暗闇の中の投げやりな私が向かう先
千羽子は、昔のことを一通り思い出して、疲れたを感じたのか、しばらくベッドの上から動かなかった。
久々に見た、好きだった人。
変わらぬあの容姿を一目見ただけで、すべてが過去から現実のことに引き戻されたようだった。
まるで、明日また船橋オフィスに行けば、松谷さんがいて、また車で北千住まで送ってくれるような、そんな気さえしてくる。
そんな未来はもう二度と訪れないし、訪れてほしくない。
千羽子は前に進みたいのだ。
もうこれ以上、松谷さんに邪魔はされたくない。
ぐるぐると心の中で、なにかが渦巻いているが、その正体は自分でも分からなかった。
ただ、松谷さんに会ったことで、心がかき乱されているのは確かだった。
平穏だった心に突然刺さった鋭い矢は、急になかったことにはできない。
どんなに優れた薬でも治るのに少しは時間が必要だ。
悩んでいるのは、私だけなのだろうか。
そう思うとさらに馬鹿馬鹿しくなってきた。
私は松谷さんとの一連の事があったあと、しばらく仕事にも身が入らず、プライベートなんてなかったも同然だった。
折角新しい恋を探そうと心が上向いていた矢先に、出鼻をくじかれるような出来事があって、自分には恋愛は向いていない、自分は幸せになってはいけない人間だと毎日呪文のように唱えていた。
仕事を辞める、そんなことを考える余裕すらなかった。
毎日ただなんとなく、生きていただけだ。
それが時間の魔法によって、少しずつ少しずつ傷か癒されていった。
そして唯一の理解者で、事情を知る千葉ちゃんが、千羽子をどん底から救い出してくれた。
三村もなんとなく事情を察してくれていたのか、(二人は付き合っているから自ずと事情は筒抜けだとは思うけれど)事あるごとに、飲みや遊びに誘ってくれた。
そして、いつしか出会い系アプリで恋人を探すところまで元気が出てきた。
松谷さんにすべてを壊されたくない。
私の人生、たったあの数日でなかったことにしたくない。
千羽子は自分のなかにふつふつと沸き上がるものを今度は感じていた。
それは熱く、煮えたぎったような感情で、千羽子は久々に感じるものだった。
八つ当たりだ。
この感覚はあのときに、似ている。
そうだ、お母さんとお父さんが離れて暮らすと言われたときだ。
お父さんもお母さんも大好きだった。
このままみんなで、一緒にずっといられると思っていた。
しかし、ある日突然お母さんに「これからはお母さんと二人で暮らすの」と言われたとき、もやもやした感情をどうすればいいのか分からず、とにかくお母さんを叩いたり、大きな声で泣いたり、道端に寝転んだりした。
お母さんがお父さんと仲良くしないから、みんなで一緒に暮らせなくなった。
当時はそう思っていたが、大人になって、たまたまお母さんが電話で誰かと話しているのを聞いて、そうではないかもしれないと思い始めた。
お母さんに直接聞いたわけではないが、その電話の相手はきっとお父さんだった。
お母さんはお父さんにだけ使う声があるように思える。
心を開いた人にしか使わないような、やさしい甘えたような声だ。
そう考えるとお母さんがほんとうにお父さんのことが嫌なのであれば、すでに離婚しているははずだ。
現に二人はまだ離婚していないし、戸籍もそのままで別居という形になっている。
そういえば、最近お母さんと話していないなと、ふと思った。
そう思ったところで、自分から連絡はしないのだけれども、お母さんもいつか私の花嫁姿を見たいと思ったことはあるのかと、なんとなく疑問に思った。
そんなこと考えても、私がなくした「父と過ごせるはずだった日々」は戻らないし、母子家庭で育った事実は事実のままだ。
それでも生きていかなければいけない。
生きる理由はないけれど、死ぬ理由もない。
千羽子はようやくベッドから体を起こしたかと思えば、無意識に手にウイスキーの瓶を持っていた。
「変わらないな、自分」
松谷さんとの一件のときも、こうしてウイスキーを飲んでいた。
嫌なことがあればお酒に逃げる人間になってしまったようだ。
誰も癒してくれないけれども、お酒は無条件で私を受け入れてくれる。
お酒が恋人であれば、救われるのに、と思った。
千羽子はそのまま、またベッドの上に横になり、お酒が体に回るまで、アルコールを飲み続けた。
そして徐々に意識が遠退いていくのを感じて、目をつむった。
目が覚めたら、少しまともな現実が待っていてくれますように、と祈りながら。
起きると、まだ外は暗かった。
部屋の電気をつけっぱなしで寝たので、もう朝かと一瞬錯覚したが、携帯電話を見ると夜の2時25分ということが分かった。
気分は最悪に乗らなかった。
目に見えないなにか大きくて黒いものが、からだ全身にどっしりと重荷のように積まれている感覚がする。
今日の会社の予定を思い出してみる。
今日は幸いにも会議や訪問が入っていない日ということを思い出したので、有給を使って休もうと決意した。
ブラック企業に勤めているものの、体調不良のときには、休みはもらえる。
逆を言えば体調不良でなければ、有給休暇を使うようなシーンはやってこないというわけだ。
それにより、千羽子にはたくさん使われないで消化されていく有給休暇がたくさんあった。
それは他の社員も同じだった。
休んでも特にすることはないが、松谷さんが昔いた会社に行くことはなんだか今日だけは躊躇われた。
あの日から休みなく働いている自分をむしろ誉めてほしいくらいだった。
ただ、あのときに休んでしまうと、自分がかわいそうなもの、被害者ですといっているのと同じだなと思い、そう思われるのだけは避けたかったので、何としてでも休まずに出勤した。
そのがんばりの糸が切れてしまった。
だめだ。
せっかくの休みなんだし、楽しまないと。
今日からまた再スタートするのだ。
わたしは前に進むのだ。
そういえば、携帯電話に連絡が入っていたのを思い出した。
千葉ちゃんか、誰かか。
私は部屋の電気を消すためだけに体を起こして、壁に埋め込まれているスイッチを押した。
真っ暗な部屋はなんだか少しだけ千羽子を安心させた。
月明かりだけが部屋に差し込む静寂に包まれた部屋は、唯一の千羽子の味方のような気さえしてくる。
その形だけの安心感を感じながら、千羽子はベッドに戻って布団を被った。
ほんのり残された自分の体温で温まった布団が心地よかった。
携帯電話の連絡を確認する。
するとそこには、二件のメッセージが来ていた。
一件目は予想通り千葉ちゃんだった。
内容は「今度の土曜日飲みに行こう」だけだったが、そこが千葉ちゃんの優しさだと感じた。
あえて多くの言葉を残さずに、シンプルに伝えてくれたのが嬉しかった。
先ほど駅で発生した件を触れないところに、千葉ちゃんを思いやりを感じて感謝した。
「もちろん」と私も短く返してひとつ息を吐いた。
酔いもそぞろに、気持ち良くなっていた。
まどろみの中はどうしてこんなに心地が良いのか。
朝の二度寝が癖になるように、千羽子はまた眠りの世界に足を半分入れていた。
二件目のメッセージの相手は意外な人物だった。
「・・・大鷹くん」
出会い系アプリで出会った相手。
ひょんなことから直接やりとりをするようになり、千羽子の心のよりどころとなりつつある相手だった。
メッセージを開くと、大鷹くんの元気なメッセージが目に飛び込んできた。
「今日は仕事大変やったわ。なんだかうまくいかんことって立て続けに起こるもんなんやね。会社の後輩と飲みに行っていま帰りです。ちーちゃんさんはどんな1日やった?」
私だけが辛い思いをしていないことがわかり、心底ほっとした。
さっきまで世界で自分だけが孤独なんじゃないかと思っていたが、大鷹くんが嘘でもこうして私に弱音を吐いてくれるのが嬉しかった。
「今度、一緒に飲みに行きませんか」
自然にメッセージを送信していた。
それは、半分投げやりになった気持ちもあり、半分酔いで気持ち良くなった開放感からの衝動だった。
きっと酔いが覚めた自分が見ると、後悔することだろう。
しかし、私は前に進みたかった。
大鷹くんがサクラでも何でも良かった。
むしろサクラであれば、次の相手に移行することができる。
過去の不倫紛いの出来事よりは、ひどい結果にならないはずだ。
千羽子は前に進むために、出会い系アプリの相手と会うことにした。
それがどういう結果を生むのか、誰にも分からない。
しかし、ここから二人の運命は大きく動くことになる。




