繋がれる未来
普段嗅ぎなれない消毒液の匂いが鼻の奥を強く刺激する。
何時間、何日いたってこの匂いには慣れないし慣れたくないと私は思った。
ここは、都心にある有名な総合病院の待合室である。
私たちは今日、私から大鷹くんを産んでくれた主治医の先生に会う。
実際には産婦人科の先生が現場を担当してくれたらしいのだが、その先生が先導をきって私たちの命の安全を優先的に手術の計画を練ってくれたおかげなのだ。
いわば、その先生に私たちの命は助けられたということである。
先生に会っても、私の心は決して晴れないと思っている。
今でも受入がたい事実が更に鮮明となるだけで、後にも先にも動けないだけである。
であれば、いっそのこと駆け落ちでもしようかと提案しようとしたが、大鷹くんがいたって冷静であるので、私は病院の待合室で静かに待つことにした。
病院には普段見慣れない人々がたくさんいると感じた。
受付で紹介状を渡して、しばらく待つことになったので、私は行きかう人々の観察を行うことにした。
松葉杖の人、看護服の人、点滴をしている人、おじいちゃん、おばあちゃん、若い人、子供、本当にいろいろな目的でここに来ている。
たまにお腹が大きい妊婦さんが通った。
この総合病院には、産婦人科がまだあるようだった。
あの妊婦さんは、私のように自分の恋人を産んだりしないんだ。
そう思った瞬間に、心がしぼんでいくのだった。
今朝はあんなに満ち足りた気持だったのに。
朝は、不思議なくらいすっきりとした目覚めだった。
昨日のあの嵐のような日が嘘のようだった。
窓やカーテンの隙間から差す朝日の清々しく輝かしいことと言ったら、人生ではじめてくらいの感動だった。
絵にかいたように、朝日を浴びて自然に目が覚める心地よさと、目を開けるとそばに好きな人が寝息を立てる寝姿を愛おしく思うのは、生きていてよかったと思える瞬間でもあった。
あんなに幸せで膨らんだ心はいま、この無機質な白で塗り固められた総合病院の待合室で音もなくしぼんでいった。
私は両親から私の隠された事実を告げられてから、1週間仕事を休んだ。
どうしてもやる気が起きなかったのと、もう人生がどうでもよくなったのだ。
でも、1週間休んでも現実が何か動くわけでもなかった。
だたそこにあるのは、現実を受け入れられない自分と、現実をなんとか受け入れようとしてくれている大鷹くんだけだった。
大鷹くんはこんなときでも「一緒にいよう」と提案をしてくれて、北千住の私の家から最低限の着替えだけを持って大鷹くんのアパートに半同棲の形で居候をしている。
しかし、そこには男女がひとつ屋根の下で暮らすというキラキラしたものやときめきはなかった。
でも、私はそばに大鷹くんがいるという安心感だけでも大きな自分の存在意義を感じていた。
もしも彼がいなかったら、私は灰になっていたと思う。
いまではだいぶ心のもやもやも晴れた。
いまでも大鷹くんのことは大好きだし、あの事実が嘘だったらいいなと願うのは変わらない。
でも、お母さんからは謝罪の連絡しか来ないし、お父さんからもまめに電話はくるけれども「実は嘘なんだ」と言われる雰囲気は全くない。
男女がこうして同じ部屋で着替えたり同じベッドで寝ているのに、不思議と性欲も湧いてこない。
でも、朝起きて隣に大鷹くんがいるだけで、今日も生きていて良かったと思える。
これが母性なのか異性への愛情なのかは不明だ。
でも、私の気持ちは1週間経っても変わらなかった。
そしてある日、大鷹くんから「先生に会ってみない?」と提案を受けた。
断る理由も気力もなかったので、ひとつ返事で大鷹くんと電車を乗り継ぎ、この病院にきた。
「大野さま」
待合カウンターで受付の人が名前を呼んだ。
大野は私たちこのことだろうか。
待合席に腰を下ろす何十名を見ても、他に席を立つ人もいないので、私たちが呼ばれているようだ。
「はい」
私は受付の人に聞こえるか聞こえないか分からないくらいの少し小さな声で、受付カウンターに向かった。
「2階の診療室2番で先生がお待ちです。向こうに見える階段から上がって、すぐのお部屋です」
そう事務的に話されただけで、受付の女性は「佐々木さん」と次の方のご案内を始めた。
私たちは、言われたままに、視界に入っていたクリーム色の階段を登って「2番の診療室」を目指した。
いざ、先生の部屋の前となると、やはり緊張はするものだ。
別にどこか悪いわけでもないし、死の宣告を受けるわけでもないものの、鼓動は明らかに強く緊張を表していた。
何度か親切な看護師さんが「いかがないさいましたか」と声をかけてくれたものの、私たちは「あ、大丈夫です」というのが精いっぱいだった。
先生もおそらくタイトなスケジュールの合間を縫って、わたしたちとの面会の時間を設定してくれたにちがいない。
あまり時間を無駄にはできない。
「いこっか」
ここは年上の私が先導を切るしかない。
詰めたいアルミ製の大きなドアの手すりを握って、右に大きくドアを開いた。
中には、白衣を着た小柄でアッシュグレイの髪をきれいにまとめたメガネをかけた初老の先生が椅子に腰を掛けていた。
その先生は、入室の音を聞いて私たちを見て「産婦人科は1階ですが・・・」と言いかけて、すぐに「大野さんですか」と言い直した。
私たちを若いカップルとでも見間違えたのだろうか。
それならそれで、嬉しいのだが、先生は興奮したような表情になり、両手を広げて私に抱きついてきた。
消毒液の匂いではなく、先生からは柔軟剤の柔らかい匂いがした。
「大野さんだね!いや~大きくなったね!元気そうで何より!」
先生は私の背中をバシバシと何回か叩いて、その次に大鷹くんにもハグをして「いや~君があのときの小さな男の子だね、本当に大きくなったね。少し大きくなりすぎなのでは?ハハハ、そんなことないか。元気でなによりだ。さあ、狭いところであんまり時間が取れないが、こちらに座って座って」と先生は楽しそうに部屋に案内してくれた。
「坂井先生、その節は大変お世話になりました」
私たちは案内されるがままに、診察室の椅子に腰を掛けて、先生に向かって深々とお辞儀をした。
「いや~いいんだよ。小さかったから覚えていないよね。まず何よりだ」
先生は私が勝手に想像していた無口で根暗で怖いイメージとは真逆で、よくしゃべりよく笑いとても明るい先生だった。
「次のアポイントの約束があるから、20分くらいしか時間が取れないけれども、聞きたいことがあったら何でも聞いて。きっと、いつかこんな日がくるとはおもっていたから」
「はい、ありがとうございます」
そうは言ったものの、ここには大鷹くんに言われるがままついてきただけで、正直私は何かを聞きたいという気持ちでは来ていなかった。
連れてこられたという言い方の方がいいかもしれないが、先生に改めて聞くことなんて、考えても思いつかなかった。
そんな気持ちを察してくれたのか、先生から「いきなり聞いてと言われても分からんよな。大学の生徒もそうだよ、何でも聞いてと言っても、何も出てこない。わたしの一人おしゃべりでよければ付き合ってくれ」と切り出してくれた。
「おおよそ察しがつくというか、大野さんが“子供が二十歳になったらこの事実を告げます”と聞いていたので、君が二十歳になって、この話を聞いて、紹介状でここに来たのは想像がつく。それまでにどんなことがったのかは分からないが、君たちは初対面ではなさそうだ。何か友達以上に強い縁を感じているように見えるね。
さて、本題だが、君たちは紛れもなく、血縁上でも遺伝子学上でも家族だ。これは誰がなんといおうと家族だ。しかし、君たちは戸籍上では別の家族となっているはずだね。そうした方がいいと提言したのは僕ではあるが、鷹志くんはお父さんの子供、千羽子くんはお母さんの子供として生きている。つまり、君たちはそれぞれ家族の枠を超えて自由に生きていいってことなんだよ、まあ、いきなりそんな風に言われてもぴんとこないと思うけどね」
坂井先生は、流れるようにするすると言葉を話す人だった。
話慣れているのか、詰まることなく、アナウンサーのように言葉が溢れてくる。
「せっかくだから、もっと言うと君たちの出生の秘密は、もっと深いところにあると思っている。僕はね、結構神話とかが好きなんだけど、処女聖母マリアのことは聞いたことがあるかな」
「はい、高校の時、世界史の授業で先生が言っていました。マリアは誰とも交わらずにイエスをその身に宿したって」
「うんそうだよ。僕は君の話を聞いたとき、まず頭に浮かんだのは、君はマリアの生まれ変わりなんじゃないかってね。それは医者として、医学的ではないことを言っているのは百も承知だけれども、カウンセリングを重ねても、どう検査をしても、君は4歳という年齢で誰かとそういう関係を持った可能性は限りなくゼロに近い。君のお父さんもだ。しかし、それは世間からすれば、格好の週刊誌のネタになるね。それを覚悟で君のお父さんは汚れ役を買って出たんだ。君を守るために。世界から君を隠すために、ね。実はね、千羽子くん。君にはもう一人の子供がいるんだよ、これはご両親から私の口で説明して欲しいと言われていたからね。実は鷹志くんが生まれたことをダミーに、もう一つの事実を隠そうとしていたんだ」
「もう一人の、子ども?」
頭が再び真っ白になった。
大鷹くんが、自分の子供だということにも動揺を隠しきれなっかったのに、もう一人の子供なんて、どう受け入れればいいのだろうか。
「それってどういうことですか」
「そうだね、分かり易く説明すると、鷹志くんと千羽子くんの子供だよ」
「え・・・?」
さらに分からなくなった。
「私と、大鷹くんとの子供・・・?そんなわけ、そんなこと、あるわけないじゃないですか」
「そうなんだよ」
坂井先生は、白いカーテンが静かに揺れる窓辺に向かって歩いていった。
窓からは、太陽の明るい日差しが燦燦と部屋に降り注いでいる。
「ありえない。ありあえないはずなんだが、実際にありえている。千羽子くんを帝王切開した後、経過観察で見ていたが、実は1年後にまたお腹のふくらみが確認されてね。調べると君はまた妊娠していたのだよ。しかし、さすがに2回の帝王切開は幼い君の体に相当な負担をかける。そのために、ここは両親の判断でその命を手放すことにした。しかし、しかしだよ。私は一抹の望みをかけて、その受精卵を凍結することにした。もしかしたら、鷹志くんのように、何年も時がくるまで“待つことができる”命なのかもしれないと。両親は、もともと手放さなければいけない命ならと、この計画に賛同してくれた。ご両親も最後まで悩んでいたよ。もともと、ご両親の間には子宝に恵まれずに、何十年も苦労した過去があったようだからね。
千羽子くん、君のその受精卵はここにある」
坂井先生は、こちらにおいでと手招きをした。
先生は棚の中に小さな冷蔵庫のような白い陶器で覆われたような箱があった。
坂井先生はその白い箱の扉を開けると、中からガラス張りの箱が見えるようにしてくれた。
私と大鷹くんは覗き込むように、ぐっと顔を箱に近づけた。
「最終的には凍結ではなく、常温での保管がいいと判断したんだ。見てごらん、生きているだろう」
棚の中を更に覗くと、拡大鏡が見えて、白い背景の画面の奥に小さな丸い球が浮かんでいるのが見えた。
「産後の体はとても脆い。さらに四歳というとてもはかない体だ。それもあって、君を定点的に検査をしたときに、いままで来ていた生理がないということを知った。ちょうどタイミング的に一回目の生理が来ないそんなときだった。
検査をすると、なんと千羽子くんには第二子が命を宿していたんだよ。
無論、我々は可能性を疑ったが、千羽子くんと接触できるのは第三者の私から見ても誰もいなかった。さすがに4歳で一人目を出産するのも体力的にも精神的にも非常に負担が大きく、私を含めた他の先生方も次の出産は少なくともいまではないという意見で全員一致だった。
では、どうするか?
命を見捨てるか、はたまた妊娠を望む家族に提供するか。しかさは、私はもうひとつの可能性を見出だした。
この受精卵を暫しの間、時を止めてみるのはどうかなと」
坂井先生は、揺れるカーテン越しに遠くを見つめた。
過去の出来事を空にスクリーンで写し出されているように、じっと遠くの景色を見つめた。




