いくら考えても、事実はその人の中にしかない
それから、松谷さんとは会うことはなかった。
厳密に言えば、会うことができなかった。
あの日を境に、私達は一生会うことを辞めた。
その方がお互いのためであると、思ったからだ。
そして、松谷さんは仕事を辞めた。
辞めたと知ったのは、すぐだった。
ある日いつものように船橋オフィスに伺ったとき、アルバイトの松戸さんからその事実を聞いた。
何でも、先日のトラブルで仕事への熱意がなくなってしまい、これ以上仕事を続けるのが難しくなったというのが松戸さんが聞いた理由らしい。
松戸さんは、聞いた理由を信じていないようだった。
「あんなトラブル、日常茶飯事なのに。私、この会社のアルバイト長いし、この業界も長いけど、今までトラブル一件で辞める人いなかったよ。塵も積もれば山となるで、これまでの鬱憤がたまってたのかもしれないけど」
「そうなんですね」
空っぽになったデスクには、まだ松谷さんが帰ってくるような雰囲気が感じられた。
私も、松谷さんが仕事を辞めたのは、仕事が原因でないことは、そうだと思っている。
恐らく、原因は、私だ。
あの日、夜遅く松谷さんから連絡が来た。
私は寝ていたので、その連絡に気がついたのは朝だった。
しかも、連絡は会社の電話に入っていた。
着信があって、折り返しをした。
会社の電話からかかってきたのであれば、会社の電話に返そうと思い、提示になってから着信を入れた。
きっと、「子供、大丈夫だったよ」という返事だろうと心のなかでは期待していたが、なんとなく胸騒ぎがするのを押さえられなかった。
「もしもし」
数コールで出た松谷さんの声は暗かった。
「もしもし、流山です。今大丈夫ですか。着信があったので折り返したのですが」
「あ、すみません、すぐ折り返します」
冷たくて、仰々しくて、知らない人と電話しているようだった。
「はい、分かりました」と言うと電話はすぐに切れた。
10分後、銀座のオフィスのデスクで事務処理をしていると電話がかかってきた。
「はい、流山です」
「あぁ、俺。松谷だけど、さっきはごめんな」
「すみません、私もタイミング悪くて」
いつもの松谷さんの声がした。
「ちょっと、あんまり長く話せないんだけど、聞いてな」
「はい、なんでしょう」
少し間があって、松谷さんは口を開いた。
「実は、奥さんが浮気を勘ぐっててさ」
ドクン、と親族に大きな鉛が当たるような痛みが走った。
「それでさっきまで、奥さんと話してて」
私はなにも言えなかった。
「ごめんな」
「いいえ、こちらこそすみません。奥さんとは大丈夫ですか」
「あぁ。なんとか、というか、何もないからそれだけ言って、今回は許してくれたんだ。なんでも俺の帰りが最近遅いからって」
「あー、はい。分かりました。わざわざ連絡ありがとうございます」
なんだ、良かった、とそのときまでは思った。
胸に刺さった鉛の玉が徐々に消えていくのを感じた。
ただ、あの日のことを「何もなかった」と言われたのは、しゃくにさわった。
何もなかったわけじゃない。
これから二人でまた楽しく過ごしていくのに。
何もなかったことにされたくない、とは思ったものの、そこはぐっとこらえて
「お子さん、大丈夫ですか」と聞いてみた。
「大丈夫」と、すぐ返事が来ると思っていた。
しかししばらくしても、返事はなかった。
「松谷さん?」
私は胸騒ぎが大きくなるのを感じた。
「ごめん、本当のこと、言うな」
松谷さんが重苦しい声で言った。
「実はさ、奥さんに全部ばれてたんだよ」
鉛が、大きな鉛が千羽子の頭をかちわる音がした。
「昨日、俺がトラブルにあった日、実は奥さんがたまたま船橋駅まで来てたんだ。それで俺が今日は遅くなるって連絡したとき、オフィスの皆にお菓子でもってことでオフィスに寄ったらしい。前も同じようなトラブルがあって、奥さんが気遣いでお菓子の差し入れしてたことがあって、その流れでオフィスに行ったんだ。でもオフィスに行っても、俺はいない。松戸さんに聞くと、トラブルは無事収まって、さっきちょうど顔を出したところですよ、と。奥さんは安心して船橋駅に向かった。そこで俺を見つけた。俺と流山が一緒に車に乗り込むところを見た。そして、確信をしたらしい。それでも奥さんは待っていた。もしかしたら、社員の子を近くの営業先に送る途中なのかもしれない、とかいろいろ考えながら。しかし、待てど暮らせど連絡がない。そこで意を消して電話をした。子供が病気っていうのは嘘だ。奥さんが苦し紛れに使った嘘だった。本当はただいつ帰ってくるかだけ聞きたかったみたいだったけれども、俺の声を聞いたときに、何としてでも帰ってこさせないとって思ったらしい」
松谷さんの言葉は、なんだかどこかのテレビのはなしか映画の話のように思えた。
「すみませんでした」
それが私から出た言葉だった。
「いや、謝るのは俺の方だよ、ごめん」
「いいんです、私もわがままだったので。本当は電車で帰ればいいところを」
「…ごめんな」
思い詰めたような声だった。
「あとさ」
「はい」
「もうひとつ言わないといけないことがあって」
「なんですか」
今度はさっきよりも長い沈黙だった。
長い長い間の中、私はただただ松谷さんの声の続きを待っていた。
「ごめん、もう会えない」
再び大きな痛みが千羽子の心を駆け巡った。
今度は体ほどある大きな刃物で体を割かれたような痛みだった。
「奥さんから、言われて。私をとるか、流山を取るか。流山にまた会うのであれば、会社に事実を伝えて離婚するって。子供の親権も向こうがとるって。それにこれ以上流山と会うと流山に裁判も起こすとか言っててさ。ごめん、そういう話になって、ごめん…」
後半、松谷さんか何かを言っていたが、千羽子にはどんな言葉も残らなかった。
「ごめん、本当に。こんなことになって」
「いいんです。いつか、こうなるんじゃないかなって思ってたので」
突然の別れだ。
「ごめんな。でも、流山のこと、本当にいいなって思ってたんだ。それはほんとだから。ごめん、元気でな。そろそろ戻らないと」
「私こそ、ありがとうございます。また会社で」
その言葉には返答せずに、電話は切れた。
その日、仕事は一切手につかなかった。
船橋でのプロジェクトも後半戦で、進捗も順調だったので、次に船橋オフィスを訪れたのは、あの電話があった日から3日後だった。
私は松谷さんの「もう会えない」を「もう二人きりでは会えない」と解釈していたので、オフィスでは普通に顔を会わせられると思っていた。
しかし、松戸さんから告げられたように、松谷さんはすでに会社を退職していた。
きっとそれは、私と一生会わせないように奥さんと相談した結果なのだと、世間を知らない千羽子でもすぐに分かった。
唐突に告げられた別れ。
社会的にも断絶された関係。
他人を巻き込んだ騒動。
一生忘れてはいけない事実。
千羽子は、大人になろうと必死だった。
松谷さんを忘れようと、躍起になって仕事に励んだ。
その代償として、千羽子は出世した。
後に、松谷さんも次の決算で拠点長になる予定だったことを知った。
誰もが松谷さんの退職に驚き、悲しみの声をあげて、なぜ退職したのかと議論をしていた。
そんな議論、しても無駄なのに、と千羽子は松谷さんの名前を聞くたびに彼の笑顔を思い出したり、手を握られたこと、キスされそうになったあの日を思い出し、胸に痛みを感じていた。
千羽子だけは、真実を知っていた。
結局、松谷さんは千羽子ではなく、奥さんが好きだったこと。
千羽子のことは、都合がいい相手だったこと。
それは分かりきっていたが、改めて今回の事実という形で告げられると、胸につっかえるものがある。
この事実を私の課長は知っているのだろうか。
この会社に松谷さんを引っ張りあげ、松谷さんを立ち直らせた本人はこの事実を知っているのだろうか。
それは、課長にか分からない。
私から言わないことがせめてもの、最後と優しさだ。
風のように駆け抜けた千羽子と松谷の恋と呼べるか分からないこの関係は、一瞬で終わりを告げた。
しばらくは、千羽子の胸を事あるごとに締め付けていたものの、時間の経過が痛みを和らげてくれた。
悼みが無くなったタイミングで、親友である千葉ちゃんにだけはこれまでの話をかいつまんで教えた。
そうしなければ、千羽子はひとりで抱えてつぶれてしまっていた。
千葉ちゃんは、三村からドイツ村の話も聞いていたこともあって、まさかとは思っていたが、そのまさかが的中して心底呆れていた。
しかし、出会い系アプリではあるが、新しい恋を見つけた。
リハビリにはもってこいの、サクラ紛いの相手との疑似恋愛だが、千羽子にとっては大事だった。
その矢先に、突然また松谷さんと会ってしまった。
これは何のお告げなのだろうか。
何の罰なのだろうか。
さらに辛いことに、松谷さんはまた同じことを繰り返しているようだった。
スーツを着ていたので無事に再就職はできたようだが、若い女性とあんな風に身を寄せあっていたのは、見るに耐えない。
千羽子よりも親密に、体を触れ合わせているのは千羽子への当て付けにも感じられる。
きっと、松谷さんははじめから女の子とああした関係を持つ人だったのだ。
それに気がついていなかったのか。
それとも、まだ千羽子を思って、相手を探しているのか。
考えても、事実はその人のなかにしかない。
千羽子はようやく抜け出せた穴に自ら入り込んでしまって、抜け道が見つけられずにいる。
こんなときこそ、お酒を飲もう。
千羽子は無意識のうちにウイスキーの瓶を持ち、蓋を開けて、口に直接着けて飲み始めた。
どうか、どうか、お酒が覚める頃に、すべてが終わっていますように。
どうか、どうか、お酒が覚める頃に、少しだけ強くなった自分に会えますように。
しばらくして、千羽子はベッドに飛び込んで深い眠りについた。




