた荷物の名が、薄く浮いた。


 北門結界灯、生活維持予約分、一晩分。


 受領済み。


 担当者、臨時扱い。


 セオは、鍋の湯気越しにその文字を読んだ。


 王都の夜は、まだいくつもの朝食を食べ終わったことにされている。

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