変わらないものがあるとするならば、それはきっとそう。
白くて長い首筋に流れる汗。
しっとりと体を濡らす熱を帯びた体。
荒くて強い息づかい。
上下に動く肉付きがよい胸板。
筋肉質だけれども柔らかい腕。
力強い眼差し。
見たことがない彼。
どんどんと大胆になっていく彼。
男を感じる。
そうだ、彼は男だ。
千羽子は見たことがない部屋に彼と二人きりだった。
シワがない白いシーツが見える。
ベッドの上にいるようだ。
けれども、ここは私の部屋ではない。
誰の部屋でもない。
ここはどこだろう。
そう思うと同時に、彼が優しく私の額を撫でる。
そして私のからだの上に覆い被さるように体を寄せている。
体重をかけすぎないように、両手で支えている。
彼の両手が私の耳元をくすぐる。
なにも言わなくてもいい。
私たちは通じている。
彼の火照った体をそっと引き寄せる。
汗で濡れた背中が愛おしい。
こんなにも愛で溢れている。
ずっとこうしたかった。
ずっとこうしていたい。
全身に感じる彼は熱く、そして男だった。
女のものとは違う体が私に教えてくれる。
彼は、男だと。
ゆっくりと体重をかけてくれる彼の優しさを感じた。
もう言葉はいらない。
そっと耳に唇が当たる。
柔らかく私の耳の縁を息でまったりと撫でていく。
からだの奥底に電気が流れるような感覚がする。
我慢できない。
思わず声が漏れる。
私の体も汗がにじんでくる。
ぎゅっと抱き寄せていた彼の背中に、私の指が力を込める。
どうしたの、と心配そうに見つめられる。
その視線が本当に愛おしい。
一生見られ続けていたい。
その眼球に常に私を写していてほしい。
私以外見ないで。
私だけを見て。
そして、もっと私の中に入ってきて。
思いが伝わったのか、彼がゆっくりと腰を持ち上げて、私の体を柔らかく動かす。
足にキスをして太ももにもキスをしてヘソにも愛がこもったキスをする。
思わず声が漏れていく。
押さえていた感情が混み上がってくる。
塞き止められた何かが一気に放出される快感が体を走る。
ぎゅっと力を込めて白いシーツを握る。
体が浮いていくのがわかる。
自然に浮いた私の腰はふわふわと雲のように軽々と持ち上げられる。
張りのある唇が私の体を溶かしていく。
もっともっと。
私は薄く開けた口から吐息を溢す。
それはとてもとても艶目いた大人の息だ。
高揚で赤くなった彼の顔を下から眺めながら、規則的に動くその揺れに心も委ねていた。
流れる汗が美しい、と何度も思った。
彼の体の曲線をなぞるように、汗はしっとりと音もなく千羽子に降り注ぐ。
時おり溢れる彼の生々しい声を聞いて、さらに私たちは熱く、熱く抱き合った。
そして、長く短い旅のような気が遠くなる感覚と体が熱くなる変化と海のように一気に込み上げる心地よさを一瞬のうちに感じた。
その内、荒く激しい息を整える彼の腕の中で肌の感触を味わっていた。
あぁ、私の幸せは彼のためにある。
「千羽子、愛してるよ」
ずっとほしかった言葉がここにある。
私は彼の腕の中でこの幸せがずっと続くようにと願った。
そして千羽子は、ハッと目が覚めた。
そう、夢だったのだ。
いつも通りの見慣れた私の部屋が眼前に広がっていた。
なんとも甘美なそれでいて寂しさが込み上げるような夢だ。
なぜこれが夢なのか。
千羽子は自分の体が火照っているのに気がついた。
そうだ、これが愛なのだ。
千羽子は眠気の余韻を味わいながら、ゆっくりとベッドから体を起こした。
「最近調子いいんじゃないの?」
「そうですかね」
毎週行っている営業の打ち合わせの場で、唐突に言われたのは課長からのお誉めの言葉だった。
「なんかトラブルあってもなんとかなってるみたいだし、何よりマイナスがなくプラスが絶え間なく増えているイメージだな」
腕を組ながら嬉しそうに話す。
昼過ぎの営業進捗会議は課長と二人きりだった。
個室の中は午後の陽気で暖かな空気で満たされている。
「ありがとうございます。がんばります」
私は素直に喜んだ。
「このままいけば、次の評価いい点つけられそうだよ。そしたら昇格もあるぞ」
「ほんとですか?」
「営業は数字だからな。数字が出れば上にも上申しやすいよ、こっちも」
もしも次の評価で昇格となった場合、確実に同期の中で最短出世になる。
この私が?うそ。
でも、これは夢ではない。
現実だ。
「じゃあ、今月も残りこの調子でよろしく頼むよ。あ、本部長から電話だ。すまん、ここで打ち合わせはここで終わりな」
「はい、お疲れさまでした。ありがとうございました」
私は椅子からスッと立って軽くお辞儀をして、課長の後ろ姿を見送った。
課長は胸ポケットで振動する携帯電話を急いで取り出しながら、勢いよく会議室から出ていった。
個室に残ったのは、変わらぬ午後の陽気とテーブルに広げられた会議資料とぽかんとした私だけだった。
はっと我に返ると、自分がにやにやと口許が緩く笑っていることに気づいた。
気持ち悪い、自分。
と、思いつつも、笑っている自分はなぜだか嫌いにはならなかった。
仕事が楽しい。
この会社に入社して初めて思った感情だった。
不思議。
仕事って、楽しいなって思うことあるんだ。
午後の陽気よりも、ふわふわと暖かい私の心は弾んでいた。
さっと資料を片付けて、次席に戻った。
大鷹くんに、報告したい。
そして誉めほしい。
「ちーちゃん、やるやん!」ってあの笑顔で頭を撫でてほしい。
私は急いで個室を後にした。
個室には、暖かい空気だけが充満していた。
「あ、私今日はジンジャーエールで」
恒例となった同期との女子会は、今日も夜が本格的に始まる頃に開始された。
しかし今日はいつもと様子が少し違う。
小倉台ちゃんがチョイスしたお店は、新宿にある和食のレストランだった。
いつもの彼女なら渋谷のダーツバーや水槽があるお店など少し変わった場所を選んでいた。
今回はいままでの方向性とは全くの真逆で、正統派の和食レストランだった。
騒ぐ若者もいなければ、店員さんはギラギラと胸元をはだけさせていたりもしない。
静かな和風のバックサウンドが控えめに店内に流れ、店員さんは胸元をしっかり隠した着物である。
いかにも高そうな雰囲気しかないこの店は、評価サイトでも上々の高得点を出していた。
漆のお通し皿は、この店の品格をそのまま表しているようだった。
さらにいつもと違うのは、あのお酒好きの小倉台ちゃんが乾杯でビールを飲まずにノンアルコールを注文したことだ。
これは、もう何があったか聞くしかない。
席に居合わせている穴川ちゃん、千葉ちゃんも顔にはてなマークがついている。
「え、なにどうしたの?具合悪い?」
ついに毎日の残業の積み重ねにより、体調に悪影響が出たのか。
私は穴川ちゃんの顔をまじまじと見た。
まつげのエクステを欠かさず、化粧もいつもバッチリ。
午後に必ず化粧を直して、ここぞというときにはいつも赤色のリップをする。
栗色の髪を鎖骨まで伸ばして、いかにも女子という風貌。
見た目はいつもと変わらない。
顔色も良さそうだ。
「大丈夫だよ。元気、元気!」
声にも張りがある。
「このあと会社戻るの?」
穴川ちゃんが眉毛をハの字に曲げて、心配そうに尋ねた。
「ううん!むしろ明日有給取ってるくらいだよ!」
私たちの会社では退社後に会社に戻るのは良くあることだった。
私も何度か飲み会の最中にトラブルで会社に戻ったことがあり、みんなもそれを経験していて、最早日常茶飯事だった。
「何がなんでも戻らないよ~!」
元気に答える小倉台ちゃんは、ハツラツとしていていつも通りだ。
「えー、もしかして、妊娠した?」
千葉ちゃんが冗談混じりに言った。
「まさかー」
私も穴川ちゃんも同じ反応だった。
「…」
しかしなぜか、小倉台ちゃんは何も言わなかった。
「え、まさか」
「うそ、ほんとに」
「まじで?」
みんなの目が点になる。
当の本人はおしりの辺りをごそごそと手を動かしている。
「実はね…」
彼女はそう言って、テーブルの上にあるものを置いた。
小倉台ちゃんが置いたのは、紛れもなくエコー写真だった。
黒と白でできたぺらぺらの紙切れだった。
テレビでしか見たことがないもの。
でもそれは、すべてを物語っている。
「この度、新しい命を授かりました」
小倉台ちゃんは、姿勢をスッと正して、満たされたような顔でそう言った。
「おめでとー!!!!!」
少しだけ間を置いて、三人が叫んだ。
「うそー!小倉台ちゃん!赤ちゃん!」
「すごい!始めて見たエコー写真」
「いつ生まれるの?女の子?男の子?」
みんな興奮している。
一番冷静なのは小倉台ちゃんだった。
「みんなありがとー!ちなみに予定日は来年の二月だよ。あと、まだ性別分かんないって」
いつもと同じように見える小倉台ちゃんのお腹の中には、いま小さな赤ちゃんがいる。
このレストランの個室には、五人の命がある。
「すごーい。ドラマであるよね、こういうシーン」
「そうそう。男の人にね、見せたりするよね」
「うんうん。やられたわー。小倉台ちゃんに一本とられたよ」
えへへ、と笑う彼女はもう母なのだ。
「ちなみに赤ちゃんどこ?」
白黒で写されたその写真は艶々と光に反射してとても美しかった。
「ここ。まだ赤ちゃんの部屋ができてるレベルだって。これから10ヶ月かけて大きくなっていくんだって」
「へー、そうなんだ~」
みんな食いぎみにエコー写真を眺めている。
テーブルの上にある写真は堂々としているように見えた。
白い海の砂のような平面に、ポツンと左側に黒い楕円形の丸がある。
これが赤ちゃんの部屋。
ここに命がある。
そう思うと、命は本当にあるのだと実感する。
「みんな気にしてるかもしれないけど、相手はちゃんと彼氏だよ。この前温泉旅行行ったときだと思う。それから生理来なくて、ドラッグストアで妊娠検査薬買ってね。調べたら線が出てきてさ。それでこの間産婦人科行ってきたんだ」
薄々気になっていたが、相手が彼氏ということで安心した。
「彼氏ももう知ってるの?」
穴川ちゃんが問いかける。
「うん、もちろん。一緒に産婦人科行って、先生のはなし聞いてたから」
「彼氏さんなんて?」
「めっちゃ喜んでたよ。子供好きなんだって」
「つまり、計画的に、ってこと?」
千葉ちゃんが問いかける。
「んー、正直言うと計画的ではないかな。ぶっちゃけ、勢いだよ。温泉旅行行ったら盛り上がっちゃって、それでできてもいいかって話になって、それでそのまま」
飄々と話す小倉台ちゃんがすごく頼もしく見えた。
もしも私が妊娠したら、お母さんは何て思うだろう?
喜んで、くれるのだろうか?
「そんなことで、今日からノンアルコールデビューでーす。みんなは気にせず飲んでね!」
その後も話は小倉台ちゃんの妊娠の話で持ちきりだった。
聞いた話では、プロポーズはまだ受けていないもののお互い結婚の意識は合っていて、今度の記念日に正式にプロポーズをしてくれるとのことだった。
明日有給をとったのは、婚約指輪を銀座に見に行くためらしかった。
そのプロポーズを終えた後に、両親に挨拶をする流れらしい。
両親には子供が先にできたことはいずれバレるので、もう隠すつもりはないようだ。
授かり物なので、大切にしたいというのがお互いの気持ちだ。
もともと小倉台ちゃんも、彼氏も結婚の願望があり、そうした行為に至る直前に、彼氏は何度も確認を取っていたようだ。
その上で小倉台ちゃんは何度も妊娠してもいい旨を伝え、そして二人は行為に及んだということだ。
むしろ彼氏よりも小倉台ちゃんの方が積極的に望んでいた。
ちなみにそのとき二人は完全に素面であり、お酒の勢いは全くなかったのだと。
それほど、真剣に向き合っていたということだ。
「そういうことで、年度内で仕事は辞めます。寿です。みんな退職してもこうして集まろうね」
少し涙ぐみながら話す彼女はとても寂しそうだった。
「当たり前だよ」
「子供も入れてみんなで飲もうよ」
「毎月集まっていこ!」
もちろんみんな即答した。
「ありがとう。みんな最高の同期だよ。こんな同期に会えて、私ほんとに幸せ」
小倉台ちゃんは優しく笑った。
その笑顔はもう母そのものだった。
彼女のトレードマークであるハイネックのノースリーブは封印され、淡い色のカーディガンが彼女の肩に掛けられている。
彼女とその子供の命を優しく守っているようだった。
小倉台ちゃんの妊娠と退職。
私の出世。
激動の一年になる。
みんなそれぞれ、運命が変わっていく。
変わらないものはない。
変わらないものがあるとすれば、それは変わらないものはないということだ。
私もまた変わっていく。
昨日とは違う自分に。
そのとき思ったのはやっぱり、大鷹くんことだった。
変わらないでいてほしい。
このままずっと、私を好きで居続けてほしい。
わたしも、変わらないから。
「みんな、結婚式来てね。いつ挙げるか分からないけど」
こうして新宿の夜は、新しい命と共に、深まっていった。




