空っぽのからだに注がれるもの
恵比寿駅はたくさんの行き交う人々でごった返していた。
毎回驚くのだが、なぜ東京はこんなにも人が多いのか。
日本中の人がここ恵比寿に集まっているのではないかと錯覚する。
毎日祭りのような東京の各駅では、今日もきっと男女間でのドラマが絶え間なく起きているのだろう。
目の前をさっそうとヒールを高鳴らしながら歩いていく化粧バッチリで長い染め毛を緩やかに巻いて、香水の臭いを撒き散らしながら歩いていく女性たちを横目に無心で見ていた。
あの人たちはきっと、そこまで自分を作ってても会いたい人に今から会いに行く。
その相手はどんな人だろう。
恋人だろうか。
家族だろうか。
女友達だろうか。
接待先だろうか。
はたまた、不倫相手のところだろうか。
そこまで考えて、千羽子は自分の思考をストップさせた。
そして何とはなしに自分の足元を見た。
自分が持っているなかでいちばん新しくてきれい目なミュールを選んだ。
クリーム色のこのミュールは有楽町のお店で買ったものだ。
冬のボーナスのとき、今度友達の結婚式に行くために買ったものだった。
足の爪先同士をとんとんと鳴らしてみる。
浮かれている。
私も大多数の道行く女の人々と同じだった。
やっぱりワンピースやスカートにするべきだったろうか。
いや、ここはやっぱり女を出していくべきではない。
だって向こうはもしかすると、齢40を過ぎた男性かもしれないし、もしかするともっと年齢が上の人かもしれない。 そんな未確定な相手のために、おしゃれなんて出来なかった。
でもせめて、せめて少しだけ、自分が楽しいと思えるような格好をしようと、レースの黒のトップスに青いスキニージーンズにした。
もしもこの出会いがダメであっても、自分が傷つかずに帰れる装備だった。
待ち合わせの時間まであと10分。
私は道行く人のなかに、まだ見ぬ大鷹くんの姿を探していた。
待ち合わせは恵比寿駅の恵比寿さまの像の前に17時ということだった。
千羽子は仕事を休んだので一日フリーだったし、大鷹くんも早めに仕事を切り上げられるとのことでその時間になった。
そう、二人は今日初めて顔を会わせる。
千羽子は後悔していなかった。
松谷さんに偶然出くわし、昔の傷が痛んだ腹いせで大鷹くんに酔いの勢いにも任せて二人で会うことを提案したのは夜中のこと。
まさかのことだったが、大鷹くんは千羽子が連絡をしたその時間にまだ起きていて、ひとつ返事で承諾した。
大鷹くんの方も仕事でやきもきしていたようで、仕事とは全く関係ない人と仕事を忘れて飲みたいと非常に乗り気だった。
千羽子はその日一日、何を着ていくかどんなメイクをするか髪は巻かないべきか、そんなことをぐるぐると考えて部屋の中を行ったり来たりして、気が付くと家を出る時間になっていて急いで日比谷線に飛び乗った。
精一杯カジュアルにしたものの、トップスの肩はレースでできていて千羽子の白い肩が艶っぽく見えるし、スキニージーンズはぴったりと千羽子の細い足を強調しており、女性らしいラインが魅力的に映るようなシルエットは、道行く男性が何人も振り替えるほどだった。
これはデートではない。
出会い系アプリの真髄を確かめるイベントだ。
きっと今日が終われば、みんなに話せるお酒のネタになる。
そして今日を境に私は新しい恋へとまた歩き出すのだ。
そろそろ来る時間だ。
千羽子は唯一の情報である出会い系アプリのプロフィールにあった彼の写真を思い出していた。
黒髪で短髪。
笑うと目尻にシワができる。
白い歯がきれいで、若々しい同い年の男の子。
関西弁だけれども東京で働いている。
声は電話ではたくさん聞いてきた。
本物はどんな人なのだろうか。
身長は思っているよりも高いのだろうか。
恋に近いような感情が何処にいこうかと自分のなかでさ迷っている。
「ちーちゃんさん?」
後ろから声がした。
この呼び方をするのは、一人しかいない。
ついに、きた。
このときが。
千羽子はごくりと唾を飲み込んで、声がする方へ向き直った。
そこにいたのは、大鷹くんだった。
齢40の男性でも、それ以上の歳をした誰かでもなかった。
写真からそのまま出てきたかのような青年は身長が180センチほどで、165センチの千羽子よりも遥かに大きかった。
写真よりも伸びてはいるが黒髪は風になびいてさらさらとその短さを見せていた。
白い歯はまだ見れていないが、素の表情でも目尻にシワができる。
黒目が大きくて、色が白くて、顔のどのパーツも整っている。
モデルみたいだ、というのが第一印象だった。
「あ、大鷹くん、、、?」
「あー!やっぱり!ちーちゃんさん全然写真と変わらんなぁ。すぐ分かったで。すまんなぁ。待った?」
「いいえ、全然」
「なかなか恵比寿なんて来ることなくて、駅ついてから迷ってしもて、かんにんな」
ごめんとポーズするその仕草がかわいいな、と感じた。
無邪気で素直で裏表がなくて、周りを元気にしてくれるオーラがある人なんだ。
黒野プリントTシャツをさらりと着こなして、ボトムはきれい目なじーんずでまとまっていて、清潔感を感じる。
万人受けするのその出で立ちは、ほんとうにどこかの雑誌の撮影を終えてきたモデルのようだ。
道行く女性も大鷹くんのことをちらちらと見ているのが分かる。
みんな、女の目をしている。
この人がサクラでも、今日の私は満足だ。
こんなかっこいいひととお酒を交わせるだけで、こっちからお金を払ってもいいくらいだ。
「ほな、いこか」
「あっはい」
大鷹くんはそう言って目尻にシワをしたためながら指で方向を指差して私をエスコートしてくれた。
この人と付き合えたら、きっと幸せだろうな。
誰もがそう思うだろう。
私はますます彼の魅力に惹かれ始めていた。
「ちーちゃんさん、ビールでええか?」
「はい」
私たちが行ったのは小洒落たイタリアンでも照明が暗いバーてもなく、鉄板焼の店だった。
どうも大鷹くんは仕事終わりでお腹が減っていたようで、がっつり何かが食べたかったようだ。
私も昼を食べ損ねていたので快く承諾した。
「せやなー、ちーちゃんさん食べれへんのある?」
「あ、ないですよ。何でも食べます私」
「ほえー、最高やな。じゃあ、豚玉と紅しょうがのもんじゃでええか?」
「はい」
完全にテンポは向こうだ。
向こうのテンポに乗っかっている。
しかし、不思議と嫌ではなかった。
なぜか安心感がすごい。
千羽子はまじまじと大鷹くんを眺めたいと思ったが、恥ずかしくて目を見ることが出来なかった。
代わりに木のテーブルの上で組まれた血管が浮き立つたくましい両腕と視線を合わせていた。
「ちーちゃんさん、思ってたよりも素敵な人やな~」
「いきなりなんですか」
思わず視線を上げて彼の顔を見る。
整ったその顔はいつまでも見ていられるようだった。
「いやー、何て言うたらええか分からんけど、こう、なんやろ。がっついてないっちゅうか、ぎらぎらしとらんというか、俺が安心してしまう感じやわ」
「それってどういうことですか」
「誉めてんねん。なんちゅーか、他の子は色目でよく俺のこと見とんねん。自分でも分かるんやけど。次の瞬間食ったろうかみたいなな。でもちーちゃんさんは、ちゃうねん。こう、なんちゅーかなぁ、お母ちゃんみたいな!」
「お、お母ちゃん?」
「せや。せや。俺、お母ちゃんおらへんけど、お母ちゃんいたらこんなかんじかなーって。一緒にいるだけで、癒されるというか」
「大鷹くんって変わってますね」
「はは、よう言われるわ」
あって早々にお母さんみたいだと言われ、いきなり恋愛対象ではないと宣言された女の子の身になってほしい。
せっかくの私のキラキラした気持ちが台無しだ。
「あ、勘違いしとらん?お母ちゃんはもちろん誉め言葉やで。俺、ちーちゃんさんかわいいと思うし、タイプやもん。だから連絡したんやし」
ボッと自分の顔が熱くなるのが分かる。
真正面から初対面にこんなことを言われたのは初めてだ。
「嘘でもありがとう。サクラですもんね」
空きっ腹にアルコールが染みて少し酔った私は口も少し滑ったようだ。
「え?なんやて?」
「アプリの。あのアプリの、本当はサクラなんじゃないですか。こんなに顔が整っててノリが良くてすぐ会ってくれる人なかなかいないと思います」
むっとした表情をされて私はハッとなった。
「ごめんなさい、気分悪くされましたよね?」
「ちーちゃんさん、あのアプリで他に誰かとおうたことある?」
「いや、ないです」
「ほんなら、俺と同じ」
「え?」
「俺もちーちゃんさんが初めてやで。俺が言えるのはそれだけや。あとは好きに思ってな。俺はサクラちゃうけど」
「ごめんなさい」
きっとこの人は違う。
こんなに素直でまっすぐなひとが嘘をつくはずがない。
もしもそれが嘘であっても、きれいな嘘だ。
ひとを幸せにする嘘だ。
「ほんで、ちーちゃんさんもやなことあったんやろ?」
「そうなんです。ちょっとまだ傷が癒えてなくて話せないんですけど」
「おうおう。ええで無理して言わんくても。気が向いたとき教えてな」
「ありがとうございます」
この人はどうしたらこんなにひとに気遣えるのだろうか。
どんな教育をしてどんな親が育てればこんなに立派になるのだろうか。
「それよか今日は飲もうやー。俺給与日やねん。おごるでー」
「いいですよ、私も働いてますし」
「おー言うねぇ。さすが銀座のOLさんはちゃうなぁ」
「そういえば、大鷹くんは何のお仕事されてるんですか?」
「大鷹」
「え?」
「大鷹。呼び捨てでええよ。それに敬語やめーや。せっかく仲良うなってんのに」
「あ、仕事の癖で」
「ちーちゃんさんは真面目やなぁ。きっと親がしっかりしてたからやな」
「いや、私母子家庭ですよ」
「そうなん?俺は父子家庭やねん。似とるなぁ」
そこから私たちは片親の辛さをお互いに共有した。
お互いに少なからず幼少期に傷を抱えていて、それがより接近するきっかけとなった。
店内かお客さんで賑わうにつれて、私たちの会話も盛り上がっていった。
「せやねん。俺、多分やけどお母ちゃん死んでんねん。もしかしたらやけど、お母ちゃん、俺を生んで亡くなったんやないかなってずっと思ってて。父ちゃんに聞いても父ちゃん何も言わんし、写真もなければ何もない。ばあちゃんに聞いてもはぐらかされてばっかり」
大鷹くんは勢いよくジョッキに残ったビールを飲み干した。
「私はお父さん知ってるし会おうと思えば会えるけど、何故か別居した理由をいってくれなくて。いつか教えてくれるかなって思ってもう24歳になっちゃった」
体がアルコールで火照っているのが分かる。
いつもはこんなお酒の量じゃ酔わないのに、空きっ腹が仇となっている。
「24かぁ」
大鷹くんが遠い目をして言った。
「そういえば俺に姉ちゃんいたような気がするん」
「姉ちゃん?」
「せや、姉ちゃん。俺より4つ上やって。でも誰に聞いても答えてくれへんし、自分で調べたらあかん気がして勇気でえへんのや」
「そうなんだ」
私は何て言ったらいいか分からなかった。
「でもな、俺がもし誰かと結婚したら、親族全員呼ぶことにしてるさかい、そんときに母ちゃんも姉ちゃんも来てくれる気すんねん。てか呼ぶねん。父ちゃんにごっつ頼んでな」
そう言う大鷹くんは生き生きしていた。
悲しい話なのに、それっぽっちも感じさせなかった。
それが彼の魅力だ。
「いるよ。きっと。早く結婚できるといいね」
私もビールの残りをさらに飲んだ。
「おおきに」
にっと笑った彼の顔はドストライクで私の好みだった。
いつの間にか注文していたお好み焼きともんじゃ焼きとその他おつまみは空っぽになっていて、混雑するお店のタイムリミットも迫っており、次のお店にいくことにした。
「時間大丈夫?」
「うん。以外と終電遅いから」
「ちーちゃんさん何駅?」
「わたし、北千住。大鷹くんは?」
「俺は小竹向原やで」
外は涼しくて流れた汗を優しく冷やしてくれた。
酔いもいい感じに回っていて、火照ったからだにもこの涼しさ快適だった。
その日私たちは長電話の延長戦のように、ひたすら飲んで話した。
幼馴染みが10年ぶりに再会し、会えない間の時間を埋めるようにたくさんの話をした。
そして呂律も回らないことが大笑いのネタになるくらいお互いに酔って、終電前には帰ろうと言うことになった。
「ふー、飲みすぎたなぁ」
確実に千鳥足気味になり、テンポよく歩けない。
心が解放的になり、自ずと声が大きくなる。
大鷹くんも声が大きくなり、呂律が回っていない。
「あー、ほんまに楽しかった。生きててよかったわ」
「おおげさだよ」
もう何倍飲んだかわからないが、とりあえず電車の時間だけは守っていて、なんだかんだ23時30分には恵比寿さまの像まで来た。
エレベーターが故障していたので、仕方なく階段で改札までいくことになった。
「酔っぱらいには辛いよー」
手すりを握りながら私は一歩一歩ゆっくり階段を登った。
「せやなー。膝に来るわー」
「なによー、まだ若いくせに」
「もう若くないわ」
はははははと笑った。
私たちの回りも時間帯のせいか酔っぱらいが多く、私たちが浮いていることはなかった。
むしろ回りはあたりも気にせずに抱き合ったりキスしたりと直視できない行為に及んでいたので、階段をゆっくり上ることなんて全然かわいい行為だった。
「また飲んでくれへん?」
「もちろんだよ。いつでも誘うよ」
「今日はほんまに、楽しかった。ありがとう。仕事がんばれそうやわ」
「わたしも。ありがとう」
本当に楽しかった。
いやなこと、すべて忘れた。
安心したら、ふっと一瞬だけわたしの集中力が切れた。
わたしは思わず階段を踏み外した。
次の瞬間、目の前に大鷹くんの顔があった。
たまたま後ろにいた大鷹くんが階段を踏み外した私の体を支えてくれた。
しかし大鷹くんも酔っていたので、いつのまにかバランスを崩してお互いものすごく近い距離まで顔が近づいてしまった。
長いまつげ。
綺麗な黒目。
無造作に流れる前髪。
筋のとおった鼻。
柔らかそうですべすべした唇。
大鷹くんの体臭のような甘い香り。
一瞬にしてすべての情報が体に入ってくる。
恋人であればキスをする距離だった。
もしもここで私が遊び心を出していたら、きっとキスできる。
酔った勢いと言えば、あの唇に私の唇を重ねることだって容易い。
その距離まで来ている。
人差し指一本分の距離は、縮まりも離れずもせずそのまま少しだけ時間が流れた。
角度を変えればすでにキスをしているカップルだった。
しかし、お互いに距離をとった。
「すまん」
先に言葉にしたのは大鷹くんだった。
「ごめん」
そしてすかさず私も続いた。
「いこか」
「うん」
お互いに考えていることが同じなのか、改札までの道はなにも話さなかった。
改札の前まで来たときに、大鷹くんは手を振った。
「すまん、今日はここまでしか送れへん」
「ううん、ありがとう。逆方向なのにごめんね」
「俺こそごめんな。なんとなく、これ以上ちーちゃんさんといると、俺が俺を止められんようになる」
「え?」
「さっき、なんでかわからんけど、“今はしたらあかん”って思った。今日で終わりにしたくないし、嫌われたくないから」
「わたしも、同じこと思ってた」
そう言うと大鷹くんは目尻にたくさんシワをつくって笑顔で「よかった」と答えた。
「だから今日はここで我慢。良かったらまた連絡してな」
「する。する。絶対する」
「あ、電車きそうやで」
「ありがとう、また連絡するね!絶対」
「おおきに。待っとるで」
私は姿が見えなくなるまで手を振り、ホームまでの階段をかけ登った。
あのとき、キスしていなかったから、いまこうして幸せな気持ちで帰れる。
もしあのとき、キスしてしまっていたら、もう二度と大鷹くんには会えない。
気持ちが同じと言うだけで何とこんなにも心が満たされるのだろうか。
帰りの電車で大鷹くんに連絡をした。
そして家に帰ってからも電話をした。
もう止められない。
止まらない。
彼が好き。
大鷹くんが好き。
もっと彼のことが知りたい。
もっと私のことを知ってほしい。
空っぽだった私のなかは、いま大鷹くんで一杯だった。




