濡れた髪であなたはそっと私を抱く
お互いに顔を傾けて、ゆっくりと吸い込まれるように近づいていく。
ふわりと大鷹くんの吐息が鼻にかかる。
あたたかくて柔らかい空気だった。
もうあと1センチというときだった。
「失礼いたします」
後ろからはっきりとした女の人の声が聞こえた。
まさか、と思った。
また、邪魔が入ってしまった。
デザートの頃合いと見計らった仲居さんがゆっくりと丁寧に襖を開けて深々とお辞儀をした。
「甘味をお持ちいたしました。あわせて、温かい緑茶もお召し上がりください」
仲居さんはそう言うと、黒子のように手際よくテーブルの上にある空いたお皿を片付けて、甘味の和菓子とアイスとフルーツの盛り合わせを出してくれた。
髪を後ろでひとまとめにして、シワひとつない着物を纏った中年の仲居さんは、軽く私達に会釈をして、風のように去っていった。
私たちはいつの間にか座椅子の上で正座をしており、仲居さんの気配が完全になくなるまでお互いに一言も言葉を交わさずに、目配せもせずにいた。
少しして、「あー、なんだよ、ちくしょう」と大鷹くんがへなへなとテーブルに覆いかぶさった。
「なんかさ、タイミング悪ない?毎回なんか誰か被せてくるよな?なんなん?」
大鷹くんは呆れた顔で助けを求めるように私を見た。
「ほんとに、ね。神様のイタズラかな?でもさ、もう仲居さんたちも来ないだろうし、これからはふたりきりでゆっくり出来るよ」
私はそう言って、大鷹くんの手を握った。
もう彼は私のことを拒んだりしなかった。
むしろ握り返してくれたその手はゴツゴツしていて、それでいてお酒のおかげか温かくて、血管が脈々と浮き出たその手は男らしさを感じさせてくれた。
「せやな」
そして、優しく握り返してくれた。
「あ、そう言えばお風呂どうする?大浴場もあるみたいだけど、行く?」
「せやなー、大浴場もええなぁ。でもこの部屋露天風呂付きやろ?」
「確かにね。大浴場は明日でもいいかもね、朝風呂とか」
「朝風呂ええなぁ。なんかそそられるわ、ちーちゃん」
用意された部屋は二人には十分すぎるくらいの広さで、既に夕ご飯の用意とともに布団が敷かれていた。
そう言えば、夕ご飯を片付けに来ますか?と夕食が始まったときに聞かれていたが、「自分たちで片付けます」と伝えていた。
「それであれば、外のワゴンに置いてください」と言われていた。
つまり、もう仲居さんたちはこの部屋に来ない。
そして、もうふたりきり。
「なぁ、ちーちゃん」
「なぁに?」
「後悔、しとらん?」
低い声で大鷹くんが尋ねてきた。
「もちろんだよ」
後悔なんて、あるわけない。
甘味を食べたあとに、折角だからと個室の露天風呂に入ることにした。
先に大鷹くんが入浴して、その後に私が入ることにた。
大鷹くんが冗談で「もちろん、一緒に入るやろ?」と聞いてきたが、さすがに恥ずかしいので「あとでね」とあしらってしまった。
本心では一緒に入りたいものの、女の子には色々と用意がある。
これから好きな人に抱かれるのであれば、できる限り自分の体をキレイにしてから彼の前に立ちたい。
大鷹くんはタオルを一枚待って、颯爽とお風呂に行った。
「おー、ちーちゃん、めっちゃ気持ちええで」
子供のように大きな声で実況中継してくれる彼が可愛かった。
いつか子供ができたら、こんなふうに家族で温泉旅行に来て、美味しいご飯を食べて、温泉でゆっくり羽根を伸ばして、子供の成長を感じていきたい。
そう、大鷹くんと。
ざぶん、ばしゃん、と大鷹くんが体を洗ったり湯船からお湯を汲む音がする。
私はこの間に、千葉ちゃんに連絡を返した。
実は千葉ちゃんにだけは、今回の旅行のことを伝えていた。
松谷さんのこともあり、千葉ちゃんにはいろいろと迷惑をかけていたこともあり、一番に嬉しい話をしたかった。
千葉ちゃんはもちろん応援してくれて、「ブレイクしすぎるなよ!」とメッセージを返してくれた。
私も「千葉ちゃんもね!」と返して、大鷹くんがお風呂から上がるのを待った。
そして、携帯電話の電源を落とした。
誰にも邪魔されたくない。
ふたりだけの空間が出来上がっていった。
しばらくして、大鷹くんがお風呂から上がってきた。
「ふー、気持ちええわぁ、最高やわぁー」
「ゆっくりできた?」
「そりゃあ、もう」
お風呂から上がってきた大鷹くんは、何よりも色っぽさが凄かった。
濡れた髪は汗をかいたあとのような印象を与え、少し高揚したかのような表情でこちらを見つめる。
汗ばんだ首筋に何筋か汗が流れ、タオルで拭く様は本当に艶っぽくて私はそれだけで体が熱くなってきた。
初めてあったときからそうだったが、この人は本当に人を惹き付ける魅力がある。
背の高いシルエットでも浴衣が映える。
浴衣の襟から見える鎖骨や胸板が、私の血を湧きたる。
「携帯の電源切っちゃった」
「ほんま?俺もやで。宿ついたときから」
二人は息ぴったりのようだ。
「ゆっくりしてきてな」
「すぐ、あがってくるよ」
私は大鷹くんに擦り寄るように体を近づけて、やんわりと触れるだけのスキンシップを取った。
天然露天風呂は、本当に最高だった。
日頃の疲れが全くなくなるほどに、お湯の中に溶けていった。
柔らかくとろとろした透明のお湯だが、魔法がかかっているかと思うくらい、体の奥から疲れがなくなっていくのを感じる。
彼とこうしてまた温泉に来たいな。
神様、ささやかな願い、どうか叶えてください。
他に何も要らない。
仕事もなくなってもいい。
貯金もなくなってもいい。
東京に住めなくなってもいい。
どうか、このまま彼といさせてください。
空を見ると群青色の夜空に星がいくつも瞬いていた。
東京では、星が少ない。
私は東京に来たときに、すぐに感じたことだ。
でも本当は少ないのではない。
見えないだけたのだ。
街頭やビルの明かりが強すぎて、星が見えなくなってきているのだ。
この星の向こうにいるかもしれない神様に私は祈った。
どうか、神様。
私達に幸せをください。
私は何度も何度も祈った。
祈りは、溢れ出る湯船のお湯用にどんどんと流れていった。
お風呂から上がると、大鷹くんはテーブルの上にあるお酒を飲んでいた。
「今日は攻める日だね」
「今日攻めんで、いつ攻めるねん」
「確かに」
「確かにやないでー」
はははと私は笑って、タオルで髪を拭いた。
「あ、ちーちゃん…」
大鷹くんの声がしたかと思った瞬間、私は抱かれていた。
「え…」
彼の胸がすぐ目の前にあって、私の腰には彼の手が回されていた。
「ホンマ、あかんて、それ」
「え、どういうこと?」
「浴衣姿で、濡れた髪で、こんな綺麗な人目の前におったら我慢できへん」
大鷹くんは、もう我慢の限界のようだ。
「ごめん。髪濡れとって、乾かさな風邪引くの分かっとるけど、もう、こんなちーちゃんの姿見たら我慢できへんくて、抱いてもうた」
ずっと私を抱きしめてくれる彼の鼓動が激しく聞こえる。
お酒のせいか、緊張のせいか。
答えはどちらでもいい。
彼はもう、準備万端だ。
「いいよ」
「え?」
「いいよって」
「何が?」
「風邪引いてもいいよ。もう、私も、我慢できないの」
そう言ったのと同時に、私は彼の首に手を回した。
そして、ぎゅっと自分の体に彼の体を寄せた。
さらに強く抱き返してくれる。
力が強い。
彼が男なのだと再認識させてくれる。
首筋にすぐ唇が届きそうだった。
そっと触れようと顔を傾けると、
「布団、行かへん?」
耳元で大鷹くんが囁いた。
耳にかかる息がくすぐったくて、思わずビクンと体が反応してしまった。
「なに?感じとるん?耳、弱いねんな。あとで、たっぷりやったるで」
小悪魔のように何かを企む声だった。
私は、嫌とは言わなかった。
むしろ、もっとそうして欲しいと言いたいくらいだった。
「ちーちゃん、意外と小さいなぁ」
「大鷹くんが大きいんだよ」
「ホンマー?それって背の話?」
「え、どういうこと?」
「冗談」
大鷹くんは私を抱きかかえて、布団にゆっくりと下ろしてくれた。
「あ、電気。電気消していい?恥ずかしくて」
「ええよ、最初はな」
「最初って」
「ちーちゃん忘れとるやろうけど、俺女の子とこんなことするの初めてやねん。俺の気持ち、分かってくれる?」
「もちろんだよ」
「優しくしてな」
「うん」
「うまくできんかったらごめん」
「ううん、大鷹くんなら何でもいい」
「がんばるから」
「頑張らなくてもいいよ」
「もう、ええ?」
頬に手を添えて、私の肌の心地を確かめているようだった。
「うん…」
消え入りそうな声で答えたのは、大鷹くんが私の答えを言い切らないうちに、首にキスをしてきたから。
暗闇の中で薄っすらと見える彼の表情。
いつにもないくらいに真剣で、真っすぐで、獣のようだった。
首に這うように2回だけキスをした。
そして、手を握った。
次に、もう一度抱き合った。
ああ、神様。
ありがとう。
生きていてよかった。
好きな人と結ばれること。
こんなにも幸せなことだなんて思いもしなかった。
ずっと、この幸せが続きますように。
ずっと、この人と一緒にいられますように。
ずっと、ずっと。
私は、体を彼に委ねていた。
それもあるし、暗闇だからかもしれないが、私が二筋の涙を流したことは、私しか知らない。
彼には見えていないはずだ。
あぁ、幸せすぎて死にそうだ。
あぁ、神様。
この幸せを壊すなら、あなたは本当に残酷だ。
あなたを一生恨んで生きよう。
どんな罰よりも、この人と一緒に歩めない人生は苦痛でしかない。
神様。
どうか、神様。
私は、何度も何度も祈った。
そして、彼を抱きしめた。




