東京に向かう道で見た景色は何よりも残酷だった
気がつくと、私は車に乗っていた。
助手席のシートベルトがきつく体を座席に縛り付けていた。
フロントガラスを流れる景色は速く通り過ぎて、いまがどこなのか、どこを走っているのか、はたまた天気が晴れなのかさえも私には確認できなかった。
私が助手席にいて、景色が流れているということは、誰かがこの車を運転しているということである。
もたれかかった座席から顔だけを動かして運転席を見る。
そこにはただ真っすぐと前だけを見つめる青年の姿があった。
黒い髪はきちんと清潔感を持って切りそろえられているが、前髪は眉毛にかかるくらいに長く、癖毛なのだろうか、ふわふわと頭部の髪が空気を巻いてうねっている。
今どきの若者、とでもいうような雰囲気がする。
昨日で20歳を迎えたこの青年は、ただ何かを発言するでもなく、運転を楽しむ様な素振りを見せるわけでもなく、もくもくと目的地に向かって車を走らせる、無機質な様子を醸し出していた。
私は再びフロントガラスに目をやる。
目を向けても、何一つピントが合わなかった。
どんなに意識を集中しても、何も考えられなかった。
ただ、ひとつのことを除いて、はだ。
いま車を運転している青年、昨日ついに恋人として結ばれるはずだったこの青年と私が親子であると言うことを除いて。
お母さんが言ったことへの理解は全くできなかった。
いまでも悪い冗談か何かだと信じてやまない。
「え、うそでしょ、お母さん」
人は受け入れがたい事実に直面したとし、只うろたえるか、騒ぎ立てるものだと思っていたが、わたしはそのどちらでもなく、冗談だと思うように思考がシフトするタイプだった。
「信じられないかもしれないけれど、そうなの。ごめん、もっと早く、言っておけばよかった」
「ありえないでしょ?だって私は24歳、大鷹くんは20歳。私が4歳で産んだ子供ってこと?作り話にしてはちょっと雑じゃない?」
電話の向こうのお母さんに話しているが、大鷹くんも趣旨を掴んだようで、心配そうな顔でこちらを見ている。
彼もまだ、お父さんと電話で話をしているようだった。
「信じられないよね。お母さんだって、未だに信じられないわよ。でも、そうなの、事実なの。出生証明書もあるし、母子手帳も…」
「嘘だ、嘘だ」
お母さんが言い終わらないうちに、私は叫んだ。
大鷹くんと私が親子?
4歳で産んだ子供?
どういうこと?
あり得ない事実をなんとか理解しようと試みたが、それは不可能だった。
だって、あり得ないでしょう。
「ごめん、千羽子。お母さんも、ずっとこのことを考えていた。考えない日はなかった。千羽子にとって何が一番幸せかを考えて、いまのかたちにしたの。お母さんの選択が悪かった。ごめんね。もっと早く話しておくべきだった」
電話の向こうのお母さんは泣いていた。
涙を抑えられず、目からぽたぽたと涙を流しながら話す姿がすぐに目に浮かんだ。
今、何が起きているのか。
私は、何も話すことができずに、沈黙をするしかなかった。
目の前の景色がぼんやりとしてきて、脳が思考停止する。
目眩もしてきた。
気がどんどんと遠のいていく。
一瞬だけ意識が飛んだ気がするが、気がつくと大鷹くんが私を支えるように後ろから抱きかかえてくれた。
「ちーちゃん、俺も、聞いたで」
私の電話が聞こえたのだろう。
大鷹くんも悲しそうな目で私を見ている。
「ねぇ、嘘だよね?」
「…」
大鷹くんは何も言わなかった。
「千羽子?」
手に持っている電話から、男の人の低い声がした。
ついに幻聴まで聞こえてきた。
「千羽子?聞こえとる?」
関西訛のその声は、私を呼んでいる。
「ちーちゃん、呼ばれとるで」
私は体に力が入らなくなっていた。
辛うじて、聴覚や視覚は感覚として機能しているようだが、それ以外はまったく感じなかった。
唯一言えば、口の中はカラカラに乾き、舌からは水分が抜け、喉も乾燥した砂漠のように生きる気力を無くしていた。
手に持っていた携帯電話はいつの間にかだらりと垂れた手から離れて布団の上に転がっていた。
そこで大鷹くんは、私の携帯電話を取り上げて、電話の声がよく聞こえるように、スピーカーモードに切り替えた。
「千羽子、大丈夫か」
先程よりも大きくて、はっきりとした男の人の声が部屋に響いた。
「あの、どなたですか」
絞り出すようにして、問いかけた。
「ああ、すまん。久々やからな。久々ゆうても、もう20年ぶりか。覚えとらんやろうけど、父ちゃんやで」
私の、お父さん?
なぜ、お母さんの電話から二人が出てくるのだ。
二人は別居していて、絶縁状態だったはず。
「お父さん?」
20年ぶりに再会した、父と見られるその男性は、優しい声で続けた。
「千羽子、ホンマに堪忍な。もっと早う話しておけば、こんなことにならんかったのかもしれんけど、すまん。時間もらえるか?直接会って、話した方がええよな。明日、時間あるよな。みんなで、話さんか?」
お父さん。
20年も父がいない人生だった。
今更何を言っているのだろうか。
本当にこの人が私のお父さんという確証はない。
お母さんの愛人かもしれない。
ついに離婚を決心したお母さんがでっち上げた嘘かもしれない。
そう思うほうが心は穏やかだった。
「明日は、予定があって」
辿々しい言葉で回答した。
「あぁ、鷹志の父ちゃんに会うんやろ?それ、俺や。俺が鷹志の父ちゃんや。だから、なんの問題もない」
言われていることは日本語として理解できたが、日本語以外では全く理解できなかった。
私の体からはどんどんと力が抜けて、今にももぬけの殻になりつつあった。
「千羽子、明日皆で話しましょう」
電話口から今度はお母さんの声がした。
お母さん、お父さんと一緒にいるの。
「明日」
私はそれだけ言うと、気を失ったらしい。
後から大鷹くんが、教えてくれた。
しかし、ゆっくりと遠のいていく意識の中で大鷹くんがお母さんとお父さんと見られる人と話している会話がぼんやりと記憶に残っている。
「ちーちゃんのお母さん、初めまして。明日、朝イチでちーちゃん連れて東京に帰ります。ちーちゃんは無事に連れて行くので安心してください。正直俺も参ってますが、ちーちゃんのお母さんも父ちゃんもしんどいと思うので、今日は休んでください」
神様は、私に試練を与えているのか。
私は神様に何かいじわるをしたのかな。
だから、いまこうしていじわるをされているのかな。
細い糸のようになった意識は、次の一秒後にはぷっつりと切れていた。
私は完全に気を失った。
次の記憶が、車の中だった。
いつの間にか、私達は松島のホテルをチェックアウトしていた。
荷物もきれいにまとめられ、後部座席に並べられているのを途中休憩で立ち寄ったサービスエリアの駐車場で、窓ガラス越しにふいに目に入った。
すべて大鷹くんがやってくれたのだと思うと、ありがたいという気持ちしか湧いてこなかった。
二回目のサービスエリアでの休憩をいましている。
私は無意識的にトイレに行った。
トイレから出ると大鷹くんが待っていてくれて、「何か飲む?」と聞いてくれたので、「うん」と短く返事をした。
そういえば、昨日の夜から何を飲んだ記憶がない。
大鷹くんは甘党と知っていたので、私は「この砂糖たっぷりのカフェオレでいい?」と聞くと「ありがとう」と満面の笑みで返してくれた。
その笑顔を見るだけでこちらも心が温かくなる。
しかし、そうした不意の仕草からでも“私が産んだ子供”という、今でも信じがたい事柄が頭の中を何度も交錯して、その度に気持ちが悪くなってくる。
吐き気に近いような、胃から何かが押し上げられて、ぐちゃぐちゃに掻き回される嘔吐感が絶えずやってきた。
その度にぐっとお腹の奥に力を入れてその吐き気を無理やり抑え込んだ。
悪い夢なら終わってしまえ。
そう何度も願いながら揺れる車の中で寝てみたものの、いくら目が覚めても、大鷹くんの悲しい表情はちっとも変わらなかった。
横顔を見るたびに、眉間によるシワの数が増えているように見えるし、何よりも顔色が悪くなっているようにも見える。
彼も私と同じようにこの受け入れがたい目の前に突きつけられた事柄をどのように対処したらいいかわからないでいるのだ。
そう思うと、ほんの少しだけ心が軽くなる気がした。
気持ちが通っている、と錯覚することができた。
それでも、私は彼に積極的に話しかけることはできなかった。
話しかけたところで、何かが変わるわけでもないし、何を話しかけたらいいのか検討もつかなかった。
私は、考えることを辞めた。
考えても答えは出ない。
それならば、せめて、夢の中くらいは楽になれるかもしれないと思いまた瞼を瞑った。
夢の中にわずかばかりの希望を求めて。
結果として、夢の中でも、楽になることはなかった。
むしろ、目覚めの悪い夢を見て、さらに気持ちが落ち込んだ。
なんだか、風邪を引いたときに見るような、激しくして何の脈略もないただ混沌とした映像が凄まじい勢いで流れるだけ、当事者も置いてけぼりのそんな夢だった。
起きる寸前まで、はっきりと内容を理解しているのに、起きた瞬間にすべてを忘れてしまう夢の特性をそのままにした夢だった。
嫌な夢なら、覚えていないほうがむしろ幸せということだ。
起きると、まだ車は走っていた。
日も大部傾き始めていた。
松島に行くまでは、本当に楽しくて明るく輝くように見えた景色も、今では墨で塗ったかのようなモノクロの世界が広がっているだけだった。
東京に帰ってどうする。
帰ったところで、お母さんに言い渡されたことを再度告げられるだけだ。
私は、どうしたい?
もし仮に、大鷹くんが私の子供だったら?
無論、血縁関係がある親子同士が恋人になんてなれない。
そして付き合うことすらおこがましいのに、二人屋根の下で親子なのだから一緒に暮らしましょうなんて、今更できるはずがない。
これから、私達はどうなっていくのだろうか。
運命は、私達をどう導くのだろうか。
大鷹くんは、どうしたいのか。
漠然とした未来に、何の高揚もない。
あるのは、残酷な現実だけである。
永遠に東京が遠ければいいのにと、ふと思った。
東京につけば、否が応でも残酷な現実になるだけだ。
どす黒く塗られたフロントガラスの向こうにある景色が、今にも私達のこのちっぽけなレンタカーを飲み込もうとしているかのように、大きな口を開けて待っている。
残酷な道への一本道は、ただただ真っ直ぐと、私達を陽気に誘っているようだった。




