彼の部屋で、私は。お酒の勢いじゃなくて、これは愛の勢い。
「なぁ、今度俺の家にこーへんか?」
そう言われて、私は今大鷹くんのうちにいる。
こんな展開、どうしたものか。
待っていました!と手放して喜んでいいはずなのに、私は萎縮して座っている。
「ビールでええよな?」
「あ、うん、もちろん」
キッチンから顔を覗かせる彼を直視できずに顔だけそちらを向かせる。
きれいに整頓された部屋は、彼の几帳面さをそのまま表しているようだった。
白と黒を貴重とした部屋は、清潔感と清涼感で溢れている。
ベッドカバーは黒。
壁紙は白。
黒いローテーブルはウォルナット製だろうか。
テレビ台も黒だがガラス扉が高級感を醸し出していた。
壁にはどこかの風景がモノクロ写真で黒の額縁に飾られている。
座り心地がいいソファは、ふかふかでこのままここで寝入ってしまいそうだ。
カーテンは優しい黒色で、遠くからでも質のよさが伺える。
部屋の隅には観葉植物が置かれ、反対側にはスタイリッシュな間接照明が立っている。
床にはグレーのカーペットが敷かれていて、髪の毛なんて落ちていない。
部屋を見ただけで、育ちのよさと収入の高さが伺える。
正直、私の部屋とのギャップに、悲しくなりそうだった。
私の部屋にはなにもない。
私の北千住の六畳半の部屋にはなにもない。
実はカーテンすらない。
カーテンレールには大判のストールを半分かけていて、もう半分には無地のバスタオルをかけている。
ソファベッドとして購入した家具は、ソファとしての役割は果たさず、永遠にベッドとして置かれている。
テレビ台は本棚だ。
ここには何もない。
好きな人の部屋にいるのに、居れば居るほど悲しくなってくるのはなぜだろうか。
ここにくるまでは、あんなも浮いた気持ちだったのに。
大鷹くんから連絡が来たのは、今日の夕方だった。
今日は金曜日。
明日の土曜日にはいつものようにデートをする約束をしていた。
運命の日、私たちが付き合うことができる日、大鷹くんの誕生日まで残り2ヶ月を切っていた。
土日は二人でデートをして過ごしていた。
それが当たり前のように、習慣になっていた。
こんなにも会っているのに、付き合っていないのが今でも不思議なくらいだった。
こんなにも二人の心は寄り添い会っているのに、指を触れることすらない。
無論キスも。
その先も。
決して触れ合うことはないけれど、心は離れていない。
それが手に取るように伝わるから、肉体的な接触がなくても心が満たされている。
彼は私にとってそんな存在になっていた。
いつもように来る土曜日のために、私は残業をしようと意気込んだ矢先に「今日会えへん?」とメッセージがきた。
金曜日に会えるのは、本当に珍しいことだった。
大鷹くんの仕事は、コンサルタントである。
詳しいことはよく分からないが、外資系の会社で完全に実力主義のようだ。
若いからこそ、周りのベテランに負けたくないと日夜残業も厭わず戦っている。
彼はこの仕事に誇りを感じていて、仕事が好きで、一生の仕事にしたいと熱く語っていた。
私は仕事に対してそんな熱を感じたことは一度もないので、残念ながら彼の気持ちを汲み取ることはできないが、彼の仕事に対する姿勢は尊敬の他なかった。
そんな忙しい金曜日に会えるのは本当に奇跡に近かった。
どうやら、お客さんとの交渉が予定よりも早く終わって、幸いにも残業をする案件がなかったので、これはチャンスだと思い連絡をしてくれたのだという。
「明日会うの決まっとったけど、会える時間は多い方が嬉しいなぁ思て」
素直に伝えてくれる彼の気持ちが嬉しかった。
もちろん私には残業以外の予定はないので、即OKをした。
初めて好きな人の家にいく。
これは、もうそういうことなのではないかと、妄想が止まらなかった。
今日の下着の色は何色だったとか、いつ買ったものかとか、よれてはいないかとか沸き上がる疑問をなんとか解消した。
大鷹くんの真意は分からないが、家まで入れてくれるということは、真に心開いてくれている証拠だと信じた。
大鷹くんの最寄り駅で待ち合わせをして、家へと向かった。
私の足は地面から遥か遠くにあって、本当に受かれていた。
彼の部屋に入るまでは。
家には着替えに変えるだけ、と言っていたので洗濯中のワイシャツや服で散らばっているのだ思っていたが、そんなことは、全くなかった。
モデルハウスなのではないかと何度も自分の目を疑った。
綺麗すぎるその部屋は、一気に私の心を消沈させた。
「今日は俺の手作りやー」
楽しそうにキッチンに立つ大鷹くんは、本当に可愛かった。
料理もできて、仕事もできて、顔も性格も良い。
それにも関わらず、いままで付き合った人がいない。
こんな人、本当にいるのだろうか。
いや、いるのだ。
実際、私の目の前に。
「今日テンション高いねー」
リビングから正座をしながら、私が返答する。
「やろー?ボーナス日やからねー」
「あ!そうなんだ!良かったじゃん」
「せやねん。でも将来のために貯めんとな」
語尾が上がっている。
本当に機嫌が良い。
私は萎縮していた体を少しずつだから慣らしていく努力をした。
「おまたせー」
大鷹くんが持ってきたのはパスタだった。
「たらこ大丈夫やろ?」
「うん、大好き」
バターと海苔と紫蘇の香りが胃袋を刺激する。
「さ!食べよか」
「うん!おいしそう!ありがとう」
予想の何倍も手作りパスタは美味しかった。
誰かの手作りを食べたのはいつぶりだろうか。
実家に帰ったときにお母さんのごはんを食べていたくらいだ。
もう何ヵ月も実家に帰っていない。
「あー、美味しかったー。本当にありがとう。片付けは私やるよ」
「あー!ええよ。俺の家やし、ちーちゃんはゆっくりしとって。今週もずっと残業やったろ?早う片して、一緒に酒飲もうや」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
大鷹くんの気遣いは本当に嬉しかった。
今週は月曜日から残業が続いていて、正直体がキツかった。
幸いにして新しいプロジェクトも順調に進み、私の昇格も具体的に見えてきたところだった。
ぼーっとテレビの映像を何となく視界にいれていた。
バラエティ番組が流れていたけれども、内容は少しも頭に入ってこなかった。
胃袋のなかに、好きな人が作ってくれたごはんが入っている。
それだけで、心も体も満足だった。
「お待たせ」
どのくらいの時間が経ったか分からないが、目の前にはなかった生ビールとおつまみが並べられていた。
「これって?」
「言うたろ?今日ボーナスやったって。やっぱり特別な日は特別な人と特別なことしなあかんやろ」
特別なこと。
そのワードだけで、私の頭にエンジンがかかる。
好きな人と一つ部屋のなか。
今日は金曜日。
これは何かの啓示なのか。
私は萎縮していた心を緩めて、リラックスし始めた。
すぐ向かいに大鷹くんがいて、嬉しそうに缶を差し出した。
「乾杯しようや」
「うん」
キンキンに冷えたビールは爪先の熱を奪うほどにからだに一気に染みていった。
「止まらない。おいしい」
私は息をするように、アルコールをからだに注いでいった。
気がつくと、私は寝てた。
私も、寝ていた。
二人とも仕事で疲れた空っぽのからだにアルコールをたくさん流したせいか、すぐに酔っぱらってしまったらしい。
テーブルの上には空いた缶ビールの缶やワインのボトルが静かに並んでいた。
「いつの間に、こんなに飲んだんだろう」
全く記憶にない。
けれども、ワイングラスは2つ。
どちらもあとは一口だけの赤ワインが寂しそうに置かれている。
ビールの缶も相当な本数で、さすがの大鷹くんがひとりで飲んだとは思えない量だった。
「飲みすぎた」
頭がボーッとする。
幸いにして、頭痛はない。
今ならすぐに眠れる。
でも化粧を落とさないと。
あ、ここは自分の家じゃない。
化粧落としはない。
じゃあ、いいや。
寝よう。
あ、電気つけっぱなし。
消さないと。
電気のスイッチを探して、パチリとリビングを消灯した。
辺り一面が暗闇に包まれた。
片付けは明日の朝イチでやろう。
ビールやボトルを倒さないように、暗闇の中で慎重に歩いた。
ここまで冷静になったが、次の瞬間には大胆になった。
ベッドで寝よう。
大鷹くんは、ベッドにもたれ掛かるようにして寝ていた。
きれいな寝顔。
長いまつげ。
白くて極め細やかな肌。
柔らかい黒髪。
艶々した唇。
暗闇の中でも、目が慣れてくるとはっきりと見えた。
私は羽織っていたカーディガンを脱ぎ、大鷹くんのベッドに潜り込んだ。
ちょうど彼の顔が布団のすぐ脇にあったので、横になりながら眺めることができた。
ずっと眺めていられる。
容姿端麗な顔とはまさにこの事だ。
布団のなかでストッキングを脱ぐと、より開放的になった。
さらに私はお酒で火照ったからだを冷やすために、トップスのカットソーを脱ぎ、スカートも脱いでベッドの下に追いやった。
体にまとっているのは、キャミソールと下着のみだ。
枕からは大鷹くんのシャンプーの匂いがする。
幸せな気分だった。
「大鷹くん?」
彼の匂いを嗅ぐ度に、眠気が遠ざかっていくのを感じる。
そして、ある感情がむしろ勢いをましてこっちにかけてくるのがわかる。
私はその正体を知っているが、あえて知らない振りをした。
その正体を認識してしまうと、負けてしまうのがわかっているからだ。
「大鷹くん?」
耳元で呼んでみた。
ぐっすり眠っているからか、彼はピクリとも動かない。
「ねぇ、大鷹くん?」
もう一度呼んでみるが、返事はない。
すー、すー、と静かで規則的な寝息だけが聞こえる。
いい、よね?
私の中でヤツが蠢く。
ばれないよね?
だって、寝てるんだもん。
ヤツは力強く私の中で暴れ始める。
少しだけ。
本の少しだけ。
ヤツはもう誰にも止められない。
私は上半身を起こして、大鷹くんの耳元に唇を近づけた。
ふいに、私の唇に彼の柔らかい髪が触れる。
「あ…」
なぜか思わず甘い声が漏れる。
もうダメ。
止められない。
ダメ。
私は、彼の唇に一直線に向かった。
迷いはない。
キスをした。
柔らかい唇に触れた。
彼の唇を一瞬だけ私の唇でふさいだ。
ほんの少し触れるだけのキス。
私は彼にキスをした。
暗闇の中で、誰にも気づかれず、私は唇でかれを感じた。




