神様が奪ったもの、神様がくれたもの
坂井先生は視線をカーテンの向こう側の空から室内の私たちに移して話を続けた。
「私は他の医者に、この受精卵を長期保存するのはどうかと提案してみた。私の意見に賛成するものや反対するものもおり、議論にはなったが、“明るい医学の未来のため”に、この受精卵は結果として保存することとなった。
体外受精のノウハウはすでに日本でも数多くの前例があり、そのメソッドをもってすれば、なんの難しいことはない。むしろ、この完全に産前の状態に戻りきっていない四歳じ、当時はもう五歳児か、そんな幼いからだで第二子の出産に向けて準備をする方がよっぽど酷と言うものだ。
この件については、もちろん両親も立ち会って詳しく説明をした。その上で、意見は我々と同じであり、成長をはじめた受精卵を千羽子くんの体から摘出することに成功した。
だが、ある不思議なことが起こったのだよ」
「不思議なこと?」
私は目の前にある受精卵と呼ばれたふわふわとなぞのえきたいのなかで浮いている小さい丸から目が離せないでいる。
「我々の見立てだと、受精卵は母体から抽出されたあと、羊水ににた特別な液体に入れて一時保存をする段階で、成長の兆候が見られるのだが、この受精卵は全くもって成長しなかったのだよ。不思議なことにね」
坂井先生は、じっと優しい視線をその小さい受精卵に向けていた。
「それって、もう死んでしまったということではなくて?」
これは大鷹くんからの質問だ。
「あぁ、その点についてはあらゆる角度で検査をしたが、確実に生きている。しかし、昨日の状態と比較して全く成長をせずに時が止まったままであるんだよ」
これが、私の中にいたの?と自分でも信じられなかった。
朝日が徐々に熱を帯始め、室内の気温も日差しによって暖かくなっていくのを肌で感じた。
「あぁ、本当にこれは不思議なことだ。医学では説明がつかない。世界のどこを見ても、何百年と文献や論文を遡って漁っても、何一つ情報はない。この宇宙ではじめてのことかもしれない」
坂井先生は生き生きと話した。
それは医学者としての高揚というよりも、純粋にこの奇跡のような出来事に感動しているようにも感じられた。
「まるで、時が来るのを待っていたかのようにね」
「時が来るのを、待っていた」
これは私と大鷹くんが復唱した。
タイミングは自然に絶妙な形ではシンクロした。
「おそらくだが、この受精卵は、千羽子くんと鷹志くんの子だと私は思う」
「え?そんなこと、ありえるんですか」
「ここまでくれば、医学でも科学でも想像の域を越える説明ができん。あくまでもこれは私の仮説になるが、君たちには通常の人よりも成長が早いという遺伝子的特徴があるのではないかと感じている。それは、千羽子くんの父や母にも見られなかったから、特異体質なのかもしれん。その遺伝が千羽子くんから鷹志君に伝わり、鷹志くんは胎児にして性を生み出す術を行った。そして、その鷹志くんの命の源は、なんからの形で千羽子くんの卵巣に留まり、そして千羽子くんが第二子を誕生させることができる状態まで待ち続け、そして二つの命の欠片が出会ったのではないかと私は考えている」
「でも、先生、私成長は人よりも遅い方で、生理が来たのも高校一年生になったばかりのころだし、胸だって人並みで大きくないですし、身長だって日本人女性の平均より少し大きいくらいです。成長が早いなんて感じことはないですよ」
「僕も身長は185センチありますが、それ以外は普通だと思います」
大鷹くんも続けて話した。
私は受精卵を屈んで覗き込むような姿勢から戻って、窓辺に立つ坂井先生に視線を移した。
白髪のその男性は齡70のはずだが、腰は全く曲がっておらず、まるで定規のようにピントまっすぐで、膝も老いを感じさせないようなしなやかさが、白衣のしたのズボンの上からでも感じられた。
20年前に、本当にこの人は私から大鷹くんを生んでくれたのか。
まるで、昨日のことのようにはっきりとした記憶を持ち、肌艶だけを見れば、よくよく見ると60歳とも言えるような怪しさも感じられるかおをしていた。
先生のいう通り、私たちが人よりも成長が早いというのであれば、この先生は人よりも成長が遅いのかもしれないと思った。
「あぁ、その場合は、人がゆっくりと段階を経て行う成長を、ある時期にまとめて一気に行ったと解釈をすれば、あとは特にすることもないのでからだがゆっくりと平均的な数字と合うまで合わせていたのかもしれんな、分からんがな」
いまとなっては、私たちの成長なんてどうでもよい。
いまは普通に毎月生理が来ているし、白髪だってまだ生えていないし、更年期と思われる症状も出ていない。
どこからどう見ても、どこにでもいる24歳の女だ。
「さぁ、すまないが、次の約束があるものでな。君たちはただ昔話を聞きに来たかもしれんが、ワシからひとつ課題を出してもよいかの」
まるで、講義に来た大学生に向かって教授が話すかのように、説いた。
「課題、ですか?」
「そうだ、課題だ。なに、難しいことはない。選択肢が三つあるから、どれか二つを消してほしいだけだよ」
「二つを、消す…」
「そうだ。ここに、リンゴの種があるとしよう」
先生は右手の手のひらを開いて、リンゴの種がまるである化のようなジェスチャーをした。
「このリンゴの種を、他の農園で育てるか、自分達で育てるか、諦めるかだ。リンゴを育てるのは難しい。実になら無いこともあるし、思ったように育たないこともある。雨風に弱くて、からすなどの害鳥にやられぬよよう常に見張っておらねばならぬ。手放すのは簡単だが、一度捨ててしまうともう二度と種かは芽はでないじゃろう。他の農園で育てるのを見るのもそれは立派な選択肢だ。しかし、他の農園には他の農園のやり方がある。日本では郷に入り手は郷に従えとも言うな。そうすれば、あとからとやかく言うことできない。しかし、自分達は苦労から逃れられる。
さて、どうしようかな」
先生はそういうと、自分の自席向かって歩き始めた。
「ほんとうにすまないねぇ。もっと時間があれば、時間が許す限り話をしたかったのだが、生憎まだこんな老いぼれにも仕事があるもんで。ただ、答えはいつでもよいぞ。その受精卵は、“待っていられるから”な」
そういうと、ドアからノック音がして、「先生、予約の方がいらっしゃいました。時間通りにご案内してよろしいですか」とドア越しに声が聞こえた。
私たちは場の雰囲気を悟り、この場から立ち去らなければならいことを認識した。
「答えは、言わなくてもいいし、後日電話でも手紙でもなんでもよいよ。二人で考えてもいいし一人で考えてもいい。誰かに相談してもいいし、また相談に来てもいい」
先生は優しくそういうと、次の約束の準備を始めて、テーブルの上の書類を集め始めた。
答え。
リンゴの種をどうするか。
粋なりそんなことを言われても、大きな決断になることは瞬時に理解していた。
ぐるぐると考えを巡らせようとする頭だったけれども、なぜか一瞬のうちにその頭の中のもやもやはすっと晴れて、私は次の瞬間には平然とした自分に戻っていた。
「先生、相談なんて要らないです」
私ははっきりとそう告げた。
「ほう、ということは、このままここで答えが貰えるということかな」
先生は私たちに向き直り、にこりと微笑んだ。
私は大鷹君の方を見ると、にっこりと笑ってくれていた。
「たぶんというか、絶対気持ち同じやと思う」
大鷹くんはそう言って、私が大好きな優しい笑顔で見つめてくれた。
「ありがとう、大鷹くん」
私、今日ここに来て本当によかったよ。
人生最高の日が最悪になって、もうどん底だったけれども、今日からまた最高な日が始まるって想像するだけで、明日の辛いこともなんでも乗り越えられちゃうんだね。
ありがとう、大鷹くん。
「先生、答えは…」
窓を締め切った部屋だけれども、白いレースのカーテンが揺れるのを感じた。
風が吹き込んだ形跡もないのに、ゆらゆらと揺れるそのカーテンは、優しく私たちに手を振っているように見えた。
それはきっと、私の心が明るくて優しい気持ちに満たされたからなんだと思う。
暖かい日差しが部屋いっぱいに入ってきて、三人が太陽の光に照らされた。




