リアルな夢、夢のようなリアル
なんとも甘美な瞬間だった。
自分の意識がずっとどこまでも遠退くような感覚がした。
それでいて、はっきりと目の前に現実がある。
そんな不思議な衝撃がからだ全身に走った。
私はいままでも、恋人とキスを重ねてきたことはある。
そのときも、きっと嬉しかった、楽しかった、興奮したに違いない。
でも今回は違う。
いままで重ねてきたキスとは比べ物にはならない。
初めての相手とのキスは特別だと思っている。
今回、不意にしてしまったことについては、多少なりとも後悔はしている。
大切な相手だからこそ、もっと考えを巡らせてすべきだった。
しかし、私はもう限界だった。
我慢を続けることが不可能だった。
キスはその人となりが一瞬で分かるものだと私は断言している。
目は口ほどに物を言う。
昔の人は言っている。
しかし、口も目ほどに物を言うのだ。
どんなに大人しそうなひとでも、一度口づけを交わしてみるとその人が分かる。
普段は大人しいのに、キスなになると激しくなってもう離さんとばかりに唇に吸い付いてきたりもする。
逆に普段大口を叩いて強引そうに見えるひとでも、キスをするときは小鳥が餌をついばむように、優しく触れるだけのキスで盛り上がっていたりする。
今は、大鷹くんは寝ているので彼の素性は分からないが、ただ一つ言えるのは、“私をおかしくさせる唇”だということだ。
初めて触れた数秒後には、私は狂ったように彼の唇を貪っていた。
これが、私の正体なのだ。
私はいつも、誰かとキスをするときは賭けをしている。
激しいキスなのか、優しいキスなのか。
心を踊らせながら、相手の皮が剥がれる瞬間を待っている。
それもあって、私は自分のキスがどうであるかは気にもしなかったし、知る必要もないと感じていた。
楽しいのは、相手のキスの仕方だから。
でも、いま私は確信した。
私は、彼の唇に住み着きたい寄生虫のようだ、と。
柔らかくも弾力があるその唇は、どこまでも私を高揚させる。
触れた瞬間に、もっともっとと押さえきれない欲望が波のように押し寄せる。
私のからだに入っていく彼の唾液が、さらに私のからだに火をつける。
静かで真っ暗な部屋の中で、水分が弾ける音がなり続ける。
その音ですら、私のかだらを濡らしていくようだった。
あと数分で、私のからだは雨に打たれたように、水滴をしたたらせていくだろう。
恥ずかしくもあったが、欲望には勝つことができなかった。
理性を失った動物のように、私は彼の唇を占領していった。
お互いに交換し合うその体液を、永遠に頬張っていたい。
彼を本当に感じられるのは、彼の体内だ。
私は押さえきれない欲望と共に、彼の体の奥へ奥へと進んでいった。
どのくらい経ったか分からないが、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
カーテンの間からは、眩しい光が差し込んでいる。
この光がなければ、部屋の中はまだ夜のようだ。
「ん…」
寝返りを打つ。
そこには、なにもいない。
あるのは紺色の枕だけだった。
そうだ、ここは大鷹くんの部屋だ。
私の家ではない。
彼はどこだろう?
目が暗闇と光になれるまで、ぼんやりも天井を見た。
昨日飲んだお酒がからだに残っている。
二日酔いかもしれない。
深酒をし過ぎた。
少しすると寝起きのまどろみも薄らぎ、意識が手に取るように自分のものになってきた感覚が戻ってきた。
「大鷹くん…?」
声をかけてみる。
しかし返答はない。
目を凝らして、部屋を見渡してみる。
テーブルの上には昨日のままのお酒の缶からワインのボトルが静かに並んでいる。
「あ…」
ベッドとテーブルの間に、小さく丸くなって寝ている彼を見つけた。
すやすやと静かな寝息を立てて、気持ち良さそうに寝ている。
私に気を使って、ベッドの下で寝ていたのだろうか。
それとも、私がベッドから落としてしまったのだろうか。
この寝顔をずっと眺めて、年を取って、亡くなっても後悔はないと感じた。
それが叶うのであれば、なんだってできる。
そんな途方もない確信だって沸いてくる。
ああ、きっとこれが恋なのだ。
私は、彼の匂いが染みついた布団を抱き寄せて、肺まで思いっきり息を吸った。
彼が私の中に入ってくるような満たされた感覚がした。
彼を起こさないように、ふかふかの布団を優しくかける。
幸いにも深い眠りに落ちているようで、彼は微動だにせず、静かな寝息をリズムよく続けていた。
部屋の中に時計があったのを思い出したので、時間を確認する。
時刻は朝の六時だった。
好きな人と迎える朝はこんなにも清々しくて、満ち溢れているものなのか。
お酒の余韻も気が付くとどこかに飛んでいき、気持ちは愛に満たされていった。
彼が起きる前に、昨日の食器や空いたグラスを片付けてしまおう。
私はそう思い、ベッドから体を下した。
「あれ」
昨日、脱いだと思っていたスカートを履いていた。
彼が履かせたのだろうか。
ストッキングも足をまとまったままであった。
トップスもそのまま。
着の身着のままで、会社帰りの服装と何ら変わらなかった。
疑問に思いつつも、彼を起こさないことに集中して、抜き足差し脚で空き缶を手に取った。
7時近くになって、ベッドの下の布団がもぞもぞと動いた。
「あれ…」
布団から顔を覗かせているのは、子供のような表情をした大鷹くんだった。
はじめて見る寝起きの彼の顔は、本当に純粋な天使のように見えた。
「ちーちゃん…?」
私の名前を呼ぶ声ですら愛おしい。
「おはよう」
「え?いつ起きたん?」
まだ眠気眼で視線がしっかりと合っていない。
「さっきだよ」
「ほんま?」
「そうだよ」
「ごめん。寝すぎたわ」
「そんなことないよ。まだ七時だし、今日はゆっくりしよう」
「ありがとう」
もぞもどと体を動かしながら、布団から体を出した。
頭をポリポリとかく姿もかわいらしい。
すべての動作が私の心を温かくする。
はじめて彼と迎えた朝は、最高だった。
「あ、ちーちゃん、全部片づけとる」
「時間あったからね。むしろ昨日は何から何までありがとう」
「ええねん。ごはん作っただけやし。それよか、体調大丈夫?昨日結構飲んどったみたいやけど」
「うん、大丈夫だよ」
「ならええわ」
大鷹くんは私に歯ブラシを手渡してくれた。
彼も歯ブラシに歯磨き粉をつけて、歯を磨き始めた。
なんだか、彼の様子に少しだけ違和感を覚えた。
「朝ごはん、せっかくやからどっかいかへん?」
「もちろん」
時刻は八時。
テレビを見ながらゆっくりと過ごした。
「あー、ちーちゃん服どうする?買う?俺ので良ければ貸すけど…」
大鷹くんが困り顔で相談をしてきてくれた。
困った顔も素敵だなと思った。
「大丈夫!実は会社にいつも私服置いてるんだ。たまにみんなで飲みに行ったりするときとかに着替えてて。あと会社着だと残業しにくいときもあって部屋着みたいなのでやってるんだ」
「そうなん!うける。さすが社畜は一味ちゃうな」
はははと笑ってくれた。
「ならいこか。家の近くに気になってた店があんねん。でもなかなか行けんくて」
「やったー。楽しみ。何のお店?」
「カフェオレとクロワッサンがうまいらしいで」
大鷹くんが気を遣ってくれて、私はリビングでさっと着替えを済ませた。
そしてカバンから財布を取り出しながら、玄関で待っている彼の後を追った。
彼が開けたドアの隙間から澄み切った空気が流れ込んでくる。
朝だ。
朝の洗い流された空気が頬を刺激する。
こんな日が毎日続けばいいな。
小さく願いながら、私たちは目的地のお店に向かった。
店内は土曜の朝にも関わらず混雑していた。
お店はベーカーリーとカフェが合体している複合型のお店で。焼き立てのパンがカフェで食べられるのが魅力だった。
お店に入る前からパンが焼ける香ばしい匂いとバターの豊潤な匂いが胃を刺激してきた。
「あそこ空いとる。いこか」
ちょうど窓側の席が空いていた。
太陽の光がたくさん入る素敵な席だった。
そこに腰を掛けて、メニュー表から朝食を選び始めた。
モーニングメニューはすぐにテーブルに届けられた。
大鷹くんはクロワッサンとサーモンチーズのサンドにカフェオレ。
私はエビとアボカドのクロワッサンサンドに、おなじくカフェオレを選んだ。
どちらも看板メニューということで言わずもがなおいしかった。
お腹も減っていたので、お互いすぐに食べきってしまった。
カフェオレはなんとおかわり自由ということで、私たちはすでに三杯目に口をつけていた。
「今日は予定どおり、横浜でええかな」
いつも金曜日時点で次の予定を決めている。
彼の見習いたい点である。
当日どうするどうすると時間を無駄にしないためにも、いくつか候補を示してくれて、その中から二人で決めている。
「中華街、久しぶりに行ってみたいな。肉まん食べたい」
「ちーちゃんは食べるの好きやなー。でも大食いなところ好きやで」
変わらない。
素直に好きと言ってくれる。
そんな彼が好きだ。
私が先ほど感じた違和感はなんだったんだろう。
「ほんなら一回家帰って、ゆっくりしたら出かけような」
「うん。そうしよう」
店内はさらに賑わいを見せていた。
子連れの家族や老夫婦、私たちのように若いカップルもいる。
カフェオレが飲み放題なので、朝からせっせと勉強に励んでいる一人客も多い。
「店、混んできたなー。そろそろ出る?」
「うん、そうだね」
カフェの入り口には、空いた席を探す人の姿が見えた。
大鷹くんは本当に気が利く青年だ。
私たちは、カフェオレの残りを味わいながら胃に流し込んで、店を後にした。
閑静な住宅街が続く道を犬の散歩やジョギングする人が行きかっている。
長く住むにはこんなところが良いな、となんとなく思った。
大鷹くんと小さいけれど家を買って、そこで犬も飼ったりして、子供二人くらいは欲しい。
実家のような緑に囲まれすぎた場所も悪くはないが、少し都心から離れた場所で静かに暮らすのも悪くはないだろう。
「大鷹くんは昔バスケ部だったんだよね」
なんとなくふと思い出したことを言ってみた。
「せやで。シューティングガード!スリーポイント打ちまくってたで」
「運動神経よさそうだもんね」
「せや、今度一緒にスポーツやろ!ちーちゃんテニス部やったよな。球技なんて大抵同じや、よし決まり。
近場で運動できるところ探すわ!」
またひとつ、楽しみができた。
あと2か月経てば、もっと楽しみが増えていくのだ。
「家にバスケットリングとかあったら楽しいかなー」
「広い家になるね」
「当たり前やん。ちーちゃんと住むのに狭い家は男として格好つかん」
「嬉しい。考えてくれてる。わたしもさっき想像してたの」
「ほんまにー?俺も嬉しい。どんな想像?」
それから私たちはどんな家が良いかについてずっと話した。
明るい未来。
来るはずの未来を信じて、夢を語った。
家に着いて、適当にテレビを流しながら、ゆっくりと過ごした。
横浜に行くのは10時くらいにしようという話になっていたので、それまでは家でまったり過ごすことにした。
私はベッドに座り、大鷹くんは床の上にあるクッションに腰を掛けていた。
やはり、彼はまじめなのだ。
彼のテリトリーでもある家であっても、恋人にならなければその物理的な距離はつめない。
でも心は隣にいる。
あと一か月待てば、彼と正真正銘の恋人になって、触れることができるのだ。
いまは我慢の時だ。
「なあ、ちーちゃん」
突然聞こえたのは、深刻な彼の声だった。
「なに?」
「あんな、ちーちゃん、昨日のこと本当に覚えとらへん」
昨日こと。
キスのことか?
やはり、あれは夢ではなく現実だったのか。
謝るべきだろう。
彼が必死に我慢をしているにも関わらず、こうして私だけが欲望の動物になってしまったことを。
少し固唾を飲んで、私は言葉を発する準備をした。
「ごめん。やっぱり、いやだったよね?」
彼の様子を伺うようにゆっくりと話した。
「いやなんて、そんなことあらへんで。むしろ嬉しかったん」
「え、ほんとうに?」
予想外の返答に戸惑った。
「ほんまやで、なんか、ようやくちーちゃんの本音が知れたっちゅーか。ようやく本当に心を開いてくれたっちゅーか。頼ってくれたんやね、俺のこと」
まっすぐに私を見つめるその瞳が苦しいくらい素敵だった。
「うん。でもごめん。私がひとりで突っ走って」
「そんなことないで」
優しい言葉が次々と降り注いでくる。
彼は本当に私の空っぽの体を満たしてくれる。
「俺、なんでも受け止めるから。早く男になって、もっと強くなって、守るから」
「ありがとう」
「泣いた顔もかわいかったけどな」
ここで、私の違和感が解消されはじめる。
「泣いた顔?」
「・・・せやで?あれ、覚えとらん?」
「・・・」
何も言えなかった。
「やっぱりな。朝けろっとしとったもんな、飲みすぎや。あと疲れもストレスもためすぎや」
「私、泣いてたの?」
「せやで。飲んでたら、急にスイッチ入ってな、そしたらお酒がーっと飲みだして。そしたら、わーっと泣いて。心配したんやで。”嘘つき”とか”やっぱり”とかぎょうさんい言っておったわ。仕事大丈夫なん?」
私が泣いていたなんて。
そんなこと考えたこともなかった。
それに、誰かの前で泣くなんて。
”あの人”のときだって、泣かなかったのに。
「そのあと、すぐに寝たけど、寝言でなんか言うてるし、なんか嫌なことあったんやろ?気づかんくてほんまにごめん」
「大丈夫だよ。きっと安心しちゃったんだと思う。私の幸せはいまここにあるから」
恐らくいままのことがお酒でフラッシュバックしてして、いままで蓄積されたものが一気に溢れてしまったのだろ。
大鷹くんという大きくて優しくて柔らかい存在を手にしてしまったから。
「ありがとう。本当に」
すると、私の体を温かいものが包んだ。
「え・・・?」
「ほんまごめん。もう悲しませんから。仕事辛かったらやめてもええで。俺、働くし」
気が付くと大鷹くんは、膝立ちで私の体を両手で包んでいた。
温かくて力強くて優しいその両腕は、しっかりと私を抱きしめた。
胸が苦しい。
幸せが体に一気に注ぎ込まれて、もうはちきれてしまいそうだ。
「大鷹くん、いいの?私たち、まだ付き合ってないのに」
「約束破ってごめん。でも俺も男やし、もう我慢できひん」
「大鷹くん・・・」
彼の言葉に、私は彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
顔を私の胸にうずめるような形で抱きしめられているので、彼の体温が直接体に伝わってくる。
私の加速する鼓動が丸分かりだ。
「昨日な、ちーちゃん寝るまで見とったんやけど、俺我慢できんくて。夢でちーちゃんとキスする夢見てもうて。それで、もう俺、自分のこと抑えられるかもう分からへん」
夢。
私が見たあのキスは夢だったのか。
でも今ではそんなこと、どうでもいい。
彼も同じ夢を見ていた。
その事実だけで、良い。
その事実だけでも、充分だ。
「・・・ええか?」
何がいいかは、もう言葉にしなくてもいい。
「・・・うん」
大鷹くんがゆっくりと私の胸から顔を上げる。
見上げる彼の顔は、見たこともない顔だった。
男の顔だ。
異性としての男の顔が私を見つめる。
背中に手を回され、支えられながら、ゆっくりとベッドに押し倒された。
もう、我慢しなくていい。
大鷹くんが私の上にまたがった。
「本当にええか?」
「もちろんだよ」
これから始める二人の出来事は、二人だけの秘め事だ。
大鷹くんはゆっくりと私の体に沈んできた。




