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パン窯の赤灯は、儀礼の飾り火ではありません

朝焼き通りのパン窯は、夜明けより早く起きる。


 人より先に火が入り、粉より先に窯が温まり、街の鐘が六つ鳴る頃には、最初の丸パンが薬房と洗濯場と橋番小屋へ運ばれる。


 その赤灯が、今にも消えようとしていた。


「だめだ、火が上がらない!」


 火番のベンが、窯口の前で煤だらけの腕を突っ込んだ。

 赤くあるべき安定灯は、炭の奥で細く痩せている。息を吹きかけても、火は怯えるように縮むだけだった。


 店先には、粉袋が五つ並んでいる。

 パン屋の親方が、片足で床を叩いた。


「王宮から通達が来た。朝焼き通りの火は、戴冠前夜の公共準備火として中央塔へ同格処理済みだとよ。公共のパンなら、王宮祝宴も町の朝食も同じだってな」

「同じじゃない」


 俺は台帳を開いた。


 朝焼き通り、パン窯安定灯八基。

 用途欄――朝食用赤灯。

 点灯時刻――二十三時四十分から翌六時二十分。

 供給先――西薬房粥鍋、東橋修繕班、川洗濯場、北門詰所、東孤児院。


 その上に、赤い儀礼印が押されている。


 公共準備火。

 戴冠前夜祝宴用、飾りパン焼成補助。

 生活用途との同格処理済み。


 同じ『パン』という言葉で、二つの朝を潰している。


 王宮の祝宴台に積む飾りパン。

 熱を出した子どもが薬を飲む前に食べる粥。

 橋を直しに行く職人が、工具箱を持つ前にかじる丸パン。

 濡れた布を干す洗濯女の、手を温める一切れ。


 同じ粉から作れても、同じ格ではない。


「赤灯一基で、どれだけ焼けますか」


 俺が聞くと、親方は悔しそうに顎を動かした。


「一基なら、窯一つを夜明けまで保てる。丸パンなら六十。粥粉なら鍋三つ分だ」

「中央塔の第三光輪は」


 ベンが窓の外を見た。

 白い光輪が、王宮の塔を一段明るくしている。


「……見栄えが、少し増えるだけです」


 俺は台帳の余白に線を引いた。


 公共準備火――儀礼側。

 朝食用赤灯――生活側。


「この火の目的語は、祝宴台ではありません。薬を飲む前の粥、出勤前の一口、帰還した人の朝です」


 ミナが、薬房から持ってきた小さな鍋を抱えていた。

 中には、冷えた粥粉が入っている。


「肺熱薬、空腹だと吐いてしまう子がいます。パンか粥がないと、十三本守っても飲ませられません」


 北帰還路で戻した灯りは、ここへ繋がっていた。

 人が帰る。火番が戻る。窯が温まる。パンが焼ける。薬が飲める。

 灯火は単独で光るのではない。

 朝へ渡される手順の中で、初めて意味を持つ。


「親方。今日の粉袋に、受領先の名札は残っていますか」

「ある。だが王宮の兵が、公共準備分としてまとめて持っていくと言ってきた」

「まとめないでください」


 俺は粉袋の紐をほどき、札を一枚ずつ床へ並べた。


 西薬房粥鍋、一袋。

 東橋修繕班、丸パン十二。

 川洗濯場、丸パン八。

 北門詰所、丸パン十。

 東孤児院、粥粉二袋。


 数が席を持つと、奪われるものの形が見える。


「公共という言葉でまとめた瞬間、誰の朝かが消える」


 親方は黙って、粉まみれの手で札を押さえた。


「朝焼き通りパン屋、ダルム・ロッソ。西薬房と東孤児院の朝食分は、うちが責任を持って焼く。王宮祝宴分ではない。そう書けるか」

「書きます。ミナ、青い紐を」


 青い紐を赤灯の根元に結ぶ。

 親方の名、ミナの受領補助、ベンの火番確認。三つの名前を、生活側の列へ置く。


 契約文が一度、赤い儀礼印に引っ張られて軋んだ。

 中央塔の白光が窓から差し込み、窯の影を薄くする。


「セオさん、通りませんか」

「通す。これは飾り火じゃない」


 俺は声を落として、台帳の行を指でなぞった。


 朝食用赤灯。

 目的語、粥と丸パン。

 受領先名あり。

 生活用途、儀礼用途に優先。


 炭の奥で、赤が戻った。


 小さな火だった。

 けれど窯の腹が、ゆっくり息を吹き返す。親方が粉を打ち、ベンが薪を差し、ミナが粥鍋を火の近くへ置いた。


 最初の丸パンが焼けるまで、誰も喋らなかった。


 焼き上がったパンを、親方は四つに割った。

 ひとかけらをミナへ、ひとかけらを北帰還路から戻った門番へ、ひとかけらをベンへ。

 最後のひとかけらを、俺に差し出す。


「夜勤係さん。あんたが戻したのは、火じゃないな」

「まだ一基分です」

「一基でも、朝が戻った」


 熱いパンを受け取った瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 王宮を追い出された夜に食べるには、あまりに素朴な味だった。

 けれど、薬を飲む子どもが吐かずに済む味だ。


 窓の外で、中央塔の光輪がまた一段強くなった。


 同時に、台帳の次頁が勝手に開く。


 東孤児院、粥粉荷車標識灯三基。

 処理名――公共準備完了。

 受領欄――空白ではない。


 そこには、見覚えのない王宮儀礼局の筆跡で、こう書かれていた。


 受領済み。


 まだ荷車は、ここを出てもいない。


 俺は焼きたてのパンを握ったまま、赤い印の下を見つめた。


「公共の朝を消して、誰の儀礼を準備したんですか」


 パン窯の赤灯は戻った。

 けれど、東孤児院へ向かう標識灯は、まだ点いていない。

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