一番の選択と決断が運命の日を決める
意識が睡眠状態から分断されて、現実に引き戻したのは携帯電話の着信音だった。
ピピピピピピピピ
機械音が一気に私の意識を呼び覚ます。
バッと起きようとしたが、体が動かない。
ほんの数秒で状況を理解した。
大鷹くんが私の胸の上で、体をすべて預けて寝ている。
彼の重みで体が起き上がらなかったのだ。
私が少し力を入れて起きようとしたためか、彼も着信音に気づいたためなのか、「ん…」と寝起きの声がして、体をゆっくりと起こし始めた。
まだ意識は現実に来ていなさそうだ。
いまならまだ再び眠りに落ちそうな雰囲気を出している。
「ん…」
しかし鳴り止まない着信音は、無情にも大鷹くんの意識を現実に無理矢理引きづり混んでいる。
この音は目覚まし時計などではなさそうだし、私の携帯電話ではない。
私はプライベートの電話も仕事用の電話も常にサイレントモードにしており、着信音はオフだ。
仕事をしているときだけ、バイブにしている。
つまり、これは私の携帯電話ではなく、彼のだ。
「電話?」
眠気眼で、携帯電話の所在を探す。
発信源はテーブルの上のようだ。
ゆっくりと体を起こした大鷹くんは、まだ半分も開いていない目をこちらに向けた。
その瞬間、白目が見えるくらい大きく目を見開いて
「え?!」
と叫ぶと同時に後ろに大きくひっくり返った。
そして同時にテーブルに頭を強く打った。
「大丈夫?!」
思わず私も勢いよく起き上がった。
彼は後頭部を押さえて、カーペットの上で丸くなっていた。
声にならない声を発して、痛みが引くのをただただ待っていた。
そうしている間に、携帯電話の着信音鳴り止み、静けさがまた部屋に訪れた。
「大丈夫?」
優しく肩に手を起き、彼に駆け寄った。
「~っ…とりあえずは…」
絞り出すように答えてくれた。
でも、まだ痛そうだ。
それもそのはずだ。
恐らく、テーブルの角に後頭部がクリティカルヒットしたのだ。
テーブルが大きくずれて壁側に移動している。
でも、意識を失うほどではないことが、不幸中の幸いだ。
「冷やした方がいいね。氷出すね。冷蔵庫開けるね」
私はそう言うや否や、さっと立ち上がり冷蔵庫のあるキッチンへと急いだ。
「…ごめん」
小さく後ろから声が聞こえた。
開けた冷蔵庫の中には、お酒しか入っていなかった。
男の独り暮らし、よりも寂しさを感じるものだった。
無造作に並べられたビールやチューハイは、ただそこにいるだけの存在のように見えた。
消化されるだけの存在。
ますます、彼に愛情を注ぎたくなる思いが込み上げる。
これが、母性本能というものだろうか。
頭のなかで考えながらも、手は忙しく動いていた。
すでにどこからか拾ったビニール袋に氷と水と塩を入れた。
キッチンはきれいだったので、塩はすぐに見つけることができた。
私はリビングに戻り、自分のハンカチで氷袋を包んだ。
こうすることで、結露が若干でも緩和される。
昔、私が熱を出したり、足首を捻ったときなどにお母さんがやっていてくれたことだ。
「大丈夫?」
大鷹くんはベッドに寄りかかるようにして、すでに体を起こしていた。
「うん、ごめん、変な心配かけて。カッコ悪いなぁ」
「冗談をいうくらいの元気は戻ってきたみたいだね」
「ちーちゃん、厳しいわぁ」
「さぁ、これ氷袋。痛いところ冷やして。コブになっちゃうよ」
「ありがとう」
大鷹くんはそう素直に言って、私の氷袋を受け取り、後頭部に当てた。
「あー気持ちエエわぁ」
「良かった。しばらくゆっくりしよっか」
「せやな」
彼はもう頭を強打するのは勘弁といった顔でこちらを見た。
30分ほど経ったところで、氷袋の中の氷も溶け始めたので、新しいものを変えようということになった。
そのタイミングで、今回の元凶である携帯電話の着信音の発信者の話になった。
「そういえば、電話も大丈夫?仕事?」
「あー、仕事ではないなぁ。仕事はバイブにしとるから。私用携帯や」
「折り返ししないと。急ぎかも」
「せやな」
私は気を使ってテーブルの上にある携帯電話を渡した。
テーブルはまだ壁側に寄ったままだ。
彼が着信をチェックする間に私はまた氷袋を作りにキッチンに向かった。
「あー、父ちゃんや」
「お父さん?急ぎじゃないの」
「多分大丈夫やけど、念のためかけ直すわ。急ぎなら出るまでかけるのがうちの父ちゃんやからな。かけてもええか?」
「もちろん」
そして私はまた氷袋を手渡した。
発信者はすぐに捕まった。
「あ?父ちゃん?俺やでー、何したん?」
私は気を使ってトイレにいくことにした。
もしかしたら、聞かれたくないことも家族の間ではあるだろう。
少しでも彼の迷惑にはなりたくない。
音を立てないようにそっと立ち上がり、トイレに向かった。
洗面台には、一本だけの歯ブラシがあった。
もしかしたら、他にもあるかも、と不謹慎ながらも少しだけ洗面台の辺りを見渡したが、それらしいものはまったくなく、髪の毛ひとつ落ちていなかった。
こんなにも女の気配がないのは逆にプロなのかと思ってしまうが純粋に、他の女とつるんでいないのだろう。
それほど、私を大切に思っていてくれているのか。
私にはそんな魅力はないのに。
私には彼を愛する資格はあるのだろうか。
もっと他に彼にふさわしい人がいるのではないか。
まっさらな新品ような彼と、中古で使い古されたような私とでは世界が違うのではないか。
鏡の前の自分は、どんなに見つめても答えをくれなかった。
「ちーちゃん?」
足音がして次の声をかけられた。
洗面所を覗き込むように、心配そうな顔で見つめられている。
「どないしたん?具合でも悪いん?鏡にらんどったけど」
「ううん、大丈夫だよ。トイレありがとう。電話大丈夫だった?」
「うん。父ちゃん今度仕事でこっちに来るんやって。だから家に泊めてーって」
「仲良しだね」
「そんなことないない」
そういう大鷹くんはなんだか嬉しそうに声を弾ませていた。
「それでなんやけど」
「今度会ってみいひん?」
彼は軽く言ってみたもつもりだったが、その言葉は重く私の心に響いた。
「もし時間あったらでエエで、もちろん。気乗らんかもやし。でも父ちゃん、ちーちゃんのことエライ気に入ってて、良い女やなぁっていつも言ってんねん。俺も一目会いたいなぁって」
「そんなに話してるの?」
「まぁなぁ。父ちゃんよく酔っぱらって電話かけてくる癖あってな。そこでちーちゃんのこともちゃんと話してんで。俺が二十歳になるまで待っててくれるって言うたら、世の中にそんな良い女はおらへん!いっぺん会わせろ!って毎回言うねん」
誉められるのは、悪い気はしなかった。
「わかった。会おう。いつ?」
「来月やって。ちょうど俺らの旅行の前の週」
「いいよ。たふん、予定空いてるから」
「ほんま?ありがとう!父ちゃんめっちゃ喜ぶで」
初めて、好きな人のお父さんに会う。
そこのことだけで、わたしは自分が成長した気でいた。
しかし、運命の日は恐らくここだったのだ。
この日が私たちの運命を分けた分岐点だったのだ。
もしも私が大鷹くんのお父さんに会わない選択をしていたら、きっと違った未来になっていた。
二人の違う形があったはずだ。
でも、この時の私は、大鷹くんのお父さんに会うことが一番の選択だと考えた。
この日から運命の日へのカウントダウンが始まった。




