口づけの、もっと先へ。
温かい体温が、私のからだに染み込んでいく。
からだに触れていないのに、どうしてこんなにも彼の体温を感じられるのだろう。
大鷹くんはもうすぐそこ。
千羽子はカラオケボックスのソファの上で、ゆっくりと彼に向けて体を倒していった。
しかし、心の中で葛藤がある。
彼もきっと私を受け入れてくれる。
だからこそ、この場で私を拒絶しない。
それは分かっている。
あと三ヶ月の時間を待てば正式に彼と交際することができる。
彼はまだ十九才だ。
つまり未成年である。
千羽子の四つ下といえども、未成年であることには代わりはない。
そこのことがどれほどの壁の高さであることは知っている。
知っているからこそ、ここで彼とこのまま口づけを交わしていいのかという疑問が心のうちで渦巻く。
もしもこのまま口づけを交わしても、彼からの愛は変わらない。
けれども、何かが千羽子を止めていた。
ここで口づけをしてはいけない。
口づけをしてしまうと、すべてが温かい体温が、私のからだに染み込んでいく。
そう心の中で警鐘が鳴っている。
この心臓の痛いくらいのずきずき感は、何を意味しているのだろう。
千羽子は心の中でずっと自問自答をしていた。
時間にしてはほんの数秒。
しかし体感では何十分にも感じられるほど長い時間だった。
あまりに長すぎると、一度手にしたこの大鷹くんとの口づけのチャンスを三ヶ月先まで手放してしまうことになる。
もういっそ、このままの流れで勢いに任せて進んでしまうのが、二人にとっての正解かもしれない。
彼は待っている。
千羽子の答えを。
彼のシャンプーか柔軟剤か分からないが、優しくて甘い香りが千羽子の鼻孔をつく。
そして、汗の臭いが生々しく千羽子を興奮させた。
だめだ。
我慢できない。
千羽子は生きている男の臭いをまざまざと肺に入れたことによって、理性を手放した。
今日、ここで、大鷹くんは、私のものになる。
千羽子はさらに奥に進んだ。
ピピピピ
けたたましく響いたのは電子音だった。
カラオケのBGMではない。
その電子音には聞き覚えがあった。
二人の時間が進み始める。
「…電話?」
最初に口を開いたのは大鷹くんだった。
それまで千羽子はなんとか、この電子音が自分にしか空耳なのではないかと信じていた。
それか、カラオケのBGMであって、二人のこの時間を裂く要因出会ってほしくないと願っていた。
しかし、現実にその電子音はいまもなお鳴り響いていた。
しかもそれは、千羽子の携帯電話から鳴っているようだった。
「わたし、かな」
まだ知らない振りをしていたが、そうもいかないほど、携帯電話は着信していた。
「なんだろ、急用かな」
「何かあったのかも。出たほうがええな」
うん、と言葉にはしないものの、こくりと頷いて鞄の中にある携帯電話を取り出そうとした。
すると、左目が動かないことに気がついた。
「ん?」
見ると、なんと大鷹くんが私の手を握っていたのだ。
「あ、すまん」
慌てて手を離す大鷹くんは顔が真っ赤だった。
「すまん。我慢できんくて」
そう赤らめながら目線を下に移す彼は本当に抱き締めたくなるほど、愛おしかった。
胸がきゅんと締め付けられる思いを噛み締めながら、鳴り止まない携帯電話を取り出す。
見ると、画面には「お母さん」の文字が浮かんでいた。
「お母さんからだ」
私はもしかしたらお母さんに何かあったのかもしれないと、急いで耳に携帯電話を当てた。
「もしもし?」
「あ、千羽子?元気?いま大丈夫だった?忙しい?」
スピーカーから飛び出してきたのは、お母さんの元気すぎるくらいの大きな声だった。
「あー、元気だけど、どうしたの?」
「平日の夜はいつも仕事でしょ?だから土日の昼ならいいかなと思って。あれ?もしかして外?」
「そうだけど」
折角の大鷹くんとの時間を台無しにされて、私はイライラを押さえられずにいた。
それでもすぐとなりに彼がいるので、自分がイライラしていることを悟られたくなく、精一杯の正常を装う。
「何?どこにいるの?」
「カラオケだよ」
「あら、彼氏?」
「いや、違うけど」
ここでストレートに“彼氏”と言えないことが悔しかった。
「友達?」
「違うけど」
「いい感じのひと?」
「…そうだけど」
それがいまの私たちの精一杯の関係性だ。
「あら、結婚とかするのかなー。どんなひとなの?」
お母さんが話を伸ばそうとする。
大鷹くんとの時間が短くなってしまう。
「あとでね。それより、電話、急にどうしたの?」
「あぁ。グラス、ありがとうって御礼」
この前、大鷹くんとスカイツリーでデートしたときに買ったグラスのことだ。
大鷹くんが関西のお父さんに東京土産をあげたいというリクエストから始まり、私も乗りと勢いで買ったものだった。
サービスカウンターでそのまま発送ができたので、そういえばそのまま小包で送ったのを忘れていた。
「あー。良かったら使って。夏だし、いいかなと思って」
「きれいなぐらす、使わせてもらうよ。千羽子から送ってもらうの珍しいね。なんか嬉しくて」
電話越しのお母さんはとても嬉しそうだった。
「まぁ、たまにはね」
もしかして、お父さんとの別居の話がなかったら、お母さんとはとても仲がいい親子になれたのかもしれない。
その可能性を見いだしてくれたのは、彼である。
「いまのひと、いい人なんだね」
私の心を読んだのか、お母さんは私が心に思い浮かべた人のことに言及した。
「うん。いい人。すごく。結婚するとき教えるね」
「結婚する前に教えてよ。岩手につれてきてもいいよ」
「まだ早いから」
「何て言う子?」
「おお…」
そこまでいいかけて、“大鷹くん”と言おうとしたが、この名前はあだ名であり、かつ千羽子が彼を呼ぶ愛称でもあるので、お母さんに無下に教えたくない気持ちになった。
二人だけの秘密にしたかった。
「大野くんだよ」
「大野くん?」
ふーん、と言った後なぜだかお母さんは少し言葉につまった。
「大野ってどこにでもいる名字だよね」
「まぁね」
私が結婚したら、大野千羽子になる。
どこにでもいる名字だけれども、好きな人と一緒の名字を名乗れるのであれば、それだけでも幸せだと思う。
「また後でかけ直してもいい?待たせるの申し訳ないから」
そこでちらりと大鷹くんを見る。
彼は「もっと話してていいよ!」とジェスチャーを送ってくれたけれども、お母さんとはいつでも電話できる。
「うん。楽しんでね。グラスありがとう。大切にする」
お母さんはそう言うと、私が切る前に電話を切った。
「ごめんねー」
私は大鷹くんに向き直って、すぐにお詫びの言葉をかけた。
「ええねん。おかん元気しとったって?」
「うん。この前のグラスの御礼だった」
「俺のことも少し話してくれてたん?」
「うん。いい感じの人がいるって」
「ほんまー?嬉しいわー。ちーちゃんのおかんにはよ会いたいわ」
「あはは。今度岩手行く?」
「岩手行ったことないねん。宮城行った後にいく?」
「それもありだね」
「せなや。俺のおとんとちーちゃんのおかん、仲良うしてくれたらええなぁ」
「そうだねー」
「ちなみに買ったグラス、実はペアなんやて。だから、ちーちゃんのおかんと俺のおとんでペアグラス。二人が結婚したら俺らが結婚できんくなるやろ。だからそれだけは避けたいけど、仲良うはなってほしいなぁ」
「うん。そうだね」
厳密には私のお母さんは離婚していない。
けれども、もう何十年も会っていないので、離婚に近いだろう。
あまり詳しいことは話してはいないが、そういう第二の人生もお母さんにとってはありなのかもしれない。
「ほな、再開やな。次ちーちゃんの番やで」
私はさっき大鷹くんと口づけを交わせそうなチャンスを逃したことを思い出し、少し落ち込んだ。
その雰囲気を察したのか、
「今度は温泉旅行で、かな?」
と私の心を持ち上げてくれた。
三ヶ月後の温泉旅行。
大鷹くんの誕生日。
彼が二十歳になる日。
この日に、私たちは恋人になる。
口づけの、もっと先にいく。
千羽子はもう一踏ん張りと、心にギアを入れて、デンモクから次歌う曲を探し出した。




